雑誌が何号を重ねたといひ、何年続いたといふことに、私自身は余り興味をもたない。それは一つには自分の心がいつも今日現在の事に集中してゐるからであらう。併しもつと大きな理由は自分の仕事に対する私の気持にある。目下のところ、『旧約と新約』の著述は私の唯一の事業であるが、私は曾て之を自分の仕事と思ったことはない。私は毎月「今度は是を書け」といふ声を聴いて、さうしてそれを聴いたままに伝へてゐるに過ぎない。さういふ風にして筆を執らなかった月は、唯の一月だにない。故に私にとっては、この書は全然他人のものである。私は他人の事業に使役せられてゐる奴隷に過ぎない。従て私は自分の労役の結果を顧慮しない。それは主人の考へる事であつて、一切彼に任して置けばよい筈であるとおもふ。私の念とするは、いかにして謬りなく彼の言を伝へ得るかにある。ただそれだけである。
さういふ気持から、私自身は本誌の第百号についても無関心であつた。併し少数の友人が心からの感謝または慶祝を表されたことは、不思議に嬉しくあつた。それは右の気持と矛盾することであるかどうか、私に分らない。殊に意外であつたのは、誰よりも深く之を祝うてくれた者は、自分の肉の両親であつた事である。大なる感動が私を撃った。老父は私の隣家に住んで、六年前に私の妻の召されて以来、本誌の事務の一切を引受けてゐてくれる。「旧約と新約社」は事実上彼の家にある。毎月読者を訪れる本誌の包紙の宛名はみな彼の手書である。序を以て報告し置くことも悪くはあるまい。
次に私の筆不性は、今は周知の事実ではあるが、自分ながら不快に感ずる。何故私には手紙が書けないのか。真心からの音信に対しては活発に反応するであらうと、今年年頭に私は予告した。併しすべての予告と同じやうに、それは私を裏切つたのであった。今私は友人たちの赦を請はねばならぬ。私の生活は月々の本誌に籠つてゐる。爾後もし是を以て私信に代へることを許されるならば、私は大変に有りがたい。
「旧約と新約」第一〇一号 一九二八年一一月