彼は自己に就て語る事を少しも好まない。出来るならばその見苦しさより免れたく思ふ。併しながら兎に角一個の公人として自己の信仰的立場を一応明かにするの必要だけは彼も之を認めて居る。
彼の立場を表はすに最も簡単にして且明白なる語を選ぶならば「聖書本位」といふが其れであらう。旧新約聖書を以て彼は己が立つべき唯一の根拠と為すものである。但し彼は決して聖書の権威を外より吹き込まれて何でも之には従はざるべからずと定めて懸かつて居るのでは無い。否、決してさうではない。先づ「何故に」との疑問がいつでも彼の心の深き所に起る。而して此自己内心の疑問に対しintelligibleなる解答が与へられない限りは、彼は何人が如何なる真理をも彼に薦むるとも之を我がものとする事が出来ないのである。即ちすべて自己の良心に触れて其処に或碓かなる反響を見出すまでは、たとへ如何に尊敬すべき人の奉ずる真理と雖も之を信ずる事の出来ないのが彼の性格である。故に或人は彼を評して余りに疑深しとか、又は彼の信仰が小児の如き単純さを有しないとかいふ。或はさうであるかも知れない。併しながら善かれ悪しかれ、盲従的信仰を抱くことは彼には事実上出来ないのである。彼が自己の立場を称して「聖書本位」と言ふ時も、彼は決して聖書に関する盲信を意味して居るのではない。
彼は初め聖書に対しては何の負ふ所なき他人として之に臨んだ。故に彼の態度は自ら批評的であった。もし何等かの感情が彼に先入して居つたとするならば、それは寧ろ偏見であった。然るにも拘らず、聖書は遂に彼の全心を占領して了つたのである。彼は聖書に於て始めて罪の如何に厳粛なる実在であるかを知つた。その処分は実に容易なる問題ではなくして、確かに天地の破壊をも賭すべきほどの重大事であることを知つた。従つて罪人が神と義しき関係に帰る事の困難否その不可能を知つた。而も神自ら人の思惟に余る犠牲を払つて此事を可能且最も容易ならしめ給ひし事を知つた。彼はかくて心腸に浸み渡るまでに神の愛を味はしめられた。加之神の救が此処に止まらずして身体及び万物の完成にまでも及ぶ事を知るに至つて彼の聖書に対する信頼は其絶頂に達したのである。何となれば彼の霊に訴へて其反響を喚び起すべき一切の問題は茲に遺憾なく聖書によつて啓示せられたからである。聖書は何者の紹介状をも携ふることなく直接彼の心の戸を叩いて、彼をして戸を開きて迎ふるの余儀なきに至らしめた。彼が聖書を信頼するは決して人の証明を信頼するが故ではない。凡ての人をして聖書を棄てしめよ。然れども彼はただ独り聖書を己が胸に抱きて離さないであらう。聖書は今は彼に取りて実に「わが書」である。
而して聖書に対する信頼は勿論その全体に対する信頼である。聖書旧新約六十六巻、前後千五百年に亙り、数十人の記者によりて、各々特殊の場所と境遇とに於て記録せられしもの、然るにその目的その精神その主題に於ては首尾一貫、整然として一大有機的組織を成し、全体を以て間然する所なく永遠の真理を伝ふるは、誠に驚歎すべき偉観である。即ち天地の創造より新天地の出現に至るまで、人の救贖と万物の完成とに関する神の経綸は、イエス・キリストを其変らざる中心として、秩序正しく、彼此相補ひ、最も人の理会に適当なる態を以て我等の前に提供せらるるのである。誰かその背後に一の大なる手の動けるを拒み得る者があらうか。聖書は大能者を著者とする完全なる一書である。故に之に加ふべからず、之より抜くべからずまた之を分つべからず。其片言隻句と雖も、之を其在るべき場所に置き、聖書全体の精神を以て之を解釈する時は、みな謬なき神の言である。聖書は又人の霊に対する神よりの直接の音信として唯一のものである。何となれば「キリストに就て証せ」ざるものにして人の救を示すものあるなく、又すべてキリストによる救を伝ふるものはみな聖書より出づるものに外ならぬからである。全体として謬なき唯一の神の書、彼は聖書を斯の如くに見て絶対に之を信頼する。此処に彼は凡ての問題の解決の根拠を置く、天然又は自己の実験又は其他の方法に由て啓示せらるる真理も一度び聖書の光を以て之を照すに非ざれば彼は之を受けない。時代の思想が如何に変化するも彼は少しも惑はずして唯永遠に変らざる聖書に頼る。「人はみな草なり。その栄はすべて野の花の如し。草は枯れ花は萎む。されど我等の神の言は永遠に立たん」。この堅き磐の上に己が立場を置きて彼は霊的生活上実に言ひがたき安全を感じて居る。而して彼は常に思ふ、神もし人の霊を救ひ給ふならばかかる明白なる具体的の音信――人の通常の言語を以て綴られ全体として謬なき唯一の書――を与へて以て躊躇する所なく之に頼らしめ給ふが如きは、最も合理的なる処置であると。
斯の如く彼の立場は全然聖書本位である。然らば彼は所謂正統派(orthodoxy)に属するものであらうか。若し此語を本来の意味に解釈するならば、彼は確かにその一人であると信ずる。併し乍ら歴史的の意味に於ては、彼は果して此名称を以て呼ばるべき者であるかどうか甚だ疑はしい。少くとも正統派の教会に重んぜらるる神学者教役者若くは平信徒の言説行動等にして彼の共鳴を促すもの極めて乏しきは如何ともすべからざる事実である。勿論信仰箇条のみに就ては大部分又は全部が一致し得るかも知れない。而して彼は信仰箇条の甚だ尊重すべきものなる事を知つて居る。併し同時に精神抜きの信仰箇条が瓦礫よりも尚遙かにツマラヌものである事を信じて居る。形式的信仰告白のみ正しくして精神の之に伴はざる信仰、言語の響きのみを以て表はされ其調子の全く之を裏切る信仰、噫斯の如きものが抑々何にならうか。忌憚なく言はば、彼は斯の如き信仰の中に忍ぶべからざる或ものの存在を認めざるを得ないのである。善良なる正統派の基督者に対して敬意を失する事は彼の甚だ遺憾とする所であるが、其にも拘らず彼は自己の実感を蔽ふ事が出来ない。或ものとは何ぞ、偽善である。彼は敢て言ふ精神の伴はざる形式的信仰は偽善であると。心は悉く主に属かずして口は容易く主よ主よと言ふ。之が偽善でないならば何が其うであるか。斯く言ひて彼は勿論自己を讃へんとする者ではない。彼自身が素々大なる偽善者なりし事を何人よりも能く知つて居る者は彼自身である。併しながら主を迎へてより彼に臨みし変化の最大なるものの一は偽善に対する彼の心持である。先に己の性格たりしもの、今は何よりも悪むべき仇敵と化した。誠に彼の堪へ難きものにして偽善の如きはない。若し自己を偽りて形式的信条を奉ずる位ならば、寧ろ悶えに悶えて悶え死する方が彼の願である。彼が自ら軛を同じうせざらんと欲するものは少くないが、偽善者に至ては聊かの同情をすら寄せることが出来ない。思ふに外見上彼の立場に酷似するが如く見えて実は何の干与もなき者は、多分所謂正統派信者の中に最も多いのであらう。
偽善なる教会と其信者とに対して絶えず強烈なる反抗の声を挙げ来りし者は自由思想家であった。而して彼は之等の自由思想家に対して深き同情を有する。彼等の正直と勇気とは彼の如何にしても愛せざるを得ざる所である。若し共に偽善なる正統派信者の前に立つならば、彼と自由思想家との之に対する態度は外的にも内的にも殆ど一致するであらう。併しながら其故を以て彼は自由思想家の友となる事が出来ない。偽善に対する感情を均しくするに拘らず、人類の罪に関する観念に至ては、彼と彼等との間に根本的差違がある。彼等は聖書の教ふるが如き罪の厳粛なる実在を信じない。故に彼等はキリストの死を自己の為に必要なりとしない。従てまた彼等は自己の生命を彼に引渡す事を肯じない。彼等は自己の主張者である、自己満足の追求者である、世の子である、現世主義者である。然るに彼は自己の抛棄者である、基督の僕である、十字架を負ふ者である、来世の待望者である。かくて彼等と彼との住める国は全然別天地に属する。殊に自由思想家にして一度び其鋒を福音に向け来らんか、彼は断然彼等に対して痛撃を加へざるを得ない。福音の強敵は中世に至るまでは主として偽善なる教会であった。近代にありてはそれは寧ろ自由思想家である。故に彼等勇敢なる自由思想家と戦うて純福音の光輝を遺憾なく発揚せしむるは、近代に於ける福音の戦士として選ばれし者の大なる責任にして、又その軽からぬ名誉である。
聖書本位にして而も所謂正統派信者の群に属せざる者、自由思想の同情者にして而も之と根本的に立場を異にする者、斯の如き者が彼であると彼自身は信じて居る。然るに彼の親しき友と師とは切りに彼を評して『近代人』と言ふ。此批評も多分何等かの真理を含むのであらう。何れにせよ彼はただ主が常に彼を正しきに導き給はん事を祈るのみである。
「旧約と新約」創刊号 一九二〇年六月