人は家にイエスは山に

藤井武

かくて各々己が家に往けり。
されどイエスはオリブの山に往けり。
――ヨハネ七の五三、八の一――

何人の筆ぞ、無雑作なる一抹のスケッチの中に斯くも大なる真理を現はせるは。宮に於ける一日の活劇は終りて、人みな其帰るべき所に帰り往いた。但し各々は己が家に、イエスは独りオリブの山に。誠に彼には枕する所が無かつたのである。併し乍ら此世の家に代へて、彼には静かなる山があつた。オリブの樹蔭、ヱルサレムの街を眼下に望む所、そこに彼は凡ての人を離れ一切の世の事を棄てて、ただ深く深く父と交はつたのである。

貴きかな山上に於けるイエスの夜の生活。何人もその消息を伝へずと雖も、我等は之を想像するに難くない。ゲッセマネの園の一夜の如き又はガリラヤに於ける変貌の出来事の如き、之を代表するものに非ずば暗示するものである。即ち彼はかくて屡々夜を徹して祈つたであらう。律法と詩と預言とに心より親しんだであらう。又サタンの誘ひを最も深刻に味ひて徹底的の勝利を実験したであらう。之を要するに、そは限りなく深き内的生活であつた。人みな市井の巷にあつて浅き休養を求めし間に、彼のみは夜な夜な山上直に天よりの智慧と力との最も豊なる供給に与かつたのである。

イエスの偉大なる外的生活は一に此深き内的生活の発現に外ならなかった。後者なくして決して前者は無かつたのである。神の子と雖も夜々独り静に父に迫りて深く其聖言を味ひ其み声を聴くに非ずんばかの大業を成就する事は出来なかつた。

我等も亦我等の山を要する。世の人をしてその家に往かしめよ。されど我等をして山に登らしめよ。深き聖書知識と深き霊的実験、我等は基督者として先づこの恩恵に与からんと欲する。

「旧約と新約」創刊号 一九二〇年六月