第四 フランシス研究

藤井武

一 フランシスに於ける清貧及博愛の宗教的意義

アシシのフランシスは清貧の聖者として知られる。すでにダンテもその不朽の詩において彼を歌っていった。

そは、快楽けらくの門を誰しもこれに
 開かぬこと死に似たる「貴女」のため
 若く、かれは父の怒りを犯し、
かくてその霊の法廷のまえに
 父のまえに、彼女と相むすびて
 日に日にいやあつくこれを愛した。

しかし進みゆくにくら過ぎぬよう
 わが繁き語におけるこの愛人らを
 今よりフランシスおよび貧とは知れ。

ジオットもまたアシシの或る壁画に、フランシスがその新婦の手に指輪をはめ居る様を描いたという。新婦は薔薇の冠を戴いてはいるが、貧しき衣をまとい、足は石に傷つき荊棘に裂かれている。

かくのごとくにフランシスと貧とを愛人の関係として見ることは、詩人や画家の想像に始まった事ではなかった。それはフランシスみずからの創意であった。彼がなお若かりし日、その武人たらんと欲する願いは病気のために挫かれたが、同時に彼は今までの生活の態様を一変してしまった。友人たちは屡々元の享楽に誘ったけれども応じなかった。誰いうとしもなく、フランシスには愛人が出来たのであると噂せられた。それを聞いて彼は言った、「まことに私は妻を娶ろうとおもう。それは諸君が想像し得るよりも更に美しき、更に富める、更に純なる婦人である」と。

フランシスはいかにして斯くも貧を愛するに至ったか。すべての初恋物語と同じように、その消息は秘められていて知る由もない。何れにせよ、彼はこのひとりの貴女――誰しもこれに快楽の門を開こうとせぬこと恰も死におけると均しき――を獲んがために、あらゆる犠牲を払った。ダンテの歌った通り、そのために彼は父の怒りをも犯した。父は家名の辱しめらるるを怒り、彼を捉えて鞭うち、かつ古き階段の下の暗室に彼を押籠めた。その決意の動かしがたきを見、かつは同情のあまり、母は父の留守中に彼を解き放った。帰り来て父はいたく怒った。直ちに跡を追って聖ダミヤンの小さき寺院に突進した。しかしてその息子に勘当を宣告し、アシシの僧正のまえ(「霊の法廷」)にて相続権抛棄の誓いをなさしめた。フランシスはすべてを受入れた。そればかりでない、彼はまとえる外衣をさえ脱いで父に返納した。僧正は若人わこうどの熱情に動かされ涙しながら自分の法衣を伸べて彼を蔽った。僧正に召使わるる貧しき労働者が粗末なる外衣を彼に与えた。感謝して彼は受けた。これを着るとき喜色は彼の面にあふれた。「かくてこの天地の大王の僕は一切のものを棄てて、その心真実に愛するところの、裸にて十字架のうえに死にたまえる主に従った」とボナベンチュラは伝える。

フランシスは遂に貧を娶った。しかして日に日にいやあつく彼女を愛した。もはやわがものと称し得べき何物も彼にはなかった。文字通りに「帯のなかに金銀または銭をもたず、旅の袋も、二枚の下衣も、靴も杖も持たず」ただ灰色の上衣に縄の帯をしめ、裸足はだしのままに往ってキリストの嘉信を宣べ伝えた。食は折にふれての働きを成してこれを得た。働きなきときは食を乞うことを恥としなかった。

そののち同志のもの相加わり、一つの教団を形つくるに至っても、この主義を変えることはなかった。フランシス派修道僧は個人としても兄弟団としても、一切、物を所有しなかった。彼らは小児の如くに生計の配慮を忘れてさまよった。彼らは伝道すると共に労働した。例えばフランシスが自己の円卓武士のひとりと呼んだところの兄弟エジヂウスのごときは、ブリンヂシに於いては水を運び、アンコナに於いては籠を造り、ローマに於いては薪を売った。但しいかなる場合にも彼らは金銭を受けなかった。またもし何かを持つことあらば、進んでこれを乏しき人に施した。フランシスみずから或る時外套を贈られ、上衣の上に着ていたが、途にして乞食にこれを与えた。

死にいたるまでフランシスはそのともに忠実であった。もはや最後の近きを知るや、彼はおのが屍を横たうべき柩として、愛する者なる「貧」の懐よりほかのものを願わなかった。即ちその身をあらわなる地上に置かしめ、兄弟たちを祝福し、みずから詩篇第百四十二篇を口すさんで、しかして息絶えた。

輝くたまは彼女の懐より
 いでておのが国に帰らんとねがい
 その身に他の柩を願わなかった。

貧と共にフランシスの生活を彩る今一つの顕著なるものがあった。それは愛である。若き時より彼は同情ふかき人として現われた。乏しき者におしみなく与える事は彼の歓喜であった。施しを乞われて拒むことを彼はみずから厭った。或る日(なお父の家にある頃)馬に乗りてアシシの野外をゆくときひとりのらい病人に遇った、思いがけぬものの突然の出現に嫌悪のあまりたじろいた。しかしたちまちその心痛み、馬よりくだり、進み近づいて、忌まわしの手に接吻し、かつ財嚢ざいのうを傾けそそいだ。物語は伝えていう、彼が再び馬に乗って野を見まわした時には、らい病人は既に消えて影を留めなかったと。ただしさように消えずとも、この小さき一人に仕えたときフランシスはキリストに仕えたのであるとの真理は変わらない。

幾程もなくかれは或るらい病院に入りて不幸なる人々を助けた。後また一切のものを棄てたとき、最初の行動の一つは、再びその同じらい病院に入り看護する事であった。先には美服をまとって来しところに今は弊衣へいいを着けて。

死に臨みて宣べたる遺言の中にいう、「私が罪の絆に縛られていたとき、らい病の人を見るは苦く厭わしくあった。しかし主は私を彼らの中に連れゆきたもうて、私は彼らに憐憫を為した。しかして彼らを去る時には、先に苦く厭わしく見えたものが、大いなる甘美、慰安に変わっていた」と。

彼はすべての棄てられし人を求めた。いかなる悪疾の中にも神の像を見いだして、その人を愛した。

然のみでない、フランシスの愛はなおもゆたかに溢れて万物に及んだ。すべての造られしものの要求に彼は触れた。動植物をも無生物をも各々その理想の姿に於いて彼は眺めた。或る時かれの周囲につどう小鳥にむかって彼は呼びかけた、「小さき姉妹たちよ、なんじら造りぬし神の恩を蒙ること多ければ、到るところ常に彼を讃美せよ。彼はなんじらに思うまま飛び翔るの自由を与えたもうた。また二重三重の衣を与えたもうた。かつまた汝らの種をノアの方舟の中に保ちてなんじらの種族の滅亡を防ぎたもうた。更になんじらのために備えたまえる空気について汝ら深く彼に負う。殊になんじらは播かずまた刈らぬゆえ、神はなんじらを養い、流れや泉を飲料に与え、山や谷を隠所かくれがに、高き樹々を巣に与えたもう。またなんじら紡ぎ縫うことを知らぬゆえ、神はなんじらに着せたもう、汝らにも汝らの子孫にも。神はかくも多くの恩沢を汝らに与えて深く汝らを愛したもう。故に小さき姉妹たちよ、忘恩の罪を慎めよ、しかして常に讃美を神にささぐることを学べよ」と。一たびかれの説教し居るとき、燕の群れがあまりに騒がしく囀るため聴衆に聞こえなかった。彼はいった、「小さき姉妹、燕たちよ、今度は私の番である。神のみことばを聴け。私の終わるまで沈黙して静粛にせよ」。或る時のことばに、「もし私がいつか皇帝に謁見し得るならば、私は神の愛と私の愛とのために彼に乞うて、わが姉妹なる雲雀を捕らえ又は閉じこむることを禁じ、またすべて牛、騾馬などの所有者がクリスマスには特別によきあしらいをなすべきことを命ずる法令を発布して貰おう」と。一疋の狼がグビオの郊外に出没して人をそこなった。住民たちは戦慄した。フランシスは何とかせずにはいられなくなった。彼は兄弟の或る者を伴って出かけた。彼らが直ちに恐怖に充たさるるを見てこれを後にのこし、独り獣穴の途に進んだ。狼は彼を見て顎を開きながら飛びかかろうとした。フランシスはいう、「此処に来よ、兄弟狼、キリストの名において私はなんじに命ずる、私にも人にも害をなすな」。狼は来て彼の足下に伏した(と物語は伝える)。彼はなお狼にむかい、今後人々の備える餌を食ろうて人をそこなうなからんことを命じた。しかして狼はよく之に従い、爾来日々にグビオに来たりて餌を食らい、二年間生存したという。

有名なる「太陽の歌」(或いは「被造物の歌」)に於いて彼は太陽、月、その他の無生物をさえ兄弟姉妹の名を以て呼んでいる。フランシスの口よりこの呼び名を聞くとき、何人もそれが尋常の形容であるとは思わない。

かくのごときがフランシスの面影であった。自己については清貧、他に対しては博愛。貧は彼のともであり、愛はその独子であった。彼のあるところに必ずこの二者はあった。然らば貧と愛とは彼の信仰生活の上に何ほどの意義を有したのであるか。中世(および現代)の多くの基督者のように、フランシスもまたこれらの行為によって神に義とせられんことを欲したのであるか。彼は貧と愛とを自己の功績に算え、これに頼って神の前に出ようとしたのであるか。言い換えれば、フランシスはその清貧博愛の生活に於いて、天国をあがなわんための価を積んだのであるか。

もしそうであるならば、私は明らかに言う、フランシスは大いなる間違いをなしたのであると。よしその貧がいかに清くあろうとも、その愛がいかに深くあろうとも、之を己の義として神の前に立つるに至っては、赦されがたき不遜の罪である。神は是の如き献物を受け給わない。却って之を斥けなげうちたもう。

この問題はいつにフランシスの宗教的回心の経験如何に係わる。然るに不幸にして我らは彼の回心の歴史をさだかに跡つけることが出来ない。聖ダミヤンの教会に於いて祈りせるときに彼が聴いた声というのも、その意義甚だ明白なるものではない。少なくとも彼にはパウロ又はアウガスチン又はルーテル等に於いて見たるごとき徹底せる福音的回心の実験がなかった事だけは、諸種の事情よりこれを推定して恐らく謬らぬであろう。

しかしながらその故に彼の生涯を以て行為による義の追求であったと見ることは出来ない。フランシスの貧といい愛といい、之を何らかの目的に対する道徳的手段と見るには、余りにも自然であり、必然であった。彼は商人のごとくに貧を資本に商売したのではない。まことに彼は貧を恋したのである。貧しき生涯ならずしては彼に適わなかったのである。愛もまたそうである。愛することの酬いに何かを獲ようと彼は望まなかった、愛することその事が報酬であった。愛せずしては生くるに甲斐なきを彼はおもったのである。貧も愛も彼には努力ではなくして趣味であった。外より迫らるる律法おきてではなくして内より湧きいづる生命いのちであった。

この趣味とし生命としてのフランシスの貧と愛とは、一つには彼の性格にも基づいたであろう。確かにそうである。なお若き頃よりすでに彼は貧を妻として娶らんことをおもい、またむごたらしき人々に対する同情に富んでいた。しかしながらその回心の経験の後にいたりては、単に生来の性格を以ては説明しがたき深き意義の之に加わったことを見る。信者としてのフランシスにとっては、貧はただに所有の問題ではなくして、実に此の世における正しき生活の必然的境遇であったのである。また愛はただに一つの道徳ではなくして、実に宗教の始めであり終わりであったのである。彼は一たび神の恩恵によりて新らに生まれ正しき途に進むや、自らを貧しくせずしては何らか大いなる矛盾の中にあるの思いを禁じ得なかった。同時にまた愛することなくしては、たとえ祭壇の前に跪き熱き祈祷を繰り返すとも神との親しみ足らぬを覚えたのである。信仰はフランシスをして貧しからざるを得ざらしめ、また愛せざるを得ざらしめた。貧と愛とは共に彼に対するキリストの霊感であった。

然り、キリストの霊感である。救われんが為につとめて貧しくなりかつ愛したのではなくして、救われたるが故におのずから貧しくなりかつ愛せざるを得なかったのである。フランシスの清貧と博愛とに確かにこの信仰的必然性がある。

けだし信仰の途はキリストと共に死に、またキリストと共に生きるの途である。キリストはみずから世に死んだ。十字架はその死の総括であった。しかし十字架に上る前よりして彼は日々に死につつあった。始めに神のかたちに於いてありし彼が、己を虚しくして人となって降ったときに彼の死は始まったのである。聖書はこの事を説明して、「即ち富める者にていましたれど、汝らのために貧しき者となり給えり」という(後コリント八の九)。死は即ち貧である。世に最も貧しかりし人はイエスであった。彼と共に死ぬものは彼と共に貧しくならざるを得ない。キリストを愛することの深きものほど彼の貧に与かることもまた深い。フランシスは人にまさりて主を愛した。故に彼は人にまさりて貧しくあった。

しかし死は信仰生活の半面に過ぎない。その他の半面に生がある復活がある。キリストは死にてまた復活した。その死にたるは復活せんがためであったと言い得る。何となれば復活のキリストにして初めて多くの人に生命を与え得るからである。彼が貧しき者となったのはその意味に於いて人を富まさんが為であった。「これ汝らが彼の貧窮まづしきによりて富める者とならんためなり」(後コリント八の九)。基督者はキリストと共に死にて自らを虚しくし、また彼と共に甦りて人を富ます。復活的生命は必ず愛の生命でなくてはならない。キリストの霊を胸にやどせる者は、また彼の愛をもって人を愛せざるを得ない。フランシスには復活のキリストが宿った。故に彼は怪しきばかりに熱く人を愛した。

我らはフランシスの信仰にも思想にも行動にも中世風の迷謬が染っていたことを認める。しかしそのキリストの霊感による貧と愛との徹底的なる実行に対しては、歎美を禁じ得ないものである。我らは彼より学ぶ所がなくてはならない。

二 フランシスは禁慾主義者なりしか

中世の文化を織り成せる経糸たていと緯糸ぬきいと公同教会主義カソリシズム僧院主義モナスチシズムとであった。しかして前者を代表するものにアウガスチンがあるように、後者にはフランシスがある。

僧院主義は古く第四世紀の頃から発生した。その起源は異教の禁慾的思想にあった。即ち肉体を本来悪なるものと見て之を征服する事により霊魂の自由を得んと欲する観念である。それが基督教と結び付いて、神との交通を寂しき荒野の僧院に求めんとする僧院主義として現われたのである。

フランシスを僧院主義の最大なる代表者として考えるとき、我らは当然彼の禁慾主義を予想する。また彼の言行の中にこの予想を裏書するものがないではない。

しかしながら彼の生涯を大観するに、我らは禁慾主義と相反する色彩の甚だ顕著であることを見る。

フランシスは禁慾主義者のごとく厭世悲観の徒ではなかった。却って彼の人生は歓喜の人生であり、彼の宗教は歓喜の宗教であった。彼は灰色の衣に縄帯を締めながら、途ゆくとき屡々高らかに歌った。それは内なる歓喜の自然の発露であった。その若き日よりいわゆる遍歴詩人トルーバドルの恋愛歌を愛したる彼は後年に至っても、歌詞はとにかくとして少なくともその歌曲はなおこれを吟誦したらしい。或る権威たちによれば、彼はイタリアの俗語詩の開祖であるとまで言われる。赤貧と侮蔑と迫害との中にありてキリストの愛のゆえに完き悦びを見いだすのが彼の宗教であった。彼にとっては世界はその何処にも神の姿をやどせるいとも愛すべきものであった。かがやく日と月と星と、用おおき空気と雲と水と、力ある火と、そのほか万物の故に彼は神を讃美した。

彼は飢渇又は鞭打によっておのが身をさいなむような事をしなかった。彼は言った、「厳しき痛悔によって身を滅ぼせるものは、果たして永遠の福祉に与かり得るか否かを私は疑う」と。勿論祈りのために断食はした。しかし或る時は断食のために健康を損える兄弟にパンを持ちゆきて之を勧めた。おおよそ彼の生涯には陰鬱なる自己苛責的憔悴のおもかげを見ない。

彼は世を避けて僧院にひそむを理想としなかった。人と断ちて専らおのが霊魂の安全を図るがごときは彼には思いよらぬ事であった。まさしくその反対に、フランシスの目標は僧院より世へであった。彼はおのが霊魂にも劣らずすべての悩める人々をおもった。真実なる生活は少数同志に限らず万人に妥当であるべきを彼は信じた。故に従来の僧院主義の退嬰的態度を棄てて、彼は最も痛快なる進撃的態度に出た。フランシスは万人を悉く彼のごとき僧徒たらしめ、世界をさながらに一大僧院化せんと欲した。何となれば彼は貧と愛との生活が人の真実なる生活であることを信じたからである。この理想のもとに生まれたものがいわゆる第三教団(the Tertiaries)である。それは世のあらゆる男女をしてその家庭と職業との中に留まりながら貧愛の生活を実行せしめんとするの試みであった。誠に雄大なる理想である。我らはここに凡ての基督者を祭司と見るところの宗教改革の思想の先駆を見る。フランシスの生活はその宗教的意義に於いて近世清教徒のそれと多く異ならない。

斯のごとくにしてフランシスは僧院主義をその理想にまで引上げ、之に新生命を吹き込んだのである。彼を旧来の禁慾主義者と同視するは甚だ当らない。

〔第八八号、一九二七年一〇月〕