祝福の十年

藤井武

親しかりし者の詛ひの中に船出したわが小舟よ、

きのふの如く鮮やかなるその日も早や十年の昔とはなつた。

わが棹は折れ、わが帆は破れた。わが妻はたふれ、わが父は倒れた。私自身もまたいたく傷ついて。

然れども十年孤独の航海、何ぞ祝福の豊かなりしや。

夜な夜な無窮の大空に真理の星を仰ぎのぞむことの何ぞ楽しかりしや。

その時永遠の国の光明は私を撃つた。

その時私のさかづきは谷間の泉のやうに溢れた。

その時私は舟を忘れ海を忘れ自分を忘れた。

実に真理のまへに私の心は慄へる。私の血脈は浪うち、私の涙腺は漲る。

ああ活ける真理よ、なんぢの故に、ただ汝の故にわが十年の航海は祝福そのものであつた。

何れの水夫か私にまさつて福ひなるものぞ。

小き舟はなほも孤独にして荒海をわけゆく。

その何処に導かれるのであるかを私は知らない。

もしくは舵取る術も何も知らない、舟足がどんな跡を水の上に遺すのであるかも私は知らない。

ただ知る、星は今宵も変らず大空に輝くであらうことを。

然らばすなはち足りる。他に何も要らない。

友も要らない、糧も要らない、歌も要らない。真理はわが歌、わが糧、わが友!

真理と共にだにあらば、よしや舟が沈むとも何ぞ。

むしろ風よ、吹きしけ。浪よ、逆巻け。この世の凡てのものよ、わが航海を呪へ。

なんぢ選ばれたる『旧約と新約』!なんぢは間違つても世に評判よき雑誌となつてはならぬぞ。

さらば往け、わが親愛なる小舟よ、ただ永遠の星のみを目標にして、その祝福を受くるに相応しく。

「旧約と新約」第一二〇号 一九三〇年六月