○我らに人の面を見て歩けと注意してくれる人がある。その親切を私は感謝する。併し如何せん、私のやうな者にとってそれは無理な注文である。私は人に対しては既に死者である。私の目は人には既に閉ぢられてゐる。今更にこれを見ひらいてまた誰の面を見ようや。乞ふ、徒らに死者を悩ますをやめよ。死者をして生者のお相伴をさせないで下さい。無益です。藤井はもうそんな世界にはゐないのですから。
○「我いま人に喜ばれんとするか。或は神に喜ばれんとするか。抑々また人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ」。
○なほその上に私は特別に非社交的な人間に造られてゐるのである。大した差支がない限りそれで免して貰ひたい。私に社交を要求するは魚に上陸を要求すると異ならない。どうか私を一人にして置いて貰ひたい。
○孤独の味は苦がい。誰か弱りて我弱らざらんやである。併しこの苦がいものが私から奪はれた時に、私は生命までも失ってゐることを見出す。友よ、なんぢの親切をもって私を殺さざれ。
○共同一致を叫ぶところに共同一致はない。お互の独立と自由とを心から尊重し合ふところにのみ美しき結合が成立つ。
「旧約と新約」第一二〇号 一九三〇年六月