真理発見のよろこび

藤井武

○真理に対する理解と熱情との衰弱は甚だしいかな。今の人は享楽を愛しスポーツを味ひ、経済を解し商売を好む。併し真理の貴ぶべく愛すべきを彼らは知らない。真理といふ声を聞いても、彼らは往年のピラトのやうに、「真理とは何ぞ」と言ひ棄て、ただちに踵をめぐらして去りゆくのである。

○ただに世の人々のみではない。基督者とみづから称するものまでがさうである。否、真理に対する彼らの無感覚は却て一層烈しい。彼らに比べては世の哲学の徒は遥かに忠実なる真理の使徒である。基督者のうち信仰に熱心なる人々に至つては、真理といへば何か智慧を求むるギリシャ人の事かのやうにおもひ寧ろ是をさげすまうとするがごときは、何といふ愚かな迷謬であらう。

○ピラトの前にイエスはあかしして言うたではない乎、いはく「我の王たることはなんぢの言へるごとし。我は之がために生れ、之がために世に来れり。すなはち真理につきてあかしせんためなり。すべて真理に属する者はわが声を聴く」と(ヨハネ一八の三七)。キリストとは誰ぞ。真理の笏を以て万民を統治するために生れ来りし王である。基督者とは誰ぞ。「真理に属する」者に他ならない。真理に属する者、真理を故郷とする者、真理の感性センスを有する者、真理を愛することがその性格たる者、真理を受くるに合適なる者、真理への服従によつて真理の王の民たるに相応しき者。実に基督者とは是のごとき者より他の何者でもない。真理なくしてキリストもなければ基督者もない。或る深き意味において真理的であることは、キリストならびに彼の徒たるものの本質でなければならぬ。キリストみづからその生涯の重大なる危機に立つてさう明言したのである。

○キリストは真理についてあかしせんがために来た王であつた。然らばその真理とは何であるか。イエスの右の言を聴いたときにさう叫んだピラトの問は、いかなる意味においてにせよ万人普通のものである。彼はそのとき図らずして人類の心を代言したのであつた。イエスはそれに答へなかった。けれども他の時にすでに彼は明言していうてゐる、「我は真理なり」と(ヨハネ一四の六)。キリストが証するために来たところのその対象たる真理は、実に彼自身に他ならなかったのである。キリストこそは真理である。真理は自らを証明する。我らはキリストの生死を見てまことに彼が真理そのものに相違なきことを確信する。我らは実にイエスにおいて真理を発見したのである。

○"Eureka! Eureka!"(見つけた!見つけた!)これは古代ギリシャの数学者アルキメデスが浴槽に浸りながら、ふとヒエロンの冠のまぜものを見分ける方法を発見したときに、思はず挙げた叫びであった。彼はかう叫びながら、裸のまま外に飛び出し、まつしぐらに家路に走り去つたといふは、有名なる話柄である。一つの真理を見出したときの学者としての歓びは、彼にとつてさほどにも抑へがたきものであつた。

○それに似て更に美しき物語は、星にみちびかれて嬰児キリストの在所ありかを発見したる東方の博士たちの歓びである。エルサレムからベツレヘムまで、彼らが先に東にて見た星が彼らに先だちゆいた。そして、ベツレヘムの村の或る所に至るや、その星はあたかも彼らの真上に止まった。彼らは遂に目的を達したのであつた。それはキリストの在所の発見であるまへに、先づ真理そのものの発見であった。何となれば、彼らの予期したとほり、星が物を教へたからである。故にいふ、「かれら星を見て、歓喜に溢れつつ云々」と(マタイニの一○)。その歓喜の直接の理由は「星を見た」ことにあつた。すなはち科学と預言との奇しき一致を彼らは見出したのであつた。さうして彼らの歓喜がいかばかりのものであつたかは、具体的には示されない。けれども右の「歓喜に溢れつつ」の原文を見れば、ほぼ想ひやることが出来る。いはく"Echaresan charan megalen sphodra"(殊のほか大なる歓喜をもて歓びつつ)、それは一とほりの歓びではなくして、雀のごとくに小踊りする底のものであった。

○アルキメデスと博士たち、彼らの喜びを今より想ひやつて、私はひそかに慶祝する。併し我らは更に福ひである、何となれば我らの発見は更に大きいから。彼らは理学の法則を発見した。嬰児イエスの在所を発見した。併し我らのは概念ならぬ生命である、救主の在所ならぬ彼の人格である。一言にしていへば真理の断片やその片影でなくて、真理自体である。このゆゑに我らの喜びは何ものにも比べがたい。真理としてのキリストの発見から来る私の歓喜は無限である。それはほかの如何なる原因から来る歓喜よりも遥かに美はしくして深い。私はこれを何と言ひ表はすべきかを知らない。

「旧約と新約」第一〇四号 一九二九年二月