時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつある。何ぞ。曰く時代の声である。彼等はその何処より如何にして来るかを知らない。又何処に往くかをも知らない。否その正体の果して何であるかをすら十分に解しない。然るにも拘らず訳もなく之を讃美して苟くも後れを取らじと努力しつつある。今の人に取て真理とは他のものではない。ただ時代の声である。之が唯一の真理であって、之に背くものは悉く迷妄である、痴愚である。勿論其理由の如何を問はない。誠に不思議なる現象である。
怪物「時代の声」よ。彼は驚くべく現代の人心を攬へてしまった。然しながら我等は危ぶむ、今の人は余りに不相応なる信頼を彼に投げ懸けて居るのではない乎。而して之に由て大なる危険と恥辱とを自ら招きつつあるのではない乎。抑々彼の正体は果して何ものである乎。
昔ユダヤの民等いたく堕落して異邦の迷信に心を奪はれ、巫女(死人との交通者)又は魔術者等の言を最大の権威として迎へつつありし時に、預言者イザヤは彼等のうち心ある者に向て叫んで曰うた、
もし人汝等に告げて巫女及び魔術者の囀づるが如く囁くが如き者に求めよと言はば、
「民は己の神に求むべきに非ずや、いかで生者の為に死者に求むる事をせん」と言へ。
と(イザヤ八の一九)。汝等の多数者の讃美しつつある巫女及び魔術者の言とよ。かの囀づるが如く囁くが如き、権威なき言。あれは果して何ぞ。死者の声ではない乎。汝等も死者にして動ける死骸に過ぎない乎、さらば彼等に求めよ。然しながら汝等もし生者ならば、汝等もし真に生きんとする者ならば、何とて死者の声に聴くぞ。生者の為に死者に求むるとは!これ正に最大の背理ではない乎。棄てよ死者の声を。而して求めよ生くる者に、然り永遠に生くる者に。汝等ただ耳を傾けよ父なる神の言に。斯く勧めたる後預言者は更に声を励まして曰うた、
ただ律法と証詞とを求むべし。彼等の言ふところ此言に適はずば晨光あらじ。
ただ律法と証詞!預言者等に由て伝へられたるヱホバの神の言!之のみを求めよ、之のみを信ぜよ。然らずんば晨の光は永遠に上らないであらう、彼等の前途は限なき暗黒あるのみであらうと。茲に至て預言者の言は唯に当時の迷信の真相を喝破し其の恥辱と危険とを警告するのみならず、之に代へて民の頼るべき唯一の磐を指摘して、極めて明晰且適確であつた。
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改めざる限り、多数の声は必ず神に背くの声たるを免れないからである。とこしヘに生き給ふ神に背くの声、罪人の声死者の声、之が時代の声である。宜なるかなその響きの高きが如くにして、而も何人も衷心よりの確信を以て之を唱ふる者あるなく、実は囀づるが如く囁くが如くに附和雷同せるに過ぎない事。時代の声は死者の声である、而して我等は生くる者少くとも生きんと欲する者である。「いかで生者の為に死者に求むる事をせん」。我等は人類の多数者が悔改めざる限り、すべて時代の声に反対する。我等は今の人の唱ふる民主主義又は社会主義等に対し明白なる反対を表する。
然らば所謂官僚主義又は資本主義は我等の賛する所である乎。否、勿論さうではない。我等の之に対するは彼に対すると少しも異ならない。我等は「ただ律法と証訶とを求む」る者である。永遠に生き給ふ神の言のみを奉ずる者である。然り神の言なる聖書のみが、真理の最後の根拠として我等の倚り頼む所である。聖書以外に何処に確実にして明白なる人生の真理がある乎。天然の啓示も良心の囁きも、之を聖書の光に照して見て初めてその誤なき意義を攫む事が出来る。人類普通の言語を以て伝へられたる神の福音を除いて、我等の確信に値する真理は一つも無い。もし聖書を棄てん乎、何を最後の根拠として立つべき乎、何処に光明を認めて進むべき乎、「彼等のいふ所此言にかなはずば晨光あらじ」である。神の言に頼らずして、人の運命は永遠の暗黒である。我等はただ律法と証訶とを求め、ただ神の言にのみ聴き、ただ聖書にのみ頼るであらう。
「教友」第二六号 一九二〇年五月