ジウークス氏の聖書観(抄訳)

藤井武

ことばは肉体となりて我らの中に宿り給へり」(ヨハネ一の一四)。聖書がどうして神の言であるかを解く為の唯一つの鍵はイエスがどうして神であるかを知るにある。

一、神が人間の形を以て現はれ給うたとは実に感謝すべき事である。ナザレのイエスは神であつた。決して半ば人間半ば神ではなかった。をんなから生れたまがひなき人間であると共に又真の神であつた。其やうに聖書は神の言である。決して半ば人の言にして半ば神の言ではない。紛なき人の言を以て現はれたる真の神の言である。そしてイエスが婦から生れ給うたけれども聖霊に由て孕まれたと同様に、聖書は人の心から出て来たけれども聖霊がその心を動かしたのである。人には知性と感情とがある、即ち頭と心とがある。頭は男性であつて心は女性である。イエスは父なくして処女マリアから生れ給うた。其やうに聖書は人の頭を藉らずに聖霊が直接預言者や使徒等の心に働きかけて出来たのである。

イエスが紛なき人間であつて我等の性質を悉く帯びて居給うたからといつて、彼が同時に神の子であり給うたことを少しも妨げない。其やうに聖書が人の文字を以て綴られたからといつて、それが神の言である事に少しも差支はないのである。聖書を解剖して見てそれが人の文字に相違ないなどと言つて居る人達は、試みにイエスの肉をも解剖して見るが善い。何処に普通の人間と異なる部分があつたであらうか。

それにも拘はらずイエスの肉は他の人の肉とは全く違つて居た。何となれば神御自身が其体の中に宿り且之を以て顕はれ給うたからである。其やうに聖書も亦凡て他の書とは全然其性質を異にする。何となれば神の言が其中に宿り且之を以て顕はれたからである。故に聖書が人の不完全なる文字を以て綴られたからといって其れが終に朽ちてしまふとは思はれない。否私は聖書が永遠に亡びない事を信ずる。イエスの体が朽ちなかつたやうに聖書も亦亡びない。聖書はイエスの体と同様に神の宿り給ふ特別なる幕屋である。されば最もイエスと親しかりし弟子等が彼の尊き変貌を見たやうに、夜昼聖書と共に歩む者は聖書の文字が或時は日の如くに輝き渡る事を己が実験によつて知るのである。

二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人のセンスのみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあればくらきもある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈ばつこもある。故に或人は自然を見て却て無神論を唱へるのである。摂理に就ても亦同様である。唯にダビデの曰うたやうに悪者は栄え神のしもべは苦しむばかりではない。生れながらの白痴や盲唖などもある。自ら罪もないのに一生苦しまなければならない魂を世に送るとはどうした訳であらうか。之等は皆感覚に訴へては矛盾である。然しながら信仰の目を以て之を見れば悉く解き明されるのである。

イエスの肉も亦さうであった。あの弱い体が神の宿り給ふ家であるとはいかに矛盾のやうに見えたであらう。婦から生れ、年毎に成長し、汗も流せば涙も流し、疲れもすれば叫びもし、遂には死をさへ味つたあの人間の体が神であるとは!さればイエスが唯の人間ではない事を認めながらその神である事を拒む人が、今に至るまで絶えないのである。

同様に聖書も亦啓示であると共に蔽ひである。聖書も亦唯に矛盾のそしりを免れないばかりではない。或は神にふさはしからぬ言或は真ならぬ言をさへ含んで居ると曰はれる。しかしながら之等の一見自家撞着のやうに見える言も実は其下に深き真理を蔽うて居るのであつて、而も堕落した人間には他の方法を以ては之を伝へる事が出来ないのである。

三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他はながらふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼にたる者たらしめんが為に先づ御自身が人に肖たる者と成り給ふ。福音の前になぜ律法が来たか、キリストの御霊の前になぜ彼の肉体が来たか、其理由は即ち茲にある。而して神の言が人の文字の形を以て来た理由も亦之に外ならない。若し神の言が其ままであつたならば我等は之を解する事が出来ないであらう。しかしながら神の言が自ら謙りて人の心を通して人の文字を以て現はれたればこそ、凡ての人が之を受け得るのである。神は愛である、而して愛は人を救はんが為に自分を犠牲とする。故に入若し肉ならば神も亦肉となりて来り給ふ。入若し蔭の中にあるならば神も亦蔭の中に来り給ふのである。

さりながら此事は到底人の排斥を免れ得る事ではなかった。神が弱き我等と同じ形を取りたりと言って人は神を嘲けるのである。聖書が不完全なる人の文字を以て綴られたりと言つて人は聖書を謗るのである。しかし愛は凡て之を忍ぶ、真理はすべて之に堪へる。イエスがマリアから生れた為に嘲りと苦しみとを受け給うたやうに、人の文字を以て綴られた聖書も亦鞭うたれ罵られ審判かれ又殺されるであらう。然しながら斯く為す人々は其自ら為す所を知らないのである。而して神の子イエスが死にて後甦り給ひしと同様に聖書も亦復活して永遠に栄光を帯びるであらう。

「教友」誌第七号 一九一八年一〇月