イエスは十字架上の苦難を味ひ尽したのち、大声にて「事畢りぬ」と呼ばはつた。それは偉大なる宣言であつた。人類の救贖、宇宙の完成の基礎となるべき「事」は既に畢つたとの意味である。勿論彼の全き服従の功績によつてである。
従て彼に信頼する者の生涯は「事畢りし」生涯である。基督者にとつて未解決の問題は一つもない。すべてが定まつて居る。その霊性は完全に潔めらるべく定まつて居る。その身体は復活すべく定まつて居る。その事業はいつか成就すべく、その涙は必ず拭はるべく定まって居る。何となれば彼が依り頼むところのイエスに於て事は既に畢つたからである。
此故に基督者に何があつても不安又は心配はあり得ない。境遇がいかに移らうとも、世界がいかに変らうとも、経験がいかに躓かうとも、イエスに依り頼む者は思ひ煩はない。彼はイエスの功績のゆゑに最後の救ひを確信して、望むべくもあらぬ時になほ望みつづける。基督者の忍耐と平安とは茲にある。
「旧約と新約」第六八号 一九二六年二月