第四 恋愛問題について

藤井武

若き人々に

私はかつてゼームス・ストーカーが雅歌の研究のうちに次の如く論ずるのを読んだことがある。曰く「如何なる社会にも行わるる恋愛の理想について、宗教が深刻なる興味を有することは疑うべくもない。この問題は、俗習コンヴェンショナリティに支配せられて、教壇から排斥すべきもののように想像せられている。しかしてそれを資本に商売するところの小説家又は戯曲家の手に渡されて来た。しかし教壇の占有者が恋愛問題を、宗教の感化なく聖書の指導なしに他人の手に譲る事を弁護するには、余りに多くの事がそれに係わっているのである、唯に人類の幸福のためのみならず、またひとしくその善のために。ひとりの人の心が他人の保管に引き渡されるその時ほど直接に、彼の生涯が築き上げらるるか、はた破り損わるるかの岐路にあることは無い。神の恩恵に次いで、純潔にして円満なる愛情ほど貴き天の賜物はないのである。之に反して、両性の交際が低劣虚偽なる愛の観念によって支配せられるところに、社会は徹頭徹尾腐敗し、家庭は平安と繁栄の基礎なる内的結合力を失い、最後に、家庭の鉄筋の上に建設せらるる国家は倒壊に瀕する」と。之らの言葉はしかしながらむしろ余りに平凡である。私としては、教壇の占有者が特別に恋愛問題を取り扱うべき必要を知らない。何となれば、より高きものの提供はおのずからより低きものの解決を含むからである。恋愛問題の根本的解決は聖き愛そのもののうちに含まれている。小説家又は戯曲家をしてその不真面目なる商売を続けしめよ。彼等はやがてそのために破産し自滅するであろう。我等は必ずしも汚れたる資本を彼等の手より奪い還そうとは思わない。

ただ憂うべきは、彼等の破産自滅を見ながら、なお目さむることをせずして、却って之を謳歌する暗愚なる国民である。

ああ私の愛する日本の若き人々よ。君らの眼はかくまでに曇りはてたのか。君らは恋愛の生命がその純潔性にあることを忘れたのか。君らはかの「新しき愛情の駆逐力」(the expulsive power of a new affection)と称せらるる潔くして福いなる経験を味わったことがないのか。潔さを失いし恋愛は、味を失いし塩などの比ならず、実に糞土にも劣るものであることを知らないのか。

若き日本の人々よ、君らは既に潔きものに対する感受性を失いつくしたか。もし然らば私は最早や言うを止める。しかしながら幸いにして君らの荒れたる胸の中に、もし青春の芽生えがなおいくばくか生き残っているならば、然らばすなわち私はすすめる、朝まだきこころみにダンテ『神曲』煉獄篇第三十曲をとりて之を熟誦せんことを。しかして私はなお附け加えて予め言いおく、この歌をしも読みてなお潔き愛に対する感動を起こさないほどの者は、愛につき絶望的に呪われたるものであることを男らしく自覚すべきであると。まことにかつて人の胸にやどりし最も潔き恋愛を描きたるこの歌をのりとして、すべての恋愛は試される。

愛の純潔性はいかにして得られるか。一たび之を神にささぐるにある。汝の恋愛を一たび聖き祭壇の火の上にさらせ。ダンテに神をおもう心の冷えんことを恐れては、ベアトリチェは微笑をすらやめ、天界もまたその美しき音楽をやめる。

涙をそそぐ悔い改めの何の税もなしに
レエテを渡り、この糧を味わうは
神の高き定めを破ることであるぞ。

かく言いてベアトリチェは恋する人ダンテの心より罪の微塵をだに取り除かずしてはやまない。彼等の恋愛は厳粛なる道徳の光のうちに変貌する。

愛を謳歌する若き人々よ、糞土を飲んで酔うは豚だも躊躇する。「わが愛するものは己の園にくだり香わしき花の床にゆき、園の中にて群れを牧い、また百合花を採る」。この園に君らは入らんことを願わないか。或いは入るに堪えずして引き返すか。さりとは余りに残念である。醒めよ、まことの愛に、聖められたる愛に!

〔第三八号、一九二三年八月〕