藤井喬子を葬るの辞

内村鑑三

それ人は既に草の如く、共栄は凡の草の花の如し。草は枯れその花は落つ、然れど主のことばかぎりなくたもつなり(ペテロ前書一章二四、二五節)。
我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き、死ぬるも主の為に死ぬ、是故に或は生き或は死ぬるも我等は皆な主のものなり(ロマ書十四章七、八節)。
我れ天より声ありて我に言ふを聞けり、曰く汝此ことしるせ、今より後主に在りて死ぬる死人は福ひなり、御霊みたまも亦曰ふ、然り彼等は其労苦はたらきを止めてやすまん、其功之に随はんと(黙示録十四章十三節)。

○私共の愛し又尊敬する藤井のぶ子は逝きました。彼女に性来うまれつきの美質がありました。近代に処するに足るの教育がありました。日本婦人特有の淑徳がありました。之に加へて神とキリストとを信ずる熱き信仰がありました。彼女は堅忍で、従順で、実直でありました。忠実なる妻であって、慈愛深き母でありました。今茲に彼女を失ふは惜みても尚ほ余りがあります。私自身の実験より言ひまして、彼女は私が此世に於て知るを得し最も善き婦人の一人でありました。

○然るに今此婦人が齢未だ三十に足らざるにられたのであります。死は孰れも人生の謎でありますが、若き淑徳の婦人の死は最大の謎であります。神はなぜ斯かる者を取り給ふのである乎、何故其大能を以て彼女の如き者を癒し給はないのである乎。ヤイロの女を死より呼び起し給ひしキリストは何故茲にまた奇跡を行ひ給はないのである乎。斯かる問題は斯かる場合に於てすべて信ずる者の衷に起ります。そして私共は斯かる問題をひつさげて神様御自身を正義の法廷に訴へんとします。神よ何故に、何故にと。

懐疑はまことに深くあります。神は果して在るのである乎。在っても癒す能力がないのである乎。或は人の苦痛を他所よそに見て其祈りに耳を傾け給はないのである乎。……深い深い疑問であります。而して此疑問に対して満足なる回答は与へられずして私共は更に積重つみかさなる疑問にもだゆるのであります。

然し乍ら神様にも亦申分があると信じます。そして斯かる場合に於て私共は神様の御言葉を聞き、共聖業みわざを義とし奉るべきであります。「我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き死ぬるも主の為に死ぬ」とあります。生くるが目的でありません。生くるも死ぬるも主の為にするのがクリスチャンの目的であります。そして若し死ぬる事が生くる事よりも主の為になるのでありますならば我等は死なんことを欲するのであります。そして人生多くの場合に於て死ぬるは生くるに勝さりて神の御用に立つのであります。キリスト御自身の場合がそれでありました。多くの義人、多くの神の人は生を以てしてよりも死を以てして神の御栄を顕はしました。喬子さんの場合もさうではありますまい乎。私共少しく喬子さんの心を知る者は、彼女の心の切なる祈願ねがひの那辺に在った乎を知ります。第一は勿論夫君の伝道事業の挙らんこと、第二は子衆並に両親弟妹等のキリストの救に入らんことであったと信じます。そして若し是等の祈願ねがひが遂げらるるならば彼女は死を辞さなかったのであります。そして神は彼女の祈願以上に彼女の祈願を聴かんが為に茲に彼女を御自身に取り給うたのであると信じます。喬子さんは勿論生きて多くの事に於て藤井君の事業を助くる事が出来ます。然し乍ら被女は死を以てして、生を以てしては到底為すことの出来ない援助を藤井君に為さんとして居るのであります。甚だ失礼の申分でありますが、私は私の実験より申上げます。喬子さんを天国に送って藤井君は本当の伝道師に成られたのであります。藤井君は今よりは理想を語るに非ず、研究の結果を語るに非ずして、直に見し所のものを語らるるに至り、其結果たる実に前日の比にあらざる事を実験せらるる事と信じます。今より後、ビヤトリスがダンテを助けしやうに喬子さんが藤井君を助けらるるのであると信じます。喬子さんは決して己の為に死んだのではありません。主の為に死んだのであります。彼女の夫、御両親、又私共友人一同が彼女の死をして其目的を誤らしめざるやう今より大に努力せねばなりません。

○死は最も悪い事でありません。人生、死よりも遥に悪い事が沢山にあります。故に為すべきを為し、信ずべきを信じ、高き目的の為に一生を終る。是れ悲しむべき事に非ずして実は感謝すべき事であります。無難に危険多き旅行を終ったのであります。我等に感謝の讃美が揚らざるを得ません。喬子さんに今や病の苦しみは止み、誘惑の心配は息み、天に在て神を讃美し、地に在る愛する者の為に祈るの喜びがのこるのみであります。私共茲に彼女の為に感謝すべきではありますまい乎。

「旧約と新約」第二九号 一九二二年一〇月