第一 ヨハネの愛の哲学 ヨハネ第一書

藤井武

一 愛の本体

近代思想の最大の題目は愛である。この一語ほど今の若き人々を酔わしめるものはない。彼らの讃美は愛に集中する。誠にそのためには「昼たたえ夜うたいてなお足らぬを」彼らはおもうのである。

土塊に巣くう蛆虫も愛あらば
諸の世界を治むる神の愛なきよりは
神々しさ勝ると私は敢えて言おう。

愛の詩人ブラウニングと共に彼らは高らかに斯く歌う。愛のためならば何ものをも彼らは惜しまない。しかして実際彼らの間に多くの勇敢なる愛の使徒があり愛の殉教者がある。

すべてのものに勝りて愛が貴ばれることは決して悪い事ではない。愛は確かに人生の至上善である。愛に於いて一切の律法が完うせられる。道徳の道徳、生命の生命は愛である。神は実に愛である。しかしてこの簡単なる一つの真理を学ばんがために人類は長き間の努力を払ったのである。近代人に取って殆ど自明の公理たるこの真理は、実に基督教の最初の発見にかかる。その以前又はその以外の宗教に一つとして之を明らかにしたものがない。「世界の万神廟パンセオンに見出すを得ざりしひとりの神は愛なる神であった」。人は能力の神、真理の神、正義の神を知った。しかしただひとり愛の神を知らなかった。彼を遂に発見して、道徳の王座を愛にささぐるに至った其の事は、人類の今日までに経験したる最大の進歩であることを私は疑わない。

然るにも拘わらず、この横溢せる近代精神に対して私は大いなる抗議を提出せずには已むことが出来ない。成るほど彼らは愛の貴さを解する。しかしながら彼らは果たして愛そのものを知っているか。彼らは果たしておのが讃美するところの名を以て正当に呼ばるべきものの本体を解しているのであるか。

基督教が愛の貴さを見出したのは、勿論愛そのものを新しく発見したからである。それが如何ばかり貴きものであるかは寧ろ第二の問題である。愛とは何であるか。第一問題はここにある。之によってその価値もまた定まるのである。人類が長らく愛の価値を知らなかったのはその本体を知らなかったからである。価値の発見は本体の発見に従う。然るに近代人は価値を知って却って本体を知らない。しかして似て非なるものを捉え、之にするに至上の栄光を以てし、之にささぐるに無比の礼讃を以てする。醜陋しゅうろうの至りである。

愛の発見は何処にあったか。「主は我らのために生命を捨てたまえり、之によりて愛ということを知りたり」(ヨハネ一書三の一六)。イエスの死である、この一つの事実が実現するに及びて人類は始めて「愛ということを知った」のである。その時まで之に似たるものは沢山にあった。しかしながら愛そのものは何処にも無かった。イエスの死に於いて現われたる愛は独一のものである。それは人類が曾て見たる如何なる美徳とも性質を異にするものである。もしイエスの死に於いて現われたるものが真実の愛であるならば、他のものはみな此の名を以て呼ばるるに足らざるものである。人類はこの唯一の歴史的事実に於いて始めて愛というものを発見したのである。

然らばその発見せられたるものの本体如何。

神の愛われらに顕われたり、神はその生みたまえる独子を世に遣わし、我らをして彼によりて生命を得しめたもうに因る。(四の九)

まずこの説明によって明白にせらるる多くの事がある。「神の愛われらに顕われたり」とあるによって、愛とは事実の背後に横たわるところの性格であることを知る。歴史的事実はその発現に過ぎない。「愛は主として性向である、意思の永久的品質である、道徳的性質に固有の傾向である」(ロバート・ロー)。内にこの傾向の根ざさずして外に愛の花は開かず果は結ばない。愛を以て主として行為の事と見るは浅薄である。

「その生みたまえる独子を遣わし」とあるによって、愛とは犠牲であることを知る。意思の永久的品質であり道徳的性質に固有の傾向であるところの愛は、また必ず外に向かって顕われずには已まない。何となれば愛は犠牲であるからである。犠牲は「与えんとする衝動」の理想的なるものである。愛する者は与えんと欲する。自己の大いなる苦痛を忍びつつ与えて与えて已まざらんと欲する。愛は必ず何らかの形に於いて自己のものを「遣わす」のである。

しかしてその遣わさるるものが「生みたまえる独子」であったことによって、愛は最大の犠牲であることを知る。単に子と言わずして、生みたまえる独子といったのは、その者に神の全存在が宿っていることを意味する。十字架の上に死したるイエスは神の凡てである。彼に於いて神は自己のものならぬ自己そのものを犠牲にしたのである。愛は実に自己そのものの遣与である。犠牲の最大なるものである

「我らをして彼によりて生命を得しめたもう」とあるによって、愛は愛せらるる者の永遠の生命を目的とすることを知る。勿論自己の満足ではない、また必ずしも相手方の幸福ではない、その生命である、その者が真実なる生命、永遠の生命に入らんことを希って、之がために自己を捨つるところに愛はある。

かくて愛とは相手方の永遠の生命のために自己そのものをささげんと欲する意思の永久的品質であることを我らは知る。しかしながら愛がもし之だけのものに過ぎないならば、人類はイエスの死を待って始めて之を知らなかったのである。この条件を備えたるものは昔から決して珍らしくはなかった。子をいだく母の胸に、友をおもう友の心に、または清潔なる恋愛の男女にさえ、かかる愛は屡々宿ったのである。使徒ヨハネが人類を代表して「之によりて愛ということを知りたり」と告白するその事実の中には、必ずや更に顕著なる、すべての他の愛に見ることを得ざる独一の性質がなければならぬ。イエスの死をして他の一切の愛より隔絶せしむるその優勝、その特性は何であるか。

「神はその生みたまえる独子を世に遣わし」という「世に」の一語に注意せよ。これは単に遣わされし場所を示すのみの言葉ではない。世は人類の総体である。しかして多くの場合に於いて此の語は特に神に敵するものの集団を指すに用いられる。ここにはそれだけの意味を含ませず単純に全人類を指すとはいうものの、事実上彼らは如何なるものであったか。彼ら全人類は果たして愛せらるるに適わしきものであったか。かえって彼らは最も神の心にかなわず、その聖き道徳的性質をして最も反発せしむべき、厭うべきにくむべきみじめなる状態に於いてあらなかったか。

神は愛すべからざるものを愛した。神はその生みたまえる独子を世に遣わした。しかして我らをして彼によりて生命を得しめんと欲した。イエスは己を憎み己を斥け己を殺すもののために喜びてその生命をささげた。ここに歴史のかつて示さざりし何かが実在しないか。誰が斯の如き死に方をしたか。もし人類が何処かに愛の本体を発見すべくば、すなわちただ此処に於いてすべきではないか。

故にヨハネは更に附加していう、

愛というは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し、その子を遣わして我らの罪のためになだめの供物となしたまいし是なり。(ヨハネ一書四の一〇)

愛の本領は神が我らを愛したというその一事にある。主体が神であって客体が我らである所に愛の秘義が存するのである。もし之を逆にして、我らが神を愛したとするも、それは未だ愛の実に値せざるものである。神は恩恵と真実とに満ち、智慧と能力とに富み、限りなき栄光を備えていましたもう。彼は万物にまさりて永遠に愛せらるべき者である。彼の尽きざる恩恵のただ一端を知るのみにても彼を愛するの理由と動力とは十分にしてなお余りがある。我らが神を愛するよりも当然なる何事があるか。愛とはかかる平凡事ではない。愛は奇蹟中の奇蹟である。我ら神を愛せしその事にあらず、却って神われらを愛せしこの事である。いと高き者なる神、聖にして聖にして聖なる神が、罪の谷底に沈淪ちんりんする我ら、厭うべくにくむべく呪うべきの極みなる我らを愛し、しかしてその子を遣わして我らの罪のために宥めの供物となしたもうたというこの一事にこそ、愛のいと深き秘義は存在するのである。

すべての人間愛は受動的である。愛せらるる者の側に於ける何らかの性質に心ひかれて発生し成長する衝動である。その人格にかその気質にかその風貌にか或いはその自己に対する特別の関係にか。とにかく何らか自己の好むところのものを相手方の側に見出すことが愛の条件である。男女の愛、朋友の愛、骨肉の愛、みなそうである。従ってまたすべての人間愛はその条件の消滅と共に消滅する。ただに相手方の性質の変化によって消滅するのみならず、自己の評価の変化によってもまた消滅する。

之に反して、イエスの死に於いて現われたる神の愛は全然自発的である、愛せんと欲する神自身の意思のほか何の条件にもかからない。愛せらるる者の側には神の心を喜ばすべき何ものも存在しないのである。ただ神は自ら罪人を愛せんと欲するが故に之を愛するのである。それは全然自己発意、自己決定、自己創造の衝動である。

従ってその愛はまた感情の愛ではなくして意思の愛である。愛するに堪えざるものを愛する、之よりも大いなる意思のはたらきは何処にあるか。愛は多くの人殊に近代人の考えるように、風のごとくにして来たり風のごとくにして去るところの盲目なる感情ではない、良心と知性との指導に基いて確実に決定せらるべき自由の意思である。

従ってまた愛は永久的である。何ら相手方の性質又はそれについての自己の評価に基くことなく、愛するに堪えざるものを愛するこころ、その心は永久性を帯びざるを得ない。何となれば之を衰弱又は死滅せしむべき原因が何処にもないからである。まことに真実の愛は、相手方が如何ばかり変わるも自分は変わらない。叛かるるも欺かるるも、自分だけは永久に変わらない。

イエスの死に於いて人類が始めて発見したる愛は斯のごときものであった。しかして之は誠に新しき発見であった。ゴルゴタ丘の十字架以外いづこに於いても未だ斯の如きものを見なかったのである。初代の使徒らはこの新しき発見を記念すべく且つこの真実の愛を尋常の人間愛と区別すべく、新しき名称を要求した。かくて彼らが作出したる言葉はアガペー(agape)であった。「この言葉は実際基督教の鋳造にかかる。それは或いは古き言葉の改鋳でもあろう。しかしながらアガパン(agapan)なる動詞がホーマー以来ギリシャ古典に於いて普く用いられて居ったに係わらず、アガペーなる名詞が現存の如何なる古典本文にも見出されないという事は、少なくとも言語学上の不思議の一つである」。しかしてこの言語学上の不思議を説明するものは宗教学上の摂理の法則である。神は新しき発見のために適当なる名称を留保したもう。ギリシャ語に於いて肉親の愛を表わすにストルゲー(storge)、主として恋愛を表わすにエロース(eros)、友情を表わすにフイリア(philia)と各種の称呼があったにも拘わらず、ひとりアガペーなる言葉が殆ど用いられなかったのは、イエスの死によって新たに啓示せらるべき真実の愛のために奇しくも留保せられてあったのではないか。

自己との特殊関係に基くストルゲーではない、異性の慕わしさに基くエロースではない、尊敬又は共鳴等に基くフイリアでもない、何ら外よりの牽引に基かざる、自発的、意思的、永久的のアガペーである。自己を責むる者のために祈り、自己を敵とする者のために生命を与えるそのアガペーである。それが真実の愛である。それをイエスの死に於いて人類は始めて発見したのである。

かかる絶対無私のこころ、与えてやまざる神らしき心は、人の衷に自然には発生しない。

愛は神より出づ。(四の七)

愛の唯一の源泉は神である。すべての真実なる愛は神のこころの人の胸に宿ったものに外ならない。故に神を知らず神と結び付かずして、人は遂に愛することを知らない。

貴きものはこの愛である。人生の至上善は之である。之によって凡ての害毒が見事に解消せられ、之によって凡ての美徳が立派に完成せられる。この前に出でては、母の子に対する愛さえ輝きを失わざるを得ない。いわんや浅薄陋劣なる近代的恋愛をや。おのが感情に快きものを愛することは悪魔でもする。かかる似て非なるものに至上の地位を与えて礼讃至らざるなきが如きは、痴愚といおうか、冒涜といおうか。

我らは時として思う、愛の根本は神に対する関係にある、神を愛せずして人を愛することは出来ない、之に反してもし神に対する愛だに存在せば、人に対する愛は自ら其処より発生するであろうと。しかして斯く思う事によって人に対する愛の欠乏をみずから弁護しようとする。しかしながらこの思想には重大なる誤謬の危険がある。事実に於いて、愛もし我らの胸に宿らんか、それは必ずまず人に対するの愛として現われねばならぬ。

愛する者よ、斯のごとく神われらを愛したまいたれば、我らもまた互いに相愛すべし。(四の三)

斯のごとくわれらを愛したまいたれば、我らもまた「神を愛すべし」とはヨハネは言わなかったのである。神の我らに対する愛の反響は我らの神に対する愛としてよりも寧ろ兄弟に対するものとして現われる。何故か。

既に見るところの兄弟を愛せぬ者は、未だ見ぬ神を愛すること能わず。(四の二〇)
未だ神を見し者あらず、我らもし互いに相愛せば、神われらにいまし、その愛もまたわれらに全うせらる。(四の一二)

神は何人も未だ見ざる者、兄弟は既に見るところの者である。うこころは生活程度の距離の差を示すにある。神は何人も未だ見ざるほどいと高き所に住みたもう。彼の栄光と尊貴と能力とは遥かに我らの生活を超越する。彼は我らに向かって言う、「世界とその中に充つるものとはわがものなれば、たとえわれ飢えるともなんじに告げじ」と(詩五〇の一二)。しかして彼はその満ちたる中より我らの上に恩恵に恩恵を加えて已まない。之に反して兄弟は我らの周囲に近くありて、我らと同じように或いは悩み或いは躓きつつある。果たして然らば、もし神の我らに対するが如き自発的の愛を我らも抱くならば、それはまず何れに向かって発現すべきであろうか、既に見るところの兄弟を愛し得ない者が、たとえ神を愛するというとも、何とて真実の愛であろうか。我らの神に対する愛が果たして神より出でたるアガペーであるか否かは、ただ我らが現実に人を、殊に自分を愛せざる人を、愛しているか否かによってのみためされる。もし斯のごとく人を愛しているならば、しかしてそのために自分の生命を棄て得るならば、然らば神は確かに我らの衷にいますのである。また神に対する我らの愛もそれによって全きものとなるのである。

この故に神を愛すると言って人には冷たきその心の偽善よ。我ら省みて恥じ且つ痛む。

人もし「われ神を愛す」と言って、その兄弟を憎まば、これ偽者いつわりものなり。(ヨハネ一書四の二〇)

願わくは我ら今日よりこの偽者たるの罪を免れ得んことを。

「与えるは受くるよりも福いなり」とイエスは言った。まことに愛するは愛せらるるよりも福いである。自分を愛せざる人、自分にそむきたる人、自分を憎む人を愛し得る時の福いは、之を経験せずしては知ることが出来ない。愛は生命の拡張である。私の愛する所に私の世界がある。それは私の永遠の王国である、何者も之を奪うことを許されない。人生の勝利は愛する者にある。愛せられざるを悲しむをやめよ。寧ろ我らをして進んで愛せしめよ、愛せしめよ。然らば愛せらるるに勝るの歓喜は我らの胸に溢れるであろう。

二 光明としての愛

我らが人を愛する時、その人の現実の人格の背後に理想の人格を見いだす。しかして他の人々の見ることを得ざる美しき性質が我らの眼に映じて来ることを経験する。愛の眼を以て見れば、如何なる人にも独特の貴さがある。その貴さこそその人の永遠に識別せらるべき真実の個性であると思われる。

斯のごとき理想の人格は、愛が作り出すところの幻に過ぎないのであろうか。それが屡々現実の人格によって裏切られるところによれば、そうであるようにも見える。しかしながら我らは時に自分が愛せらるる者の地位に立って知るのである、愛の眼がいかに鷲のごとくに鋭くあるかを。愛する者は屡々我ら自身が見るよりもく我らを見る。我らの特性殊に美点を見る、我らの隠れたる能力を見る、我らの委ねられたる使命と進むべき途とを見る。愛する者の一言に我らは屡々如何に深き真理の暗示を与えらるることよ。

まことに愛は我らに眼を備えるのである。愛なくして見る所は実は皮相に過ぎない。愛して始めて真相に徹する。唯に人に対してのみではない、自然に対しても同様である。自然を愛する者は彼女の心を解する、その歎きと希望とを解する、その優しき慰籍のささやきと気高き指導の声とを解する。愛する者は自然の背後にさえ、大いなる人格に似たる理想の姿を見出すのである。

イエスはく人格を見抜きたもうた。彼はナタナエルを初めて見た時既に「見よ、これ真のイスラエル人なり、そのうち虚偽いつわりなし」と語った。彼は自分がバプテスマのヨハネより疑われた時にもなお彼を弁護して「……然り、汝らに告ぐ、預言者よりも勝る者なり――誠に汝らに告ぐ、女の産みたる者のうち彼より大いなる者は起こらざりき」と言った。彼は霊性の浮沈常なきシモンを捉えて却って「我はまた汝に告ぐ、汝はペテロ(磐)なり」といった。しかして彼らは実に磐であり、預言者よりも勝る者であり、真のイスラエル人であったのである。イエスが之を見抜いたのは彼らを真実に愛したもうたからであった。

愛の眼に映ずるところの姿は神の眼に映ずる所のものに最も近い。我らが愛する時に人を見るが如くに神は常に之を見たもう。彼は万人を一々その理想の人格に於いて識別したもう。我らもまた幾ばくかの人々をその隠れたる貴き性質に於いて記憶する時、何となくその事の神らしさを実感するではないか。

けだし愛は光明である、神より出でたる光明である。この故に愛を以て人格又は自然を照らす時に、神がいと高き所より見たもう姿に似たる姿に於いて、我らも之を見ることが出来るのである。すべてものが神自身の光明に照らされて現わすところの姿のことを、ヨハネは呼んで「真理」(aletheia)という。愛は即ち真理の啓示者である。愛を以て見たる人生は健全であり、愛を以て見たる宇宙は真実である。

その兄弟を愛する者は光に居りて、躓きその衷になし。(ヨハネ一書二の一〇)

愛を以て兄弟に対する者は、常にその理想の人格を見失わないが故に、敬慕があって嫉妬がない、讃美があって倣慢がない、寛容があって利己がない、赦免があって復讐がない、忍耐があって虐遇がない。之を要するに、兄弟に対して罪を犯すべき原因は愛の世界には存在しないのである。或る時或る人に対して如何なる態度を取るべきかについて迷うがごときもまた愛の欠乏の故に外ならない。イエスの心を以て兄弟を愛せんか、進むべきの途は常に明白に示される、しかして確信を以て進むことが出来る。愛する者は光の中に往くがごとくに往く。彼らは決して躓かない。

その兄弟を憎む者は暗黒くらきにあり、暗きみちを歩みて己が往くところを知らず、これ暗黒くらきはその眼をくらましたればなり。(二の一一)

愛が欠乏する時、我らの判断はみな狂う。殊に霊界の事についてそうである。人の理性は愛を糧として生きるのであるかどうか我らは知らない。とにかく憎悪が理性の撹乱者である事は心理的事実である。試みに我らに愛の熱心冷えて、ただ自己をおもうおもいのみ募りたる時の状態を省みよ。その時我らは何人にも美しき人格を認めることが出来ない。人の記憶はその欠点の記憶である。偶々たまたま何か善きものに目が触れれば、却って言いがたき苦痛を感じ、之を傷つけずしては気が済まない。人の言行の動機は之を悉く悪意に解せずば已まない。見るもの聞くもの不満と愚痴との原因ならぬはない。かくて我らの世界はその輝きを失い、我らの胸はその平安を失って、自ら何処に往くかを知らず、徒らに暗黒の中に誼わしき日々を送る。然らざる者はただ自己のみを義しとして、すべて他の者を否定する。

近代に益々多いといわれる発狂の原因は何であるか。その最大多数は自己中心的人生観のためではないか。人は本来愛に生くべきものとして造られたのである、生活の中心を自己以外の人格者に置くべきものとして定められたのである。之を移して自己に置くは発狂の始まりである。何となれば中心の位置狂って必然その全生活が狂わざるを得ないからである。もし多くの人がただ自己についての興味を棄てて兄弟のためにその生涯と所有とを献げようとさえ決心するならば、如何ばかり幸福なる日を見ることが出来るであろう。人生の禍いの凡ては自己中心の思想から来る。この思想こそは実にあらゆる祈りと努力とを以て絶滅せしめねばならぬ最もにくむべく恐るべきバチルスである。

三 生命としての愛

永遠の生命とは何であるか。之を宗教哲学の問題として考察することは容易でない。誰がそれを説明し尽くすことを得よう。しかしながら事実として見るときは、その何であるかは明瞭である。永遠の生命は愛である。何となれば生命は神にあり、しかして神の本質は愛であるからである。

われら兄弟を愛するによりて、死より生命いのちに移りしを知る。愛せぬ者は死のうちにる。(ヨハネ一書三の一四)

我らに永遠の生命があるか否かもまた愛によってめされる。兄弟を愛する者のみが真実に生きているのである。愛しない者に何があっても生命だけはない。たとえ如何なる善行があっても、如何なる能力があっても、如何なる聖書知識があっても、如何なる伝道事業があっても、如何なる信仰的熱心があっても、生命だけはない。我らたとえ朝に夕に神の名を呼びて汗の滴るほどの熱き祈りをつづけるとも、もし我らの祈りの題目が常に「私を」「私に」「私の」の連続であるならば、我らに断じて永遠の生命はないのである。

生命は愛であるという。然らば愛とは何であるか。

主は我らの為に生命を捨てたまえり。之によりて愛ということを知りたり。(三の一六)

人類の歴史上ただ一度愛がその本体を如実に現わしたことがある。イエスの十字架上に於ける死これである。之によりて我らは始めて愛の何たるかを学んだのである。即ち愛とは他人のために生命を捨つる事である。(ひとしく生命と訳されるが、永遠の生命とは別の言葉である。zoe ではなくして psyche である。前者は生命をその根本原理に於いて意味し、後者は身体を備える生物の生活原理についていう。ここにては現世の生命というに同じ。)

愛は他人のための死である。しかして永遠の生命は愛である。ここに於いてか知る、真実の生命は死にあることを。死を惜しむ者に生命はない。く死ぬ者のみがく生きる者である。他人のために現世の生命を捨てる者のみが永遠の生命をつ者である。再び言う、生命は死にある。愛の死は生命獲得の唯一の途である。

凡ての人が死を怖れる。生命が欲しいからである。然るに死は必ずしも生命の喪失でない事を教えるは大いなる喜びの音づれでなくてはならぬ。ソクラテスの霊魂不滅の哲学が之を教えた。パウロの復活の福音が殊に力強く之を教えた。しかしながらここに更にヨハネの愛の哲学がある。乃ち教えて曰う、死にのみ生命がある、死なずんば生命はないのであると。何たる逆説的提唱であるか、何たる驚くべき嘉信であるか。実に生命哲学の一大革命である。今より後われらは再び死を怖るるに及ばない、否、却って最も熱心に之を求むべきである。他人のために死するの途のみが真実の愛の途であり永遠の生命の途であるならば、我らの祈求は之を措いてまた何処にあるべきか。

我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり。(三の一六)

読者よ、この短き一句を再唱三唱せよ。しかして更に其の上に連なる一句を添えて復唱し見よ。「主は我らのために生命を捨てたまえり。之によりて愛ということを知りたり。我らもまた兄弟のために生命を捨つべきなり」と。いかに厳粛なる事実また真理ぞ。独り静かに之を口吟すれば、さながら聖なる者の直前に立つがごとく、頭おのずから垂れ、眼には熱きものさえ滲み出でて、「然り、然り、アーメン」の声しきりに腹の底より湧く。恐らく老使徒がこの一句を綴った時の心持もそれにまさる厳粛なるものであったであろう。ヨハネは斯のごとき言葉を軽々しくは出さなかったのである。彼は衷心よりそう信じたが故にそう言ったのである。そうして本統にその通りである。我らは愛せんがために此の世に遣られたのである。愛しない位ならば生まれ出でない方が遥かによかったのである。しかして愛は死を要求する。我らの全生涯を兄弟のために献げて、そのために死するに至らなければ、我らは愛してらないのである。捨てる事が我らの生涯の目的である。誠に我ら一人ひとりびとりがみな愛のために死ぬべきである。これイエスの践みたもうた途である。またすべて真実に生きた人の践んで往った途である。

ただし生命を捨てるというは必ずしも所謂殉教者のごとき最後のみを意味しない。我らは最後に死ぬのみならずまた日々に死ぬことが出来る。然り、日々に死なねばならぬ。人類に対する愛のために自分の幸福を犠牲にする生活に入りて、日々に死なねばならぬ。我らは少数ながら斯のごとき人を知っている。彼らの生活は実際断えざる死である。人は彼らが遂に世を逝った時に、今更らしく「死んだ」という。しかしながら何ぞ知らん、彼らは既に数年又は数十年の間、兄弟に対する愛のために人知れず日々に苦き酒杯を飲みつつあったのである。世の人がいわゆる「生」なるものを彼らは遂に経験することを拒んで去ったのである。

世の財宝たからをもちて兄弟の窮乏ともしきを見、かえって憐憫あわれみの心を閉づる者は、いかで神の愛そのうちにあらんや。(三の一七)

我らは兄弟のために生命を捨つべきである。然るに生命はおろか、此の世の財宝をさえ捨てる事を惜しんで、目前に兄弟の窮乏を見ながら反って憐憫の心を閉じてしまうが如きは、何たる罪悪ぞ。殊に今日の如く数えがたき窮乏の兄弟ら所在になやみつつあるに拘わらず、自ら多大の財宝を擁して之を捨てんとせざる富者階級のその悪むべき利己心を、神は何と見たもうであろうか。彼らは実に人類共存の原理を乱るところの社会の賊である。その罪まことに深大である。知らずして之を犯す者は速やかに悔い改めよ。知ってなお悔い改めざる者に対しては、私もまたヤコブと共にいう、「聴け、富める者よ、なんじらの上に来たらんとする艱難なやみのために泣き叫べ。汝らのたからは朽ち、汝らの衣はむしばみ、汝らの金銀は錆びたり。この錆なんじらに向かいて証明あかしをなし、かつ火のごとく汝らの肉をわん。汝らこの末の世にありてなおたからを蓄えたり」と(ヤコブ五の一―三)。私は社会主義に賛成しない。しかしながら富者階級に対するプロレタリアの叫びは実に人類の輿論である。誰がそれに反対しようか。見よ、その声既に万軍の主の耳に入る。悔い改めざる富者が泣き叫ぶの日は遠からずして来るであろう。社会の動乱は何らかの形に於いて必ず勃発するであろう。

しかしながら此の問題はひとり富者階級のみの事ではない。乏しとはいえ我らもまた何らかの財物をつ。然して兄弟の窮乏を見ながら之を捨つることを惜しむ場合はないか。ああ、基督者が信仰の兄弟の窮乏を見てさえ、単純なる同情の心を起こさず、僅かばかりの寄附に快く賛成する者少なきが如きは、何という誼われたる社会ぞ。物質的援助すら純粋なる心を以て自由に行われない社会に「いかで神の愛その衷にあらんや」である。

若子わくごよ、われら言と舌とをもて相愛することなく、行為おこない真実まこととをもてすべし。(ヨハネ一書三の一八)

皮肉といわんには余りに真面目なる語調である。しかし之を聞いて恥じざる者が幾人あろうか。殊に伝道者の地位にある者に取って耳痛き勧告である。彼らは愛について多く語ることを余儀なくせられるからである。しかしそれが故に私は自らこの地位に置かれた事を悔いない。神はその多く語らしむる者をしてまた多く実行することを得させたもうであろう。私を選びし神は私をして兄弟のために生命を捨つることを得させたもうであろう。私の切なる祈りはそこにある。

〔第五三号、一九二四年一一月〕