種蒔きと刈り取り

ロバート・ガボット

一片のニュースが私たちに影響を及ぼすのはいつか?それを信じた時であって、その前ではない。最初、オーストラリアで発見された金の知らせがあったが、定かではなかった。人々は、金の近くにいた人々でさえ、影響を受けずにいた。ついに、十分納得のいく証拠がそろった。すると直ちに、人々は以前の商売を放り出して、貴金属が眠っているらしい場所に駆けつけた。その知らせは広まり、人々はそれを信じた。あらゆる身分や階級の数百もの人々が畑、店、船を離れ、つるはし、鍬、テント等、目前の大きなチャンスをつかむのに必要そうな物を買って、金鉱に押し寄せた。町々の多くの家の扉には、「金を掘りに出かけました!」という短い通知が見受けられた。苦難、欠乏、きつい仕事も、獲得欲に取り憑かれた人々にはなんでもなかった。魅了された人々の目の前に踊っていたのは、ただ「金、金、金!」というこの一語だった。金を手に入れさえすれば、労働も欠乏も問題ではない!

来るべき御子の千年王国に関する神の証しが信じられていたなら、同じように大きな結果が続いていただろう。

私の読者の前に、新約聖書にきわめて明確に述べられている一つの原則を示すことにしたい。この原則は一人一人にとってきわめて身近で最も重要な原則である。

それは次の神の霊の御言葉の中に述べられている。

欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものはなんであれ、それを刈り取ることになります。(自分の)肉に蒔く者は肉から腐敗を刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠に続く命を刈り取ります」(ガラテヤ六・七、八)。

自然界における神の働きは、数々の偉大な霊的真理を私たちに教えるよう設計されている。刈り取りはその年の重要行事である。皆がその重要性を実感している。一年間生きながらえるかどうかは、それにかかっている。しかし、刈り取りはその前の年にかかっている。刈り取りは蒔くことにかかっているのである。畑に種を蒔かないなら――休耕地から小麦の作物は集められない。畑に蒔くなら、種蒔きの季節に畑に蒔いた種にしたがって、刈り取りの季節に作物が実る。春に蒔いた種にしたがって、秋に実りの束が得られる。大麦を蒔くなら、その黄色い穂があなたに挨拶するだろう。カブの種を蒔くなら、ある日その白い球根が地面から引き抜かれるだろう。この原則は全く周期的・恒常的である。農夫、労働者、園丁、紳士、機械工など、みながそれをあてにしており、疑いを持たずに確信している。

さて、私たちの前にある聖書は、同じ真理が自然界と同じように霊の世界にもあてはまることを明言している。みなが農夫ではないし、みなが農作業者でもない。しかし、みなが今、種を蒔く者であり、最後には一人一人が刈り取る者にならなければならない。だれもが蒔かないわけにはいかないし、各自は自分が蒔いたように刈り取らなければならない。しかし、霊の世界には自然界と同じように異なる種類の種がある。自然界には赤い毒のベリーもあれば、黄金色の小麦もある。ナスを蒔く者もいれば、アザミを蒔く者もいる。ある人々は善良で聖く、その口からは神への祈りと賛美が発せられ、その手は人々に善行を施す。ある人々は邪悪であり、その道のまわりには呪い、誓い、好色、酩酊が散らかっている。さて、これらの種はどれも、来るべき日にそれにふさわしい結果を生じさせるだろう。今は言葉を語り――行為をなす。その報いが完了するのは来るべき時である。

自然界の運行には三つのきわめて特徴的な時期がある。

1.第一は種蒔きの時期である。種を蒔く者は篭から手にいっぱいの種を何度も取り出し、土地の上に広く撒き散らす。すると、種は地面の下に消える。しかし、なくなったわけではない。種を蒔く者の手にあった時と同じ性質を、地下に隠れた種は持っている。

2.第二は待つ時期である。畝の下の種は膨らみ始め、茎を伸ばし、花を咲かせ、ついには実を熟させる。

3.三番目の最後の時期は刈り取りの時期である。収穫の時が来た。良い種を蒔く者は今、黄色い束を喜ぶ。

この三つの時期は霊の世界にも見られる。人の一生の間、種蒔きが進む。それから最後の種が蒔かれると、作物の実りを妨げるものはなにもない。人が死者の中からよみがえる時、収穫がその人を出迎える。自分の蒔いた作物が好きでも好きでなくても、それを刈り取らなければならない。小麦だろうとイバラだろうと、自分の懐に取り入れなければならない。「彼は呪いを愛した。それゆえ、呪いを彼に臨ませよ。彼は祝福することを喜ばなかった。それゆえ、祝福を彼から遠ざけよ。彼は自分の衣のように呪いを身にまとった。それゆえ、呪いを彼のはらわたに水のように、彼の骨に油のように臨ませよ」(詩篇一〇九・十七、十八)。悲しい刈り取りだが、蒔いたものに至極ふさわしい!

それゆえ、すべての人が答えるべき二つの重大な問いがある。

1.あなたはどんな種を蒔いているのか?

2.あなたはどんな土地に種を蒔いているのか?

神は、あなたの作物があなたの蒔いた種と同じ種類になるよう取りはからわれる。「人が蒔く物はなんであれ、それを刈り取ることになります」。あなたは祈りを蒔くかもしれないが――それらは失われることはない。最後の日に、それらの祈りは旧友のようにあなたと再会するだろう。あなたは誓いや呪いを蒔くかもしれないが、それらも大いなる刈り取りの日に蒔いた者と再会するだろう。種が地面に落ちる時と作物が納屋に収められる時との間には大きな隔たりがあるかもしれない。しかし、両者は密接につながっており、両者ともしかるべき時になされねばならない。実に多くの人が悪を行うよう誘われるのは、その報いの到来にあまりにも長い時間がかかるため、報いが訪れることは決してないと安心してしまうからである。ここで、神の御言葉を信じる信仰が介入する。信仰は、いと高き方の約束と警告はすべて成就されることを理解する。信仰は、万物が今の恵みの日から「裁きの日」すなわち「の日」へと向かいつつあることを見る。その時、回心した人にもそうでない人にも、一人一人に自分の働きにしたがって報いが与えられる。今は忍耐の時なので、使徒は罪を犯している人に忠告してこう書き記している、「あなたのかたくなな悔い改めない心のゆえに、あなたは神の義なる裁きが現れる怒りの日のために、神の怒りを自分の身に積んでいるのです。神はすべての人にその行いにしたがって報われます。忍耐強く善を行い続け、栄光と誉れと不朽とを求める人には、永遠の命が与えられます。しかし、争い好きで真理に従わず不義に従う人には、憤りと怒りが与えられます。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、艱難と苦悩が与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。なぜなら、神は人を偏り見ることがないからです」(ローマ二・五~十一)。

この警告の言葉から、来るべき日に備える必要があることがわかる。なぜなら、その時、今の時代を支配しているのとは全く逆の原則が働き始めるからである――自分たちの行いに対して、自分たちの行いにしたがって、報いを受けるのである。来るべき時代、神は一人一人にその行いにしたがって報いを与えることにより、ご自身の義を示される。神は今はそうしておられない。神は御子のとりなしのゆえにこの世を惜しんでおられる(二コリント五・十八~二〇)。しかし間もなく始まる義の日では、神はご自身が義であることを証明して、一人一人に――罪人にも聖徒にも――キリストの働きに従ってではなく、各自の働きにしたがって、その働きが善であれ悪であれ、報われるのである。

神が忍耐しておられる今の時代、詩篇作者が述べているように、非常に邪悪であるにもかかわらず、高い地位にあって繁栄している人々の明白な例がしばしば見られる。これは神の御計画の一部である。あわれみの時代が長引いているのは、いと高き方が打つことではなく惜しむことを願っておられるからである。彼は親切なことに、可能なら人を悔い改めに導こうとしておられるのである。そして、この遅延を正しい方向で役立てている人もいる。しかし詩篇作者が見たように、この悪人はついに最後には邪悪さのせいで滅んだ(詩篇七三篇)。神の忍耐を侮るなら、彼の怒りの恐ろしさをさらに激しく燃え上がらせることになるのである。

私たちの行いからすでに、善であれ悪であれ、少しの結果が生じている。しかし、それらは結果全体と比べると無に等しい。私たちは今、利息を得るが、来るべき日には元本を受け取る。利息は前味わいにすぎず、将来受け取る同じ性質のものを示している。キリストが現れる時、厳密かつ公平な報いを受けるのである。

もし私たちが地の種を蒔くなら、私たちの刈り取りは災いである。もし私たちが天の種を蒔くなら、私たちの作物は喜びである――主の喜びである――永遠の栄光である。

それゆえ、「あなたはどんな種を蒔いているのか?」という問いほど、私たちにとって身近で重要な問いはない。この世の種だろうか?それとも神の種だろうか?サタンの穀物倉からの種だろうか?それともキリストの穀物倉からの種だろうか?その種はどんな種類の収穫を実らせるだろうか?イバラとイラクサだろうか?それとも喜びの束だろうか?主は「働きにしたがって」報われるだろう。これは他の真理も含んでいる。作物は種のにしたがっているだけでなく、そのにもしたがっているのである。これを聖霊も述べておられる。「私は言いますが、乏しく蒔く者は乏しく刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります」(二コリント九・六、七)。

しかし、次に土地の種類について述べることにしよう。

農業では、多くのことが土地にかかっている。良い土地だろうか、悪い土地だろうか?重い土地だろうか、軽い土地だろうか?さて、霊の世界には私たちが蒔くことのできる二種類の畑があることを、聖霊は私たちに教えておられる。

Ⅰ.肉か、Ⅱ.霊である。

1.は通常の土地であり、世の人々はこれしか見ていない。これに彼らは自分たちの種を委ね、これから彼らは収穫を期待する。群集は世の富を刈り取るために蒔いている。多くのクリスチャン、真に回心した者たちが、同じことをしている。

さて、この土地は全く不毛なわけではない。ここに蒔かれた種は芽生え、実を結ぶ。その一時的な結果は金であり、金で買える快楽や所有物である。蒔いた者の魂に与えられる霊的結果は、世の快楽が大いに増し加わって、時や肉をさらに求める欲が大いに増し加わることである。

しかし、来るべき日にはどんな結果になるだろう?「自分の肉*に蒔く者は、肉から腐敗を刈り取ります」。

*Εαυτου。聖書の精確さを見よ。このささやかな言葉がなければ、「私は自分の貧しい兄弟にパンや衣服を与えません。それはに蒔くことにほかならないのではないでしょうか?」と言う人がいたかもしれない。

私たちはこれをどう理解するべきだろう?

現世に属する事柄のための勤勉さは必然的に墓という結果に終わる、ということを意味するのだろうか?否!それは、死がすべてを飲み尽くし、地上のことしか念頭にない計画を滅ぼす、ということだけを意味するのではない。なぜなら、死はキリスト出現前にも多くの人を襲ったが、聖霊は神がしかるべき時に報われることについて語られたからである。さらに、現在、死が主の民の大勢の上に臨み、目下のところ、腐敗が彼らを拘留しているが、彼らは復活して主の喜びにあずかるからである。

私たちはこの節を先立つ章のいくつかの節と比較することで、最もよくその意味を理解することができるだろう。「さて、肉の働きは明白であって次のようなものです。姦淫、不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、憎しみ、不和、そねみ、怒り、争い、反乱、異端、ねたみ、殺人、酩酊、遊興、そのようなものです。前にも言いましたが、このようなことを行う者は神の王国を継ぐことはありません」(ガラテヤ五・十九~二一)。この二つの主張をまとめると、それにより、肉に蒔いて腐敗を刈り取ることは千年王国から締め出されるのと同義であることがわかる。主が霊に蒔く者たちに対して第一の復活の栄光を宣告される時、肉に蒔く者たちに対しては、その肉体は死の力の下に依然としてとどまるという判決を下されるだろう。「肉から彼らは腐敗を刈り取ります」。また、次のようにも書き記されている、「もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ぬからです(死なんとしているからです)。しかしあなたたちが御霊を通して肉の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます」(ローマ八・十三)。これはいかなる死か?大勢の聖徒が経験する今日の死ではなく、キリストが現れる時に受ける将来の死である。将来受けることになる命とは何か?霊の命ではない。なぜならこの御言葉は、すでにそれを持っている信者たちに対して語られているからである。天然の命でもない。なぜなら、聖徒の中の最善の者も依然として死ぬからである。したがって、死も命も将来の日のことなのである。救い主ご自身がこれを別の観点から再三述べておられる――「自分の命を救う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを見いだす」(マタイ十六・二五)。したがってこのように、神は御霊によりクリスチャンたちに――然り、真の信者たちに――肉に蒔かないよう警告しておられるのである。なぜなら、嗚呼!キリストの民の大勢がそうしているからである。

「あの女性は誰か?耳飾りやブローチ、首飾り、指輪、宝石や金の鎖をきらびやかにまとい、髪を三つ編みにして、鮮やかな色のドレスと高価な何重ものレースを身にまとっているとは。彼女がクリスチャンのはずはない!」。しかし、彼女はクリスチャンなのである。彼女は日ごとに自分の肉に蒔き、貧しい者に対して、キリストの群れに属する貧しい者に対してすら、少しも分け与えない。来るべきかの日、彼女に対する報いはいかなるものか?彼女はこの悪い土地に自分の種を蒔き散らすだろう。その時、これは彼女の損失になるだろう!「肉から」――神が真実であるように確実なことである――「彼女は腐敗を刈り取ります」。キリストにある姉妹たちよ!これを心に留めよ!この御言葉は他の人たちに対するのと同じように、あなたたちにも強く語りかけているのである。あなたの財布にはいくらかの金がある。あなたはそれをどうされるのか?肉は言う――「耳飾りがかなり痛んでいますね。美しい耳飾りを一組買えば、見栄えが断然よくなりますよ」。しかし、ここにキリストにある肺病の兄弟がいて、入手可能なあらゆる栄養を必要としているが、それを手に入れるにはあまりにも貧しい。耳飾りに費やすお金を彼に渡したらどうだろう?どちらが良い土地に蒔いた良い種になるだろう?

夏の晴れた日曜日――葉はみずみずしく緑色に茂り、鳥は楽しげに歌う、田園の素晴らしい午後。一人の信者は散歩に出かけ、別の信者は祈りつつ日曜学校の授業に向かう。この二人のうち、良い種を蒔いているのはどちらだろう?

多くの人はキリストのための奉仕を好まない。しかし、最後に広大な土地の収穫を得ることを望んでいる。今は腕組みしてなにもしていないのにである。

「怠け者よ、眠りから目覚めよ!
刈り取りたいなら、蒔かねばならぬ。」

食器棚には皿が積まれ、食卓には旬のあらゆる贅沢な食物、高価なワインや果物や酒がならんでいる、クリスチャンの兄弟はいないだろうか?私たちはこれについて何と言うべきか?これは肉に蒔くことであり、この種類の土からは腐敗しか生じない。クリスチャンよ!警戒せよ!この世の諺が実について述べている――「早く実るものは早く腐る」と。肉から刈り取ることも同じである。その楽しみはすべて今だけであり――来るべき日におけるその実は腐敗なのである。

2.しかしもっと良い土がある――「御霊」、聖霊によって新しくされた者の内に生じる新しい性質である。これこそ良い土地である。ここにできるだけたくさん蒔きなさい。ここでは失うことはありえない。地の収穫は人の暴力や欺き、あるいは神の御手によって農夫から奪われるかもしれない。しかし、この畑ではそのような損失を被るおそれはない。では、霊に蒔くとはどういうことか?私たちがどこで雇われていたとしても、キリストのために教会やこの世に対して善を行うとき、私たちはキリストのためにこの畑に蒔くのである。キリストのために孤児、やもめ、貧者、病人を助ける人は、霊に蒔くのである。福音を宣べ伝え、トラクトを配り、信者たちを養う人は、この土に蒔くのである。ここでは幾千の良い行いによって種を蒔くことができる。

これらの働きに対して、イエスはその出現と王国のとき報いを与えることを約束された。「あなたたち(クリスチャン)が宴会を催すときは、貧しい人、障害者、足なえ、盲人を招きなさい。そうするならあなたたちは幸いです。なぜなら彼らはあなたたちにお返しをすることができないからです。あなたたちは義人の復活の時、見返りを受けます」(ルカ十四・十三、十四)。

「あなたたちの敵を愛しなさい。敵に善を行い、見返りを期待せずに貸してあげなさい。そうするなら、あなたたちの報いは素晴らしく、あなたたちはいと高き方の子らとなります」(ルカ六・三五)。「あなたが施しをする時は、あなたの右手がしていることを左手に知らせてはいけません。それはあなたの施しが隠れているためです。そうするなら、隠れて見ておられるあなたの御父はあなたに公に報いてくださいます」(マタイ六・三、四)。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしの報いはわたしと共にあり、各々にその働きにしたがって与える」(黙示録二二・十二)。

イエスの出現の時、この良い土から生じる作物は「永続する命」である。なぜなら、この幸いな種蒔きの直接的結果は、来るべき時代と第一の復活または死者からの復活に「ふさわしいと勘定される」ことだが、それにとどまらないからである。千年間の支配は最後の宣言――「彼らは永遠に支配する」――に合流するのである。

しかし、聖霊が暗示しておられるように、この真理はあまりにも強力で心を探るため、拒否される大きなおそれがある。以下の文章が文中いくつかの言葉で現れ、同じような句で繰り返される――「欺かれないようにしなさい。神は侮られるような方ではありません」。

聖書の観点によると、迫りつつある裁きの日に私たちの行動が確かに裁かれることは、聖潔に至るために神が用意された動機の一つである――とても強力な動機である――これは諸教会への手紙の中で様々な形で繰り返されている。しかし、これはあまりにも多くの人を罪に定め、あまりにも多くの人を恐れさせる。彼らは自分には間違った点がある、もしくはその疑いがあると思っているので、あえてそれを直視しようとしない――彼らはこの真理を受け入れない。心の曲がった人なら、「自分を心地よくしてくれる嘘の方が罪に定める真理よりましだ」と自己正当化することは困難ではない。それゆえ神は、現実の危険をあなたに示す親切な警告を取り払われるのである。その危険とは獄であり、多くのクリスチャンはそれに落ち込むだろう。

来るべきキリストの日、信者であれ未信者であれ、一人一人にその働きにしたがって報いが与えられる」。これが神の注意書きである。しかし、多くの人がこれに大反対している。

「そんなことは正しくない。なぜなら、神の民の選びは永遠の救いに至るからである」。

そのとおりである、友よ。しかし、救われた者が新しい地で永遠の分にあずかる前に、千年間の特別な時代がある。確かに、選びは救いあるいは神の恵みの賜物を伴う。しかし、報いはもたらさない。報いは働きにしたがって与えられるのである

「しかし、あなたは律法の原則を取り入れている。福音は恵みであり、完全に恵みである。真のクリスチャンとは神の賜物の上に立つ人のことであり、四方を特権で囲まれているのである。彼は神の御子の肢体であり、御父と共にある子であり、罪の赦しと内住する霊を持っている。私たちの大祭司であるイエスは、私たちの多くの失敗にもかかわらず、高き所で、御父の御座の前で、大いなる告発者に対して、私たちを擁護してくださるのである」。

全くそのとおりである、兄弟よ!しかし、別の原則に基づく来るべき日のことも聖書に記されているのである。その時、一人一人は自分の働きにしたがって取り扱われるだろう。「自分の働きにしたがって」である。私が思うに、兄弟よ、あなたはこれらの御言葉をしばしば口にしてきたが、それを決して受け入れず、決して察知しなかったのである!「私たちのためのキリストの働きにしたがって」ではない――そうだったら、信者はみな同じ水準に立っていただろう。しかし、私たちの働きにしたがってである。聖霊は、「私たちを救い、聖なる召しをもって私たちを召された方。それは私たちの働きにしたがってではなく、彼ご自身の御計画と恵みにしたがってです。この恵みは世が始まる前からキリスト・イエスにあって私たちに与えられていたものです」(テトス一・九)と書き記されたが、その同じ御霊が、「すべての諸教会は、わたしが人の心の奥底までも探る者であることを知るであろう。そして、わたしはあなたたち一人一人にあなたたちの働きにしたがって報いよう」(黙示録二・二三)という御言葉をも私たちのために書き記させたのである。

別の人は言う、「しかし、神が恵みを賜らなければ、あわれな私たちはどうやって立てるでしょう?もし主が私に祈る力や、有害なものを差し控える恵みを与えてくださらなければ、どうやって私はそれを行えるでしょう?」。

もしあなたの言う原則が正しかったなら、エホバはだれも裁けなかっただろう。「決してそのようなことはありません。それなら、神はどうやってこの世を裁かれるのでしょう?」(ローマ三・六)。この悪魔の欺きに気をつけよ!もしあなたが罪を犯さざるをえないというなら、神も打たざるをえないのである。「欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものはなんであれ、それを刈り取ることになります」。すべての警告は選ばれていない者、この世の罪人にのみ向けられている、とあなたは思うかもしれない。あなたは神の愛する子なので、それらの警告があなたに触れることはない、というわけだ。これは昔ながらの欺きである――「身を投げ下ろしてみなさい。なぜなら、『彼はあなたのために御使いたちに命じられる』と書き記されているからです」。

救い主の実際の返事は、「あなたの神である主を試みてはならない」である。「私はあなたたちに無知であってほしくありません。私たちの父祖たちはみな雲の下におり、みな海を渡り、みな雲と海の中でモーセへとバプテスマされ、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲みました。なぜなら、彼らは自分たちについてきた霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストでした。しかし、彼らの多く(大部分)を神は喜ばれませんでした。なぜなら、彼らは荒野で投げ倒されたからです」(一コリント十・一~五)。つまり、特権は不従順に対する刑罰を食い止められないのである。昔のイスラエルが持っていた特権はあなたの特権と同じである――エジプトから導き出され、水を通して連れ出され、上から養われた。にもかかわらず、神はご自身の宿営の中から違反者たちを断ち切る余地を残しておられたのである。

「そうです、しかし、それは律法ではなく福音の恵みに属する私たちとは関係ありません」。

「さて、これらの事柄は私たちの予表でした。それは彼らが欲望にふけったように、私たちが邪悪なことにふけらないためです」。「彼らの何人かが試みたように、私たちはキリストを試みないようにしましょう。彼らは蛇によって滅ぼされました」。

「しかし、良い働きに報いがあるだけでなく、悪い働きにも報いがあるなんて言いませんよね!」。

イラクサの種はヒョウタンの種と同じように育たないだろうか?然り!御言葉は明らかに述べている――「人が蒔くものはなんであれそれを刈り取ることになります」と。どの種類の種にも穀物が実ることになる。どの土地も刈り取られることになる。信者たちにパウロは書き記している――「悪を行う者は、自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません」(コロサイ三・二五)。あなたの心はあなたに媚びへつらって言う、「神の子が悪い種を蒔いても、神の父なる心はその人を守ってくださいます。しかし、敵が毒麦を蒔くなら、敵は間違いなく自分の悪い働きの報いを受けます」と。聖霊はこの幻想を予見しておられたので、この偽りの避け所を力強い御言葉で粉砕しておられる――神は「人を偏り見ることはありません」!

むこうにハリエニシダの種が一籠ある。どんな作物が実るかは蒔き手による、とあなたは思うのか?全ロシアの皇帝に、「我が手が蒔いたこれらの種は、地面から芽生える時、変化してバラになる」と言わしめよ。周知のように、神は誰が蒔くかには無関心である。問題は「誰が蒔くか?」ではなく、「何を蒔くか?」である。乞食が麦を蒔くなら、麦を報いとして受ける。これはあなたを教えるための神の視覚教材である。これがこの世で起きるのと同じように、来るべき日にも起きるだろう。神の子らがイラクサの種を蒔き散らすなら、とげだらけのイラクサを刈り取るだろう。神が「義なる裁き主」として座に着いて結果に報われる時、神は人を偏り見ることはない。神は行いに対してのみ報われるのである。

何度も何度も、旧約と新約の両方に、この原則はあらわれる。そしてまた、イエスは「義なる裁き主」として来臨して報いをお与えになる(二テモテ四・八)と、証しされている。この原則は絶対である。来るべき「裁きの日」、この原則は信者と未信者に、選ばれた者と選ばれていない者に、等しく適用されるのである。

この偉大な原則を一人一人に適用することは、なんと切実に心を探ることか!今は秘密の時である。神は一人一人の生活について、多くのことが知られずにいることを許しておられる。しかし、明るみに出して正体を暴露する日が来つつある。その時、偽善者は災いである!今日、覆いを取り除かれないことがしばしばあるのをいいことに、罪を犯し続ける多くの回心者たちは災いである。クリスチャンよ、神の重大な決定――救い主の厳粛な言明――を思い出せ、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られないものはありません」(ルカ十二・二)。これはこの世の人への言葉だろうか?否、「第一に彼の弟子たちへの」(一節)言葉である。信者よ、今はあなたの生活の多くを覆いが覆っているが、その覆いが引き裂かれる時、汚れではなく美が、不信ではなく忠信が現れるように生きよ。今の見た目で誤ってはいけない!神は真実なので、その時、暗闇があなたの行いの上にとどまることはない。行いは光の中に置かれ、報いを受けるのである。

この真理があてはまるのは――

良い種を蒔かないことにもあてはまる。この事例は前の節に示されている。「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人とあらゆる良い物を分かち合いなさい」。この御言葉は明らかに、信者は神の事柄について教える人たちを支援すべきことを述べている。しかし、この宣言が確立されていない所では、この命令は一般には行われていない。その支払いをするかどうかは、良心に、キリストに対する義務感や従順に委ねられている。それゆえ、多くの人はなにも与えないし、幾人かの人はごく僅かなものしか与えない。教会員なのに、一年間どれだけけちったかを誇りさえする人もいる。キリストの宗教を告白するある人は、自分の勧めの言葉を次のように締めくくったと言われている――「私の友よ、あなたは教会に加わった方がいいですよ。教会に加わることは高くつく、と考える必要はありません。私は二十年以上も教会員でしたが、二シリングしか払ったことがないのですから」。多くの「二シリングのクリスチャン」が口先だけの者だけでなく、真に回心した人たちの中にもいるのではないかと私は恐れる。さて、こうした事例の大部分は全く知られていない――彼らの醜い金銭愛が咎められることはない。彼らはなんの非難も懲らしめも今は受けていない。かの時、彼らは大いに与えた人と同じようにいたって安泰なのだろうか?彼らに対して御霊は強い叱責を与えておられる――「欺かれてはいけませんは侮られるような方ではありません」。人はそれを知らず、それを対処することができない。しかし、神は欺かれることはない。神の御子はそのようなことに報われるだろう。彼らは神を欺いたのではなく、自分自身を欺いたのである。それを来るべき日が証明するだろう。良い実を結ぶ木だけが、来るべき日の取り調べに耐えられるのである。

もう一つ、ごくありふれた例を挙げよう。ここに一人のクリスチャンがいる。彼は常に貧困の境をさまよっていて、借金の名人である。「もしあなたが彼に二十シリング貸してあげさえすれば、彼は工具と仕事を得ることができ、永遠にあなたに感謝するでしょう。彼は借金をすべて返済するまで、必ずあなたに毎週二シリング払います。もし可能なら、それ以上払います」。そこであなたは貸すことにする。しかし何週間たっても、借り手は姿を現さず、お金も戻ってこない。クリスチャンとして、あなたは彼を起訴することはできない。彼の件がこの世の法廷にのぼることは決してない。彼は少しも心に苦しみを受けない。さて、彼はこの詐欺で得をしたのではないだろうか?彼はこのような詐欺を何度も犯してきたのである。「欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません」。かの日が来たりつつあり、その日、誰が欺かれていたか明らかになるだろう。不正直を蒔くなら、刈り取りの日を勘定に入れよ。「人が蒔くものはなんであれ、それを刈り取ることになります」。神の証しは成就されなければならない。詐欺を蒔く者に対して、刈り取りの日は苦いものになるだろう。なぜならこう書き記されているからである――「あなたたちは悪を行い、だまし取り、しかもあなたたちの兄弟に対してそうしているのです。不義な者が神の王国を継ぐことはないのを、あなたたちは知らないのですか?欺かれてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫を犯す者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、神の王国を継ぐことはありません」(一コリント六・九、十)。これらの事例で神が違反を犯した子らをどのように取り扱われるのか、私たちは示せない。しかし、たとえ愛によってではなくとも恐れによって、私たちは信じるべきであり、思いとどまるべきである。しかし、一人一人に働きにしたがって報いる千年間があることを神が私たちに告げておられる以上、悪の道を進み続けるのは盲目であり愚かである。神には、恵み深い選びが役割を演じる永遠の時がある。しかし、神はまた隠された時間も確保しておられ、その時、一人一人に自分自身の働きの実を食させるのである。信じる者が誰であれ、難癖をつけて信じない者が誰であれ、関係ないのである。神の御言葉は必ず成就される。たとえ多くの人が神にはなにもできないかのように行動していたとしても、神の誓いを無効にすることはできない。それは必ず起きるのである。

嗚呼、それゆえ信者たちよ、今まであなたを捕らえてきた隠れた罪をすべて捨てよ!覆いの取り除かれる日、報いの日が間近に迫っているからである。あなたの周りが夜ばかりとはかぎらない。神は実際の神であり、聖潔の神である。「私たちはみなキリストの裁きの御座の前に現れなければなりません明らかにされなければなりません)。それは一人一人が善であれ悪であれ、自分の行ったことにしたがって、体の中で(体によって)行ったことを受けるためです」(二コリント五・十)。

しかし、この原則には明るく楽しい面もある。善を蒔く者たちよ!これまで以上の勤勉さで前進せよ。あなたは収穫しそこなうことはない。作物は成長しつつあり、盗人、嵐、軍隊行進の圏外、大砲の射程距離外にある。進み続けよ!種蒔きの時は短い。「善を行うことに倦み疲れないようにしようではありませんか。なぜなら、気落ちしないでいるなら、しかるべき時に刈り取ることになるからです。ですから機会をとらえて、すべての人に、特に信仰の家族である人たちに善を行おうではありませんか」。種蒔きの時期は一日だけである。「だれも働くことのできない夜が来ます」。「主は近いのです」。彼の報いは彼と共にあり、一人一人に行いにしたがって与えられる。善を蒔く者の喜びは大きい。報いの日、彼の麦束は輝く。収穫の頭また主なる方から受ける彼の栄光は大きい。神が定められた喜びの日が近づきつつある。蒔けよ、蒔けよ、なおもいっそう勤勉に!良い種を蒔き散らして後悔することはありえない。空は暗く、風は冷たく、疲れていても、気落ちしてはならない。来るべき長い夏の日に、陽光と永遠の実の真っただ中で刈り取るのである。

これはもちろん、不敬虔な者たちにもよくあてはまる。長い生涯の間、罪を毎時間蒔く者は、恐ろしい地獄の火の災いを刈り取るだろう。「もし義人がかろうじて救われるなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのでしょう?」。

以下のささやかな物語は、悪の種を蒔いて今日受ける結果と、来るべき恐ろしい災いの日の前味わいを幾らか示すであろう。

「『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』と父は言いました。父は地区の教会で聞いた説教の説明をするところでした。しかし、まず私の非行時代について短くお話しした方が、父が語った話の趣旨をよく理解できるでしょう。

私は自分の兄弟たちや姉妹たちより年長だったのに、悪い見本になってしまいました。私は家族の唯一の面汚しでした。不幸なことに私は悪友によって道を外れ、その後、他の人たちを私自身の罪深い歩みの中に導いてしまいました。自分の不謹慎さを考えると恐ろしかったです。私が過ちの中にある間、私の両親はずっと私を愛してくれました。両親が私のことを嘆き悲しんでいる間、自分は両親を悲しませたまま墓に下らせるのではないかと思いました。父はかつて言いました、『あわれな息子のフランクは、自分の地上の悲しみの中で最も重い』と。しばらくの間、私は父の小屋を離れ、怠惰で自堕落な生活を送りました。私の良心は私の邪悪さゆえに私を責めましたが、家に戻るなどということは全くありえませんでした。私の身に降りかかったある事故がなければ。

私の故郷の村では、私は頑固で不敬虔な者の代名詞でした。しかしその時ですら、私は人々が思うほど気楽ではなかったのです。実際は聖書に書かれているとおりです、『悪人には平安がない、と私の神は言われる』。

ある安息日のことです。悪友たちとぶらついていたら、父がたびたび立ち寄る小屋の小さな庭に舞い戻っていました。道の脇にある西洋なしの木には、食欲をそそる実がたわわに実っていました。そこで私たちはくじを引いて、誰が木に登って西洋なしを取ってくるか決めることにしました。くじは私にあたりました。

私が木を上り終える前に、悪友の一人が恐れからか悪ふざけからか、『小屋の主が来るぞ』と叫びました。私は驚いて足を踏み外し、木から落ちて、ももの骨を折ってしまいました。悪友たちは私を見捨てて、一目散に逃げて行きました。それからしばらくして、私の叫びを聞いてだれかが私を助けに来てくれました。しかしあろうことか、私はその小屋の中に運び込まれ、一階の奥まった部屋のベッドの上に寝かされてしまったのです。

その時でした。この痛ましい苦境の中、迎えにやった医者の到着を待ちつつ、私が父の声を聞いたのは。父はその午後、教会の神聖な礼拝に出た後、その小屋に立ち寄ったのです。私の事故のことはなにも知らず、私がその小屋にいるとは思いもよりません。心優しい小屋の主は、この悪い知らせを早く知らせるにはしのびなくて、私が横たわっていた小さな部屋の扉を半分閉めてくれました。私は体も心も苦しみの中にありましたが、聞かれるのが怖くて、ため息やうめき声をもらさないようにしました。

父は食卓の上の聖書を開きました。その小屋の主とその妻や娘は敬虔な人たちでした。父は私が前に述べた御言葉を読みました、『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』。それから父は説教を短く説明しました。父は言いました、『特に、私たちの尊い牧者は、その友人である、ある兄弟の聖職者の話を私たちにしてくれました。その人は福音の種を蒔く時、克服するのがとても困難な問題に出会いました。彼の教区の人々は彼に対してとても冷たく、彼が自分の教会に入るのを許さなかったのです。彼が講壇に上るには、警官が彼のために道をあける必要がありました。このような状況では、種を蒔いたところでどんな成果が期待できるでしょう?

平穏のうちに説教することを許された時には、二十人から三十人の聴衆しかいませんでした。彼の教会は六百人から七百人収容できたのにです。それでも彼は、天の父が人を増し加えてくださることを期待しながら蒔き続けました。とうとう冷たい敵対者の一人が好奇心から礼拝に出席しました。その時、神は御言葉を力強いものにすることをよしとされたので、

あざけりに来た者が――祈り続けた

のです。それだけではありませんでした。このあざける者はその晩休もうとした時、とても恐ろしくなって自分のベッドから起き上がり、一緒に祈るために隣人を呼び起こしたのです。この聖職者は神の人であり、神が共におられる、という知らせがその近隣を駆け巡りました。今や群衆が彼の話を聞きに集まりました。そして信徒の数が大いに増えたので、ついに三年の終わりには教会を拡張することが必要になりました。その場所に群がる群衆を収容するには全く不十分だったからです。このように神は、この種蒔く者とその蒔き散らした種を祝福されたのです』。

父は周囲の人々に語り続けました、『すべての人が種を蒔く者なのです。私たちはみな、良い種か悪い種を蒔いているのであり、その種は時間の中でそして永遠において実を結ぶのです。神はあわれみ深く、私たちがこれまで生活の中で蒔いてきた悪い種を赦してくださいます!私たちはみな種を蒔く者なのです。私のあわれな息子フランクも、今どこにいたとしても、種を蒔く者なのです』。

ここで父は一息つきました。父がさらに話を続けようとは、私には全く思いもよりませんでした。父は口ごもっていましたが、次のように話し続けたのです。

『そうです。私のあわれな放蕩息子も種を蒔く者であり、その蒔いた種から多くの悲しい作物が生じました。第一に、息子は安息日を犯すという種を蒔きました。すると、それは実を結んで多くの安息日を犯す者を生み出しました。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、お前によって迷わされた安息日を犯す者たちはみな、自分の罪の責任をお前に負わせる権利があるのだ』。

私はもう十分惨めな気持ちになっていましたが、この言葉は私にとって短剣のようでした。私は苦しみのためベッドの上で身もだえしました。しかし父は、自分が与えている苦しみについてなにも知らずに話し続けました。

『フランクが蒔いた次の種は飲酒であり、これもまた実を結んだ。彼は酔っぱらいになり、他の酔っぱらいどもを生み出した。この酔っぱらいどもは臆面もなく、息子より深く不法の中に陥ってしまった。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、この酔っぱらいどもはみな、自分の罪の責任をお前に負わせる権利があるのだ』。

再び私は剣が私の胸を貫いたように感じました。しかし、父はまだ話を終えずに、話し続けたのです――

『フランクが蒔いた次の種は罵りの種だった。恐ろしいことに彼は神の聖なる御名を虚しく用い、そして恐るべきことにその仲間たちはそれを真似したのである。今日この日も、神の家からさほど遠くない場所で、この悪党どもが途方もない誓いを立てるのを私は耳にした。ああ、あわれなフランク!これほど多くの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、お前はそれをしでかしたのであり、この向こう見ずな涜神者どもは自分の罪の責任をお前に負わせる権利があるのだ』。

『フランクが蒔いた次の種は不信仰の種だった。彼は「神はいない」と言う愚か者どもに加わり、他の人々を導いて自分の見本に従わせたからである。彼らはフランクさえいなければ、今日私が聞いた説教を聞いていたかもしれない。あわれなフランクはこの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、彼の見本が生み出した不信仰者どもは、自分たちの鳴り響く罪をすべて彼に負わせる権利があるのだ』。

父が話している間、父もまた種を蒔く者だ、と私は感じました。自分でも知らぬまに、父は私の頭の上に燃える炭火を蒔き、私の胸に毒矢を蒔いていたのです。私の罰は私には負いきれませんでした。私は大声でむせび泣き、声を上げて泣きました。父はあわれな放蕩息子のベッドの傍らですぐに祈ってくれました。

しばらくしてから、あの苦しみと大いなる悲しみのベッドは、私が耐え忍ぶべき懲らしめだったと感じるようになりました。それは聖なる御手により、私にとって平和な義の実を結ばせる手段とされたのです。私は罪を犯し、悲しみました。私は不法を蒔き、刑罰を刈り取りました。私は決して、父が私のことを罪人として描写した時に耐え忍んだ痛みを忘れません。私は決して、『私の息子は死んでいたが生き返り、失われていたが見つかった』と父が言うのを聞いた時に感じた喜びを思い返すのをやめません」。

どうか主がこれを読んでいるかもしれない悪の種を蒔く者に恵みを賜りますように。そして、その人が神の召しを重んじて悔い改めますように!