「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟ではない。ただ神!活ける神!父なる神!彼をだに見ることを得ば、わが望みは悉く足りるのである。「主よ、父を我らに示し給へ。さらば足れり」(ヨハネ一四の八)。然りただ父を示されんことを求むる。彼を見んことを願ふ。「我みづから彼を見たてまつらん、わが目彼を見んに識らぬ者の如くならじ、我心之を望みて焦る」(ヨブ一九の二七)。
「我を見し者は父を見しなり。いかなれば我らに父を示せと言ふか。我の父に居り、父の我に居給ふ事を信ぜぬか」(ヨハネ一四の九、一○)。愚かなるかな、神を「高き所聖き所」にのみ求むる者。神は「心砕けてへりくだる者と共に住み給ふ」(イザヤ五七の一五)。心砕けてへりくだり、ナザレのイエスの十字架の下にひれ伏す者、かかる者の前に神はみづからを顕はし給ふ。まことにイエス其人を仰ぎて「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ二○の二八)との叫びはわが唇に上らざるを得ない。彼こそは「見得べからざる神の像」である(コロサイ一の一五)。「神は凡ての満ち足れる徳を彼に宿し」給うたのである。ああナザレ人イエス!汝ありてわがたまは始めて安らかである、「汝はわが霊魂を生かし御名の故をもて我をただしき路に導き給ふ、たとひ我れ死のかげの谷を歩むともわざはひを恐れじ、汝我と共にいませばなり」(詩二三)。汝を見て我は実に一たび神を見たのである。否我は日々神を見つつある。わが渇きは朝毎に汝によりて癒されつつある。
然り、今われらは神を見つつある。然しながら「今われらは鏡をもて見る如く見るところ朧なり」(前コリント一三の三一)。父よと呼びて祈の庭に親しく神を見たてまつると雖も、なほ我らの目に罪の曇は晴れやらず、涙の露の全くは拭ひ去られざるを如何せむ。われらの既に神を見始めしことは動かすべからざる事実である、しかも尚ほ彼の栄光を残なく見たてまつる事が出来ないのである。さらば「何の日にか往きて彼のみまへに出でん」。彼は今我らの心を日々に聖め給ふ。而して約束して曰ひ給ふ、「福なるかな、心の聖き(聖められたる)者、其人は神を見ん」と。さらば何の日ぞ、「かの時には顔を対せて相見ん」といひ、「今わが知るところ全からず、されどかの時にはわが知られたる如く全く知るべし」(前コリント一三の一二)といふその時は果して何の日ぞ。
「愛する者よ、我ら今神の子たり。後いかん。未だ顕はれず。主の現はれ給ふ時、我ら之に肖んことを知る。我ら其の真の状を見るべければなり」(ヨハネ一書三の二)。「神と羔羊との御座は都(新しきヱルサレム)の中にあり。その僕らは之に事へ、且御顔を見ん」(黙示録二二の三、四)。
「教友」第八号 一九一八年十一月