第二 財の問題

藤井武

一 金を愛するこころ

(一)

何時の代においてもそうであるが、殊に近代の人々は、総じて或る悪性の病気に取り附かれている。しかも彼らはみずからそれを自覚しないだけに、そのみじめさは一層甚だしい。

病気とは何か。利益を愛するこころである。利慾病である。

その症状は色々の形において現われる。まず第一には、損得の意識の鋭敏さである。今の人々は道徳的正邪の問題については、驚くべく冷淡かつ遅鈍である。屡々社会の指導者階級にある人たちが、時に問題となれる自己の大いなる非行について、「自分はその事の道徳的に正しいか否かを知らない」などと公言するのを聞いて私はただ呆れる。謎にしては余りに真顔であるから。何という恥無さであろう。しかもちょうど此の道徳的意識の鈍感さに比例して、利得もしくは損失という経済的意識においては、今の人々――我ら――はまた余りにも熱心かつ敏感である。我らは事に当たりてじきに打算する。そうしてとにかく損をすまいと努める。もし不幸にして損をせんか、たとえそれがただ一区の電車賃などであっても、「損をしたナ」と忘れず意識するのである(都合のわるき時には小さき虚言の一つぐらいを発しても平気でいながら!)。実に今の人々の口に「損」とか「得」とか「やすい」とか「高い」とかいう言葉がいかに頻繁に上ることよ。殊に無限を慕い永遠をおもうべき青年たちが、事もあろうにこのような発言をなして顧みないのを見るとき、自分は泣きたくなる。

或いは利益提供が人を動かす力の大いさを見よ。現代の社会における最大の実力は何か。勿論正義ではない。言うまでもない。さりとて権力でもない、現代人は国家や上層階級やの権力と闘うには割合に勇敢である。然らば何か。女色か。それは確かに昔ながらの恐るべき勢力ではある。しかしそれにも尚まさって、さながら呪術まじわざのように現代人を動かさでは已まぬものこそ、実に「金」である。金の前には、政治家もない、学者もない、天才もない、処女もない、みな動く。みな買われてゆく。どうだ、あの雑魚ざこよりも安い代議士どものざまは。ざるから笊へと、よくもつらさえ隠さずに!痰を吐きかけてやったとて足りるものでない。また近頃の山師的出版業者に見くびられながら買われてゆく学者ら!何という事であろう。自分の一友人はこれを映画のスターになぞらえたが、しかし本来の俳優ならばまだしもである。いみじくも真理を愛する筈の学者ではないか。ああ、禍いなるかな、なんじらは真理を金に代え、かつは霊魂をさえ売る。ただし汝らの真理はもとより真理ではなく、汝らの霊魂は霊魂でないというならば、それまでの事。

もう一つ、宗教界の事を例に取って見る。殊に基督教界の事。自分はなるべく悪口を言いたくない。しかし事実は蔽うべからずである。見よ、功利的なる牧者の伝道。見よ、功利的なる羊の信仰。見よ、功利的なる教会の福音。

牧者たちはどんな精神を以て伝道しているか。真理の単純なる証明というような気持は薬にしたくもない。念とするはただ結果である。一人でも多くの信者を造ること――名義だけでよろしい――但し自分の教会には属して貰わねばならぬ――ただそれだけの事である。どこまでも結果本位である。動機や手段は措いて問わない。信者製造のためならば何でもする。宣伝もすれば、掛引もする、輿論の後押しもすれば、政府の提灯持ちもする。全く儲けのためには何でもするという商買根性そのものである。今の伝道はみな商買である。「その商品は人の霊魂なり」と聖書にある通りである(黙示録一八の一二、一三)。

牧師が商人ならば教会員もまたそうである。彼らは何のためにキリストを信ずるのか。栄光を神に帰せんがためか。それとも「義のために責められ」「聖名のために辱しめらるるに相応しき者」とならんがためか(マタイ五の一〇、行伝五の四)。断じて否。彼らが主を呼ぶは、ただ自分の煩悶を取去られんがため、ただその病気を癒されんがため、一言にしていえば、何かの利益を得んがために他ならない。利益のための信仰である.すなわちまた商買の一種である。

そうしてそれは無理もない次第である。何となれば彼らの信ずる福音そのものが「功利の福音」であるから。偽の預言者たちは、彼らに媚びんがために、いつも説くのである、いわく「敬虔は利益の途である」と(前テモテ六の五)。かくて牧師も信者もみな教会に集まりて共々に「神の家を商買の家」となしている(ヨハネ二の一六)。

数おおき基督教の雑誌を見よ。いわゆるジャーナリズム即ち雑誌的商買根性がいかに根深くも喰い込んでいることよ。その記事の選択から文句の使い方にまで現わるる「売らんがため」の心づかい!ああ厭らしい哉。もし読者の数を求むべくば、何ぞ去って大衆文芸の仲間入りをせざるや。キリストは彼の名を資本に商買せよとは告げたまわなかった筈である。

商買また商買。宗教も商買である、教育も商買である、芸術も商買である、政治も商買である。この故に既に政商があり、今やまた学商があるという。あに芸商、宗商がなかろうや。まことに我らは問いたい、今の世に商買ならざる何ものがあるかと、または商人ならざる何人があるかと。世界は大きな市場であり、人々はみなバラムの子である。彼らのひとみはいつも利益に向けられている。彼らの耳には断えず金のひびきがある。ああ、金!金!金!鹿の渓水を慕うがごとくに、わが兄弟たちは金を慕う、光る金をぞ慕う!光る金をぞ慕う!

(二)

もし右のごときが事実であるとしたならば(誰がそれを否定し得ようぞ!)然らばまさに大きな問題ではないか。

まずそれが正常な状態でないという事、すなわち病的であるという事には、何人も異存はあるまい。神を知ると知らざるとに拘わらず、利慾を卑しむこころは人類に固有である。それは我らの良心に鉄筆をもて刻み込まれている。如何なる功利主義の哲学を以てしても、この自然的律法を掻き消すことは出来ない。

試みに一つの場合を仮定して見よう。ここに二人の人がある。甲は正義のために利益を犠牲にして生き(或いは死ん)た。乙は利益のために正義を蹂躙ふみにじって生きた。見る人の目にどちらがノーブル(高貴)であるか。問うまでもない。

次に今一人ありて、この者(丙)は正義とともに、利益をもあわせ完うしたとしよう。然るとき、最も羨望せらるるものは恐らく丙であろう。しかし尊敬のこころに至ってはおのずから異なる。甲と丙とを比べて見ても、尊敬すべきはやはり丙でなくして甲であろう。けだし正義は利益と離れる時にその光が最も強いからである。

このように、人みな生まれながらに利慾を卑しむことを知っている。然るにも拘わらず、自らは大事そうに之を抱いて離さないのは何故か。その大いなる理由の一つは、彼らが未だ利慾そのものの悪性のほどを解しない事にある。

聖書はいう、

それ金を愛するは諸般もろもろの悪しき事の根なり。(前テモテ六の一〇)

何という判然はっきりした、しかも常識的な言い方であろう。金を愛するその事がただに一つの悪しき事であるばかりでない。それだけならばまだ始末がしやすい。しかし問題はもっと遥かに深刻である。我らが愛銭の心をいだく時に、我らは実は恐ろしいものを抱いているのである。「諸般の悪しき事の根!」あらゆる害悪の卵!それが一たびかえるときには、どんな怪物がそこから現われてくるかも知れない。およそ罪または禍ならば、何でもその中にひそんでいるというのである。

そうしてそれは事実ではなかろうか。人は昔より今に至るまで、金のために偽り、欺き、争い、憎み、誼い、虐げ、叛き、裏切り、また殺しつつある。我らは日毎にそれを見聞する。余りにも平凡なる出来事である。けれども惨ましさの限りである。いかに美しい友情がこの一つの虫のために朽ちしぼむか。いかに立派な人格がこの一つの毒のために腐りはてるか。実に吾れ人の胸に金を愛する心があるばかりに、我らの世界の日々に受けつつある創痍いたでの深さは到底人の思いに過ぎて、言いつくすべくもない。

何故に然るか。何故に金の愛はかくも諸般の悪しき事の根であるか。答えていう、金を愛する心は必然神を憎む心であるからである。

人は二人の主に兼ね事えること能わず、或いはこれを憎み、かれを愛し、或いはこれに親しみ、かれを軽しむべければなり。なんじら神と富とに兼ね事えること能わず。(マタイ六の二四)

神か、金か。二つに一つである。我らは何れかを選ばねばならぬ。これを愛しながら、かれにも親しむことは、事実が許さない。なんじ富に親しむか、然らばキリストを軽しめざるを得ない。なんじ金を愛するか、然らば神を憎まざらんと欲するも能わない。バラムをおもえ、ユダを憶え。すでに神を憎む。すでに一切善の根源に叛く。何の悪しき事かそこに芽ぐまなかろう。金ゆえの残酷きわまる罪、慾ゆえの浅ましきかぎりの姿、一つも怪しむに足りない。

或いはいう、しかし十戒第七条の罪のごときは、貪りからは出て来ないと。必ずしもそうは言えまい。利慾と淫行とは決して縁のないものではない。我らはこの両者が屡々一体のように相絡んで同一人格の中に巣くうていることを実見する。現代日本の政治家たちなどがそのき見本である。かくのごときやからを指してペテロはいった。

その目は淫婦にて満ち、罪に飽くことなし。その心は貪欲に慣れて、呪誼のろいの子たり。(後ペテロ二の一四)

この場合において淫慾と貪慾とは姉妹であるか、母子であるか。何れにしてもその関係は極めて密切であって、断ち切ることのできるものではない。実際上、二者はひとしく神からの離反である。従って互いに因をなし果をなす。実に淫貪両慾こそは、人生諸般の悪事の双根である。すべての罪と禍とは、大抵その何れかから出発する。

この故に聖書は我らに対し一方においてしきりに清潔の生涯を薦めると共に、他方においてまた簡易の生活を説いてやまない。

我らは何をも携えて世に来たらず、また何をも携えて世を去ること能わざればなり。ただ衣食あらば足れりとせん。(前テモテ六の七、八、へブル一三の五参照)

これまた平凡なる事実に訴えての大真理である。我らにとって無くてならぬものは何であるか。生まれて来た時のことを憶え。また死んで往く時のことを思え。我らは金を携えて世に来なかったのである。我らは富を携えて世を去ることは出来ないのである。富といい金という、みな我らの存在から離れた外側のものに過ぎない。我らは富なく金なくして生死することが出来る。我らの存在はただ霊魂と身体とにある。霊魂はもとより物資に倚頼しない。また身体のために無くてならぬものは衣食だけである。然らば如何。我にもし寒さ暑さを凌ぐの衣があり、今日一日を繋ぐの糧があるならば、すなわち足れりである。何ぞまた重たげなる金銀を要しようか。文化住宅と海浜別荘、株券債券と銀行預金、山林田野と名什珍器、そんなものが何になるのか。天国の何処にそれを積んで置けるのか。すべて己のために財を貯え、しかして神に対して富まぬ者にむかい、神は言いたもう、「愚かなる者よ、今宵なんじの霊魂とらるべし。さらば汝の備えたる物は誰がものとなるべきぞ」と(ルカ一二の一六―二一)。まことに人の生命いのち所有もちものの豊かなるには因らないのである。我らは所有において富まずして、生命そのものに於いて豊かならんことを欲する。

勿論富はそれ自体において悪ではない。しかしこれを慕うとき、我らの心は必ず神から離れる。故に富まざる者は富まんと欲するなかれ。

富まんと欲する者は、誘惑まどわしと罠、また人を滅亡ほろび沈倫ちんりんとに溺らす愚かにして害ある様々の慾に陥るなり。(前テモテ六の九)

富める者は「惜しみなく施し、分け与えることを喜ぶ」べきである(前テモテ六の一八)。

まことに汝らに告ぐ、富める者の天国に入るは難し。またなんじらに告ぐ、富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反って易し。(マタイ一九の二三、二四)

まことに富そのものは罪ではない。しかし今の世にありて、罪なくして財の蓄えらるる途が果たしてあるか。数えがたきほどの飢える者、凍える者が所在に横たわるとき、ひとり箪笥の中に衣をむしばましめ、長持の中に金銀を錆びさせて、なおかつ晏如あんじょとして在るがごとき者は、まさに人道の敵ではないか。

聴け、富める者よ、なんじらの上に来たらんとする艱難なやみのために泣きさけべ。汝らのたからは朽ち、汝らの衣は蝕み、汝らの金銀は錆びたり。この錆なんじらにむかいて証をなし、かつ火のごとく汝らの肉をわん。汝らこの末の世に在りてなお財を蓄えたり……汝らは地にて奢り、楽しみ、屠らるる日にありて尚おのが心を飽かせり。(ヤコブ五の一―五)

(三)

以上は広く人道の上から、一般の人についての考察である。しかしこの問題は更にこれを基督者の立場において取扱うとき、一しお厳粛なる意義を発揮し来たるを見る。

基督者とは誰であるか。キリストを信じて彼と結びついた者である。是のごとき者はその生死をキリストと共にする。即ちキリストと共に十字架に釘けられて死に、また彼と共に復活させられて生きるのである。かくてすべての基督者は必ずや一たび此の世に対して死んだ者でなければならぬ。此の世あるいは此の世に属するものに対して全然興味を失った者でなければならぬ。此の事はやがて彼の現在の生命が全く新しきもの、すなわち永遠の生命そのものである事の消極的証明であって、基督者としては根本的の条件でなければならぬ。

しかるに金または富の所属はいづこにあるか。かかる虫くい錆くさり盗人うがちて盗み得るところのものが、勿論天の財宝である筈がない。金は地のもの、富は世のものである。従って之を愛するこころはいわゆる肉の慾または眼の慾の一種であって、純然たる「世を愛するの愛」に他ならない。かくのごとき心術を警めてヨハネは言った、

なんじら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば、父を愛する愛その衷になし。おおよそ世にあるもの、即ち肉の慾、眼の慾、所有の誇りなどは父より出づるにあらず、世より出づるなり。世と世の慾とは過ぎゆく。(ヨハネ一書二の一五―一七)

世と世の慾とは過ぎゆく。これを愛するものもまたともに過ぎゆく。財は朽ち金は腐る。これを慕うほど虚しきはない。かかる人は預言者エレミヤの言ったように、「しゃこのおのれの生まざる卵をいだくがごとく、その生命の終わりに愚かなる者となる」であろう。

果たして然らば、世に不似合なる事とて、基督者の金を愛するがごときはない。これを天の国から窺えば、神の子が永遠の生命をうち棄てて、蛆虫のごとくに糞土をいだくのである。これを地の側から見れば、葬られし死者がおめおめ墓から這い出して来て、再び歓楽の座につらなろうとするのである。いずれの立場よりするも、之ほど奇怪なる、之ほど見苦しき姿はない。

金を愛する基督者よ、なんじらもしキリストと共に十字架にけられて此の世に死んだのであるならば、何ぞなお世に生きをる者のように、朽つべき財に心惹かれるのか。

汝らもしキリストと共に甦らせられしならば、上にあるものを求めよ、キリスト彼処にありて彼の右に坐したもうなり。なんじら上にあるものをおもい、地にあるものをおもうな。汝らは死にたる者にして、その生命はキリストとともに神の中に隠れあればなり……されば地にある肢体、すなわち……むさぼりを殺せ。むさぼりは偶像崇拝なり。(コロサイ三の一―五)

何故に貪るか。何故に金が欲しいか。貧しさを厭うが故か。しかし主は祝福して言いたもうた、

福いなるかな、貧しき者よ、神の国はなんじらのものなり。(ルカ六の二〇)

貧しさの中ならでは経験しがたき祝福がある。殊にキリストの名のゆえに貧しさを選んだ者の為には、彼は特別の祝福を用意したもう。すなわちその貧しさを聖所として、そこに彼はおのが幕屋を張りたもう。貧しさゆえの彼との親しみである。けだし彼みずから「富める者にていましたれど、我らのために貧しき者となり」たもうたからである。貧しき者がキリストと親しむは易い。

然のみでない、我らはすでに神を父と呼ぶものではないか。我らは神の子ではないか。果たして然らば、また何の貧しさぞ。「地とそれに充つるもの、世界とその中に住むものとはみな我らの父のもの」である。そうして我らは彼の「世嗣」である。我らはやがて「地を嗣ぐべき者」。彼のものはみな我らのものである。然り、地とそれに充つるもの、世界とその中に住むものとは、みな我らのものである。父なる神は今も我らのために自由にこれを使用しつつありたもう。

そうではないか。もしそうであるならば、わが親愛なる兄弟たちよ、我らをして乏しき者のごとくに貪ることなく、却って無限の長者の世嗣のごとくにいと裕かなる心がまえあらしめよ。我らのひとりがかつて無産のどん底から力づよく呼ばわったように、我らは「貧しき者のごとくなれども多くの人を富ませ、何もたぬ者のごとくなれども凡ての物を有って」いるのである(後コリント六の一〇)。

さらば友よ、なんじの身分を自覚せよ。しかしてなんじの霊魂よりその古き病を振りおとせ。一切の財宝に対するなんじの関心を今日かぎり世に返却せよ。今より後、痕跡もなく銅臭を棄て去れ。損とか得とかいう語をなんじの語彙より駆逐せよ。たとえどんなに損をしてもいいではないか。キリストは我らのものではないか。友よ、再び孤児みなしごのような物ほしげな容子ようすをするな。むしろ古の詩人とともに呼ばわれ、いわく、

エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。(詩二三の一)

二 大いなるバビロンの商買主義と基督教国の貪婪

ミード(W. W. Mead)の黙示録第十八章註解抄訳

黙示録の第十八章は約そ半を注いで、「大いなるバビロン」の商業的偉大さ及び重要さを生々と描写している。その物語には戯曲的の力がある。此の象徴的都市の商買上の生活と活動とを叙述するに明細委曲をきわめる。疑いもなく一つはこの理由のゆえに、多くの註解者はこれを文字通りの都市の意味に取るのである。すなわち言う、バビロンは再建せられ、世界の商業的首府として、ロンドン又は其の他万国のいずれの都市をも凌駕するに至るであろうと。

しかしこの結論は取るに足らぬと我らは信ずる……すでに前章第十七章のバビロンが文字通りの都市ではないとすれば、本章のそれもまた同じ象徴的の「大バビロン」ではなかろうか。然り、ここに語るは依然として偽の教会である。すなわち「あんち教会」である。そうしてもしそのものと此の世の商買主義との関係さえ正しく理解せられるならば、本章の意味は直ちに明白となるであろう。之を正当に了解し得ぬ所以の大なるものは、我らがこの現在の主義(商買主義)の中に生まれ且つ生い立ったという事にある。我らはそれの法律や慣行に狎れた為に、それをさほど悪しきものとは思わなくなったのである。否、却ってそれ以上に善きものは望まれぬかのようにさえ考えるに至ったのである。すなわち習慣性の故に、また我らが之と親しみ、或いはみずから之に参与し之と提携さえするが故に、そのサタン的起源の証拠が見えないのである。我らの霊的盲目の故にそれの恐ろしい邪悪の大きさに気付かないのである。

世界はこの「今の悪しき世」(ガラテヤ一の四)について誇り且つ楽観している。どちらを見ても人々は「我らの立派なる文明」を謳歌する。しかるに幾百万の人類の崇敬と祈願とを受けるあらゆる偽の神々のうち最も有力なるものの一つは、マンモン(富の神)である。そうしてマンモン崇拝の真髄と精神とは、現代の商買主義において最もよく表われているのである。いうところの「商買主義」とは何か。我らの経済的、社会的、政治的、宗教的、理知的、および娯楽的生活に対するあらゆる無限の関係の中において、商買的の原理と方法とを決定するところの、その主義を意味する。けだし事実として、この商買主義こそは、職業や住居や衣服や食物や社交や教育や文学や快楽や、ならびに礼拝等に関して、すべての文明国の人々の思想と行動とを形づくるに有力なる要素である。商買主義は神の栄光を求めずして、人の中に「肉の慾、眼の慾、生活の誇り」を起こすことを求める.その目的とするところは、この世のもの――その富、その奢侈しゃし、その快楽――に対する飽くなき欲望を醒ますにある。それは情感を神から引き離して、物質的のものの上に置く。もしくは「自然人」すなわちまだ生まれかわらぬ人の血気的生活に仕えるところのものの上に置く。たとえば詩の第二十三篇に描かれるような、神における甘美なる平和と満足との享受から、霊魂を誘い、虚妄にして且つ陶酔的、狂乱的なる歓喜への烈しき追求に之を逐い出すことが、それの目的である。我らは商買または商業的生活にその固有の立場がないと言うのではない。商買そのものが本質的に悪であると考えてはならない。主イエスは自ら工人でありたもうた、またその手の製りしものを金に代えて売りたもうた。しかし今日の世界の商業的生活においては、一切の事が共謀して、神に関する思慮と追求とから心を惑わし、神の与えたまいしものについての不満足を養い、己のたぬものに対する欲求を募らすことを、誰が否定し得ようぞ。最も注意すべきは、すべて之等の事の然る所以は、この神秘的なる淫婦がその背後にありて、それと提携しそれを支配しつつあるが故であるとの事である。

然のみでない。右に語った諸の害悪は、人が好んで「我らの基督教文明」と称えるところのものと特別に合体している。今日の人類生活においては、基督教国以外の何処にも斯のごとき顕著なる特徴はない。その是あるはただ或る国民、たとえば日本のごときが、大いなる世界勢力たらんとの野心をもって同じ「憎むべきものの満つる黄金の酒杯」から飲み干しはじめた所、そうしていわゆる基督教国民が今やその為によろめきつつあるところのその淫行の葡萄酒に酔いはじめた所だけである。

エジプト、バビロン、ツロ、またローマ、いずれもその各自の時代において、同じ「悪優勝」を獲得した。しかしネロ治下の不信邪教の世の悪生活、悪慣行が名目のみの基督の徒――「見える教会」全体――を特徴づけるであろうと、聖霊が告げた通り(後テモテ三の一―八)、今やその時が来たのである。そうしてかつては古代の大いなる世界的勢力の特徴であったものが、今や現代の基督教国をすばらしきまでに支配しつつあるのである。しかも今日この狂気したる永年の酔狂行列の主なる導者たちこそ、実に基督教国たる大国民らである。人を酔わしめるものはただに強き酒に限らない。利益を愛するこころ、商買根性もまた酩酊の一形式であって、しかもその劣悪であり且つ一切善に有害であること、如何なる狂的飲料の酒杯にも劣らない。「これその持ち主をして生命を失わしむるなり」(箴言一の一九)。「それ金を愛するは諸般の悪しき事の根なり」(前テモテ六の一〇)。ユダがその師を裏切ったのは、このバビロンの葡萄酒に酔った時であった。今日同じ師に対する多数の弟子たちの裏切もまた、同じく富に対する渇きにこれを帰することが出来る。金銭の愛は人をして真理の証明に怯懦きょうだ臆病ならしめ、神の誡命への不従順に大胆活溌ならしめる。「金のため」という控訴院においては「全地の審判者」の判決は容易く覆されるのである。

聖書が示すところの悲しき事実によれば、神の預言者たちの陥りし主なる誘惑は、いつも利益の貪りであった。彼らはそのために強いられて、神の真理ならぬサタンの虚偽への証明を立てた。

たとえば、バラムは「不義の報いを愛し」た(後ペテロ二の一六)。

士師記十七章(八―一一)に記さるる偶像の祭司となりし若きレビ人は、実にモーセの曾孫であったらしい(士師一八の三〇)。彼が祖先の神から離れたのもまた金欲しさの故であった。

サムエルの子らは「利にむかい、賄賂まいないをとりて、審判さばきを曲げ」た(前サムエル八の三)。

イザヤ書五十六章乃至五十九章には、イザヤの時代にユダの王国に行われた霊的の暗黒と邪悪とが見事なる絵画に描かれているが、その主なる原因は神の預言者たちを捉えし商買根性にあったと見られるゆえに、一しお我らの研究に値するのである。「野の獣よ、みな来たりて食らえ、林におる獣よ、みな来たりてくらえ。斥候ものみはみな瞽者めしいにして、知ることなし。みなおしなる犬にして、吠えることあたわず。みな夢みるもの、臥しいるもの、眠ることを好むものなり。この犬は貪ること甚だしくして、飽くことを知らず、かれらは悟ることを得ざる牧者にして、みなおのが道にむかいゆき、いずれにおる者もおのおの己の利をおもう。かれら互いにいう、いざ、われ酒をたづさえ来たらん、われら濃き酒に飲みあかん。かくて明日もなお今日のごとく大いに満ち足らわせんと」(イザヤ五六の九―一二)。

邪悪と堕落との闇夜の中における之ら偽の預言者たちの「輝かしき楽観」は、おのが没落の直前なる恐ろしき背教の中における淫婦バビロンの楽観および空想的平安と、よく相通う。

しかもこの事態の責任はただに牧者たちの上にのみ懸らない.民がしかく欲望するのである――然り、彼らはそれを要請するのである(エレミヤ五の三一、イザヤ三〇の九、一〇)。預言者たちはその貪婪のゆえに民衆の要請に従うに他ならない。故にいう、「それ彼らは小さき者より大いなる者にいたるまで、みな貪婪者むさぼるものなり云々」(エレミヤ六の一三)。

以上のごとき情勢はただにイザヤ及びエレミヤ時代の事であるばかりでなく、殊に主の再臨に先立つ日々を預言するものであると、イザヤ書五十九章は教える。されば現代の末期を特徴づけるものもまた、同じ種類の牧者たちであろう。すなわち己の金銭関係については同じ注意ぶかき配慮をもち、そうして同じ致命的の楽観をいだいて、事態を如実に観察する事と、食いかつ散らさんために檻に入りこむ野獣どもに対して群れを警戒する事とには、同じく無能力または無誠意であるところの人々。

新時代の大預言者が語るところもまさしく是と一致する。いわく「末の世に、人々(すなはち名のみの基督者たち)おのれを愛する者、金を愛する者とならん」と(後テモテ三の二)。また「人々は健全なる教えに堪えず、耳痒くして、私慾のまにまに己がために教師を増し加えん」と(同四の三)。「己がために」の語に注意せよ。謂うこころは、之らの教師は神の使節たるよりも寧ろ人の奴僕であるとの事である――牧者でなくして傭人である。傭人は、小さき群れの中にかかる荒廃をはたらく所の偽の教師、また偽の教えと慣行と習俗とに対し、ラッパのごとく声を挙げて警めることをなさない――吠えることあたわぬおしの犬ども!「禍なるかな、彼らはカインの道にゆき、利のためにバラムの迷いに走れり」(ユダ一一)。

されば是のごとき時にあたり、商買根性がその最も惑わしき光輝と魅力との限りを尽くして発顕し来たることを、我らは期待せざるを得ない。

試みに当代における二三の実例を考慮せよ、然らば現時の商買主義はこの象徴的淫婦「大いなるバビロン」の被造物であり、その子であることが判明するであろう。そうしてもしこの小さき穿鑿せんさくに於いて、主なる犯人は基督教国民である事が知られるならば、それはあたかも聖書が予め警告する所であることを記憶すべきである。

さらば冷静に且つ正直に現代の商買世界の状態を眺めんに、何という恐ろしき憎むべきものを我らは見るではないか。何という奇怪なる社会的不平等!何という力強き圧制!何という驚くべき正義の枉屈おうくつ!何という不節制!何という暴虐!何という職業的生活における利益のための詐欺虚言!富者のためにヤコブ書五章一~五節の厳しき誡告を要すること今日よりも切なる時期がかつてあったか。いわく、「聴け、富める者よ、なんじらの上に来たらんとする艱難のために泣きさけべ。汝らの財は朽ち、汝らの衣はむしばみ、汝らの金銀は錆びたり。この錆なんじらにむかいて証をなし、かつ火のごとく汝らの肉をわん。汝らこの末の世にありてなおたからを蓄えたり。見よ、汝らがその畑を刈り入れたる労働人はたらきびとに払わざりし値は叫び、その刈りし者の呼び声は万軍の主の耳に入れり。汝らは地にておごり、楽しみ、屠らるる日にありて尚おのが心を飽かせり!」もしくは貧者がヤコブ書五章七―九節の忠言に耳傾くるの必要今よりも大いなる時がかつてあったか。いわく、「兄弟よ、主の来たりたもうまで耐え忍べ。見よ、農夫は地の貴き実を、前と後との雨を得るまで耐え忍びて待つなり。汝らも耐え忍べ。なんじらの心を堅うせよ。主の来たりたもうこと近づきたればなり。兄弟よ、互いに怨み言をいうな、恐らくは審かれん。見よ、審判主さばきぬし、門の前に立ちたもう」。

このバビロンの長女なる商買主義は悪事の限りなき形態を以て世界を満たした。その新聞と運送と旅行と取引と売買とを以てする主の日の褻涜せっとく、その良からぬ娯楽、その正しからぬ職業、その地獄のわざをなすための心身の汚辱。それは立法のやかたを腐らせ、正義の泉を汚す。また有害有毒のまぜものを以て我らの食料を毒つける。またキリストの使節たちの証明をもださしめ、もしくは之を濁らせつつある。

今日相互的不信頼を以てたがいに睨みあい、一が他よりも勝りて儲けはせぬかと懸念しつつあるところのものは、何れの国民であるか。彼らは主として基督教国民である。彼らはその得んと欲する所のものの故に、もしくは他の国民が彼らの所有を貪りかつ奪わんとするであろうとの恐怖からして、許多あまたの経費を投じ、莫大の災禍をその民に遺しながら、軍備を整え自らを武装しつつある。この商買的優勝権に対する飽くなきの渇き、この領土に対する――一国全体をも盗まんとするの――餓えは、確かに新しきものではないが、しかし今日それは目立ちて「基督教的」である。

更にこの同じ商買根性のために幾たびか神の契約の民なるイスラエルの迫害の起こったことを考え見よ。過去千五百年間のユダヤ人の迫害者は誰であったか。いわく背教的基督教国、いずれの場合にも。

今日支那幾百万のたましいが阿片の害毒のために誼わるるに至ったのは如何にしてか。商買的利益のために「基督教的」英国がこれを剣の刃につけて彼らに強いたからではないか。インドにおける阿片の取引もまた同じ黙示録十七、十八両章の象徴的婦人に感謝すべきであろう。

その残忍さは恐るべき奴隷売買にもまさると言われるコンゴー河の象牙並びにゴム取引は如何。之が憎むべき当事者は同じく名目上の基督教国民である。商買上の儲けの為である。

アフリカ、アメリカ、太平洋諸島の奴隷売買の関係者は誰であったか。これまた名のみなる「羔の従者たち」であった。

「地の商人ら」がアルコール及び煙草の商売によって得た莫大の富は、これを誰に感謝すべきであるのか。「彼らは彼女によりて富を致せり」。その生産者は基督教国であり、その消費者の大部分もまた基督教国である。

世界の列強が近ごろアフリカの異教国民および太平洋諸島に対するラム酒および火器の売渡抑制について共同動作を取ったのは何の故か。之らのものの心身有害性の故か。毛頭然らず、ただ之らのものがその民らを相手の彼らの商買に有害なるが故である。けだしラム酒および銃砲はかの国々の住民を絶やし、かくて彼らの商品の市場を損うからである。

合衆国において年々十万の犠牲者を酔漢の墓に降らしめるところの、いわんや悲哀と不幸、貧窮と堕落、また遺伝的傾向などを伴うところの、酒業を、法律によって容認し公許し保護するが如き文明の「基督教的」性質は、何と思惟してよろしきや(訳者註、この一項は制度としては今は当らないが、しかし精神に変わりはない)。

すべて地上の重要なる都市には、巨費を投じて維持せらるる消防署なるものがある。その装備は完全にして、訓練よろしきを得たる人馬をも備えている。一たび警鐘鳴るや、数秒もたたぬうちに凡ては発動し、失火の現場にむかってあわただしくも突進する。たとえそれが一棟の物置または厩舎の小火に過ぎずとも。然るにその同じ都市にまた大きな地区があって、そこでは殆ど各軒毎に幾つかの客間があり、その所にて人々は物置または厩舎ならぬ「身体および霊魂」に放火すべく法律により公認せられているのである!「基督教文明」はかくのごとき地獄の火を消す目的のためには何らの消防署をもたない。神の霊の住所たるべく建てられしこの宮の火災のために科学は何らの警鐘をも鳴らさない。「基督教文明」は却ってこれを焼け倒れしめ、且つこれに放火する者どもを保護するのである。何となれば「基督教文明」はこの不正なる商買からして多額の利益を挙げ、この「死の部屋」の特許からして収入を得るが故である。

基督教国以外において之に比すべきものはない――最闇黒の異教国においてさえも。すべてこれらの奇怪なる憎むべきものは、この大いなる「淫婦たちの母」の子であり、その娘なる淫婦たちである。怪しまるるは、神が彼女の焼かるる煙を更に速やかに挙らしめたまわぬ事である。

かかる間に、神は天よりの声をもって我らに呼ばわりつつありたもう、いわく「わが民よ、かれの罪に与らず、かれの苦難を共に受けざらんため、その中を出でよ」と。

〔第一〇二号、一九二八年一二月〕