神聖な真理の二重性

ロバート・ガボット

聖書に記されている神聖な真理の単一性と調和は、黙想するのが楽しい有益な主題である。聖書は遠い昔に、多くの人々の筆により、非常に多様な状況の下で書かれたにもかかわらず、ただ一つの壮大な計画を示しているのである。

しかし、次のことを忘れたり否定してはならない。すなわち、聖書のページの中には、互いに矛盾するように思われる数々の真理が連綿とはっきり示されているのである。そうした真理を抜き出して、それをどう受け入れればよいのかを示す指針と共に読者の前に示すことが、この小冊子の目的である。

聖書が我々に示している真理の二重性は、聖書が人の作品ではないことの強力な証拠の一つである。人の知性は単一なものを考え出すことを誇りとする。人が目指すところは、異なる結果を追跡して一つの原則に帰着させ、曖昧さを取り除き、見た目は色々でも如何に一つの法則が成り立っているのかを示すことである。この仕事をやり遂げる邪魔物は何であれ、人はそれを自分の発見の栄光や効力を損なうものとして避け、否定するのである。

しかし、神はそうではない。自然界において、神は互いに対立するように見える二つの原則によって常に活動しておられる。惑星が太陽の周りを見事な軌道で回り続けているのはなぜか?これは一つだけの力によるのではなく、二つの力による。この二つの力は物質を構成している一つ一つの粒子に対して、反対方向に同時に作用しているのである。もしこの二つの力のうち片方しか作用しないなら、地球は無限の彼方へと飛び去ってしまうであろう。他方、もう一方の力しか作用しないなら、地球はたちまち太陽の表面に落ち込んでしまうであろう。しかし、この二つの力のおかげで、地球は調和をもってその軌道上を行くことができるのである。命はどのように維持されているのだろうか?反対の性質を持つ二種類の空気、気体によってである。片方の空気しか呼吸しないなら、生気を急激に消耗して使い尽くし、たちまち死んでしまうに違いない。しかし、もう一方の気体しかない所に置かれるなら、数分で絶命してしまうであろう。ここでもまた、我々が生きているこの体は、二つの力の対立する作用に常にさらされているのである。一方の気体により肉や血や骨は絶えず分解され、他方の気体によって新たな粒子が加えられているのである。

食用の塩はどうだろうか?塩は二つの元素からなる化合物であり、そのどちらかだけなら我々を死なせてしまうであろう。

それゆえ、互いに矛盾するように思われる二つの真理が聖書の中に並記されているのを見ても驚くにはあたらない――「多様性における単一性、単一性における多様性」――これがこの世界と聖書とを構成している主要な原則なのである。

そこで、互いに矛盾するように見える教理の例をいくつか示したいと思う。この分野で最も広まっている明らかな例は、カルバン主義やアルミニウス主義として知られているそれぞれの教理体系の中に見いだされる。

I. 神に敵対していた人が神を愛するようになるこの変化の力によるものであり、それを極めて明確に述べている節も聖書にはある。それを辿って行くと宇宙の主権者たる方の御旨にまで辿り着く。この御旨は創造の前から存在していたものである。他方、この変化は人自身の行いによるとも記されている。特定の方法を用いるなら、必ずこの変化が生じると見なされているのである。この方法に従うことは各人に課せられた明らかなる義務であり、それを無視したり、それに抵抗したりするなら、当然その報いを受けることになるというのである。

(1)「リディア(中略)彼女の心を主は開かれたので、彼女はパウロの言うことに耳を傾けた」(使徒一六・一四)
(2)「永遠の命に定められていた者たちはみな信じた」(使徒一三・四八)
(3)「神は初めからあなたたちを選んで、御霊による聖別と、真理に対する信仰とによって、救いを得させようとされました」(二テサロニケ二・一三)
(4)「御前にきよく傷のない者となるようにと、世の基が据えられる前から、神はキリストにあって私たちを選ばれました」(エペソ一・四)

しかし、他方の御言葉も頻繁に現れる。

(1)「ここの人たちはテサロニケの人たちよりも高尚であって、心から御言葉を受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして、日毎に聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信じた」(使徒一七・一一、一二)
(2)「あなたたちはいのちを受けるために、私のもとに来ようともしない」(ヨハネ五・四〇)
(3)「悔い改めなさい。そして、あなたたちは各自イエス・キリストの御名によって、バプテスマを受けなさい」「この曲がった世代から自分自身を救いなさい」(使徒二・三八、四〇)
(4)「それゆえ、預言者たちの書に記されていることが、あなたたちの上に降りかからないように気をつけなさい。『見よ、侮る者たちよ、驚け、そして滅びよ』」(使徒一三・四〇、四一)
(5)「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごされていましたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めるべきことを命じておられます」(使徒一七・三〇)

この両者が驚くほど接近することもある。

(1)「それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を責めはじめられた。『わざわいだ、コラジンよ!わざわいだ、ベツサイダよ!おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。しかし、おまえたちに言っておく。裁きの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも耐えやすいであろう』」(マタイ一一・二〇、二二)

人の責任をこれ以上明らかに示している節が他にあるだろうか。人の罪深さは与えられた特権に比例するのである!

しかしながら、カペナウムについて同様の心情を吐露した後、主は続けて何と言われたであろうか?

(2)「その時、イエスは答えて言われた、『ああ、天と地の主なる父よ、あなたに感謝します。あなたはこれらの事を知恵ある者や賢い者から隠して、幼子たちに啓示してくださったからです。父よ、これはまことにみこころにかなうことでした』」(二五、二六節)

この御言葉が明らかに前提としているのは、神は主権によりある人々を選び、それ以外の人は選ばなかったということである。しかり、この両者は一つの文章の中に密接に織り込まれているのである。

(3)「畏れとおののきとをもって、あなたたち自身の救いを成就しなさい。あなたたちの内に働いて、みこころを願わせ、行わせるのは神だからです」(ピリピ二・一二、一三)

クリスチャンたちはまず、この二つの声明を調和させようと努めてきた。すなわち、この二つの声明を一つに統合しようとしてきたのである。それが無理だとわかると、大多数の人はこれらの御言葉の一方にしがみついて、他方を拒絶した。彼らは知的整合性を保つために、それに反する真理に対して耳を塞いだり、それらの御言葉をねじ曲げてできるだけ自分たちの見解に近づけようとしたのである。こうして、これらの点について、二つの大きな意見の体系が生じた。一方の人々はアルミニウス主義者と名乗り、他方はカルバン主義者と名乗っている。

これから多くの誤謬が生じた。

1.アルミニウス主義者は空しい自己信頼、喧噪、手段の偶像化に陥った。人の仲介、人の力や活動が、もっとも重視されている。人の栄光と誉れが、神の栄光と誉れの地位を占めているのである。

2.カルバン主義神学一つとっても、それはこれとは逆方向の同等の過ちを生み出してきた。主権をもって恩恵を施すことができるのはただ神だけであり、人は何もできない無力な存在である、という考えにあまりにも慣れてしまったため、霊的怠慢に陥ったのである。そして、人々の救いを推進するために何らかの手段を用いる人々に対して、彼らは疑いの目を向け、眉をひそめるのである。

極端なアルミニウス主義者は、人を神から独立した存在としてしまった。そして、神の無限の予知と、神の広大な力とを否定してしまったのである。

極端なカルバン主義者は、人には何もできないと考えて、人の責任を一掃した。それにより無為が助長される結果となったばかりか、罪の創造者は神であるとする寸前の所に至っているのである。

「それではどうすればいいのでしょう?この二つの見解のうち、どちらを信じればいいのでしょう?」

ここに誤謬の核心がある。この二つの見解のうちどちらかを選ばなければならない、そして、この二つの体系を調和させることができないなら、どちらでも好きな方を自由に選んでよい、と当然のように思われているのである。これは純然たる不信仰である。同じ神が一方について語り、他方についても語られたのである。それなのに、「あなたはどちらを信じるのですか?」とあなたは問うのか?「どちらを?」と問われるなら、「両方とも!」と答えるに決まっているではないか。

この両者を受け入れてそれに基づいて行動する限り、この両者を調和させることは不要である。神の御言葉はこの両者を明確に述べている。それで十分なのである。

II. もう一つの例をあげよう。主イエスの死によってもたらされた贖いの及ぶ範囲はどれくらいであろうか?

この問題に関する聖書の証言は矛盾しているように思われる。

1.さて、贖いがなされたのは聖徒と選民のためであることが確証されている。その証拠の節は以下の通りである。

(1)「キリストは教会を愛して、教会のためにご自身をささげられました」(エペソ五・二五)
(2)「この杯は、あなたたちのために流される私の血によって立てられる新しい契約である」(ルカ二二・二〇)
(3)「良い羊飼いはその羊のために自分の命を捨てます」(ヨハネ一〇・一一、一五)
(4)「キリストが私たちのために死なれたのは、私たちが起きていても眠っていても、キリストと共に生きるためです」(一テサロニケ五・一〇)

2.しかしまた、イエスの死は世の救いのためであったことが確証されている。

(1)「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)
(2)「私が与えるパンは私の肉であり、これを私は世の命のために与えます」(ヨハネ六・五一)*
*この「世」という言葉は選民の世を意味すると解釈して、これらの御言葉の刃をかわそうとする試みもあるが、返答する必要はほとんどないであろう。それは神の御言葉の歪曲であって、悲しむべき事である。ヨハネの文書においても、他の聖書の書においても、「世」という言葉は選民ではなく、選民以外の群れを意味するのである。
(3)「すべての人のために祈りなさい」「これは、私たちの救い主である神の御前に良いことであり、またみこころにかなうことだからです。神はすべての人が救われることを望んでおられます#」。「人なるキリスト・イエスはすべての人の贖いとしてご自身をささげられました」(一テモテ二・一、四、六)
#θελει。英訳聖書の意味は強すぎる。この御言葉は、すべての人を救うという神の布告を意味するのではなく、すべての人が救われたら嬉しいという神の願いを意味するにすぎない。
(4)イエスは「私たちの罪のための贖いの供え物です。私たちの罪のためだけでなく全世界の罪のためです」(一ヨハネ二・二)。「全世界」という言葉で使徒は何を言わんとしているのだろうか?「私たちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の中に横たわっていることを、私たちは知っています」(一ヨハネ五・一九)
(5)「私たちは生ける神に信頼します。神はすべての人の救い主であり、特に信じる者たちの救い主です」(一テモテ四・一〇)

ここでもまた、私たちは同じ点に導かれる。二つの矛盾するように見える真理がここにあるのである。それゆえ、クリスチャンたちはこの二つの真理に関して、正反対の方向に分かれてしまった。この二つの真理を一つにまとめようとして、時間と能力とが浪費されてきた。この二つの真理はそのような圧力に対して絶えず抵抗し続けるであろう。

「しかし、この二つの真理は矛盾していないでしょうか?」。否、矛盾はありえない。どちらも神の御言葉に記されているからである。どちらにも矛盾はありえない。したがって、両者を調和させることができようとできまいと、我々は両方とも受け入れるべきである。この二つの真理を受け入れるべき理由は、それを統合することが可能だからではなく、神がそれを証しされたからなのである。

III. 聖化の過程における聖徒の堅忍についても、様々な対照的な見解がある。

1.さて、キリストの羊は完全に安全であることが、最も慰めに満ちた言葉で確証されている。

(1)「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく*、*誰も私の手から彼らを奪い去ることはできません。彼らを私に賜った父は、なにものにもまして偉大です。誰も私の父の手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハネ一〇・二八、二九)
*あるいはむしろ、「彼らは永遠に滅びることはない」とした方がいいであろう。
(2)「誰が私たちをキリストの愛から引き離すのですか?艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か?」「私は確信します。死も生も、天使も、支配者も、力あるものも、現在のものも、将来のものも、高さも、深さも、他のいかなる被造物も、私たちの主であるキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八・三五、三八、三九)
(3)「しかし、主に愛されている兄弟たちよ、わたしたちはいつもあなたたちのことを、神に感謝せずにはいられません。それは、神があなたたちを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救いを得させようとされたからです」(二テサロニケ二・一三)

2.しかし、それでも、堕落に対する警告は何と力強く、恐ろしいことか!堕落するなら、恐るべきことが確実に待ち構えているのである!ヘブル人への手紙は、そのような背教に対する長い嘆願に他ならない。

(1)「それゆえ、私たちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めなければなりません。そうでないと、聞いてきたことをいつ漏らしてしまうかわかりません。というのは、御使いたちを通して語られた言葉が堅く立てられて、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報酬や報いが与えられたとするなら、わたしたちは、こんなにも偉大な救いをなおざりにして、どうして逃れることができるでしょう?」(ヘブル二・一~三)
(2)「いったん、光を受けて天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神の良き御言葉と、来るべき時代*の力を味わった者たちが、その後堕落してしまうなら、彼らを刷新して再び悔い改めに至らせることは不可能です。なぜなら、彼らはまたもや神の御子を自分たちに対して十字架につけ、さらしものにすることになるからです」(四~六節、ギリシャ語を見よ)
*Αιωνοs
(3)「もし私たちが真理の知識を受けた後、意図的に罪を犯すなら、罪のためのいけにえはもはや残っていません。ただ、裁きと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つしかありません」(一〇・二六、二七)

IV. また、義認の問題について見てみよう。行いなしに信仰によって人は義とされる、というこの点に関しては、真の信者なら誰でもほぼ同意する。

「律法の行いによっては、いかなる肉も神の目に義とされることはありません。なぜなら、律法によって罪の自覚が生じるからです。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証しされて、現されました。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべての人に、また信じるすべての人に与えられるのです」(ローマ三・二〇~二二)

しかし、この教理に関して、聖書が述べていることには矛盾があるように思われる。

(2)「ですから、私たちはこう結論します。人は律法の行いによらず、信仰によって義とされるのです」(ローマ三・二八)

しかし、ヤコブは何と言っているだろうか?

(1)「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブ二・二四)

それでは、こんなにも矛盾している真理の見解を、どのように心に受け入れて理解すればいいのだろう?とても簡単である。聖書は神の御言葉である。両方とも矛盾はありえない。それゆえ、神の御言葉に矛盾はない。ある真理を様々な時に異なる角度から見ることにより、対照的な真理観が生じるのである。神は唯一であり、御言葉も唯一である。御言葉はあらゆる面から真理を示しているから、麗しく素晴らしいのである。「見て下さい!この二台の列車は間違いなく正面衝突して木っ端微塵になってしまいます!恐ろしいスピードで互いに向かって突進しているのです!」。じっとしていなさい!列車は通り過ぎて行った。互いにかすりもしなかった。どちらも同じ路線を通っているが、同じ車線やレールの上を走っているわけではないのである。

神が私に「聖徒は私の手の中で安全である」と言われる時、私は神を信じるべきだろうか?信じるべきである。神は無限の信頼を寄せるのにふさわしい御方である。しかし神はまた、「あなたはよくよく注意して自分を見張らなければならず、誰でも真理から逸れるなら、回復の見込みはない」と証ししておられる。この教理の源は同じである。それゆえ、これもまた限りない信頼を寄せるのにふさわしいのである。この二つの真理がどう調和するのか、わかってもわからなくても、私は両方とも受け入れて、その両方に基づいて行動しなければならない。両者がどこで一つになるのか理解しようとするのは構わないが、私は直ちにその両者を信じ直ちにその両者に基づいて行動しなければならない。私の貧弱な誤りやすい知性で全能者を制限し、自分の道を自力で理解できる時だけ神に信頼する、というのか?

義認についても同じである。人の罪深い心は正反対の方向にさまよいやすいものである。これを神はご存じであり、この正反対の誤りに応じるために、二つの拮抗*してはいるが調和している真理を備えて下さったのである。ルターは言う、「人は酔っぱらった田舎者のようだ。一方の側から馬に乗せてやると、反対側に落ちる」。ユダヤ人たちは自分の働きによって、厳格な裁判官たる神の御前に義とされることを期待した。パウロはこの思想体系から石を一つずつ除いて取り壊した。しかし他方で、福音を自由放任の口実にしようとする人々もいる。彼らは真理を知的に知ってはいるが、それが生活の中で効力を発揮するのを完全に拒絶する。このような輩に、ヤコブの霊感された教えは向けられているのである。ヤコブの教えは次のことを立証する。神の御前で人を義とする信仰は生ける信仰であって、この信仰から人々に良しとされる行いが生じるのである。

*解剖学者は体の中にある親しい関係にある筋肉のことを拮抗筋と呼んでいるが、ここで私が「拮抗」という言葉を用いたのもそれと同じ意味である。

信仰と行いの両方をクリスチャンは備えているべきである。神の御言葉は大声でこの両方を要求している。しかし、ここでクリスチャンたちはたいてい失敗するのである。

永遠の命は無代価の賜物であることを、聖書は宣言している。他方、それにもかかわらず、信者は自分の働きの報いを、その分量に応じて受けることも、聖書は断言している。

(1)「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われました。それはあなたたち自身から出たものではなく、神の賜物です。働きによるのではありません。それは、決して誰も誇ることがないためです」(エペソ二・八、九)
(2)「なぜなら、罪の報酬は死ですが、神の賜物は私たちの主イエス・キリストによる永遠の命だからです」(ローマ六・二三)

しかしまた、こうも記されている。

(1)「各自*は自分の働きにしたがって自分の報いを受けます」(一コリント三・八)
*Εκαστοs δε
(2)「少ししか蒔かない者は、少ししか刈り取らず、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(二コリント九・六)
(3)「すべての教会は、私が人の心の奥底までも探る者であることを知るであろう。そして、私は、あなたたち一人一人に、あなたたちの働きにしたがって報いを与える」(黙示録二・二三)

二本の境界線が道を規定する。二個の橋台から橋は伸びる。鳥はどうやって飛ぶのだろう?片翼で飛ぶのだろうか?否、両翼で飛ぶのである。片方の翼を切り落とすなら、鳥は永遠に地表にとどまらなければならない。

このようにして、神はご自分の民を試されるのである。自分たちの気質や知性に反する真理観を神が確証される時、神の民は神に信頼するのだろうか?それとも、神の言葉の片側に熱心なあまり、反対側は踏みつけるのだろうか?へりくだった子供のような聖徒なら、両方とも認めて受け入れるであろう。なぜなら、過ちを犯しえない御父が、その両方を同じように証しされたからである。

人は熱心に整合性を求めるものであり、両極端の誤謬に走って、それに影響されてしまうものである。神の知恵はこれを予見して、このそれぞれの疾病に適した薬を、調和のとれた御言葉の中に備えて下さったのである。神の御言葉の少なからぬ箇所で、人は反対の二つの方向に逸れて行きがちである。神にはこれがわかっているのである。

(1)「それゆえ、あなたたちの神である主があなたたちにお命じになったことを、あなたたちは守り行わなければならない。あなたたちは右にも左にも逸れてはならない」(申命記五・三二)
(2)王は律法の写しを一つの書物に書き写さなければならなかった。「それは王の心が高ぶって自分の兄弟たちを見下すことがないためであり、また戒めから離れて右にも左にも逸れて行くことがないためである」(一七・二〇)

しかし、人の不従順な性質が姿を現す。そして悲しいことに、次の二つの傾向が我々の主の時代に見られたのである。(1)神の御言葉に人のものを付け加える傾向と、(2)人の願望や高ぶりに基づいて神の御言葉から差し引く傾向である。

パリサイ人は、それに先祖の伝統を付け加えることにより、いと高き方の御言葉を押しやってしまった。サドカイ人は、好ましくない御言葉をすべて削除することにより、自分たちの心や生活に及ぼす御言葉の力を損なってしまった。この両方の逸脱に対して、全知なる方の御言葉は備えをしていたのである。

「私があなたたちに命じる言葉に付け加えてはならない。また、減らしてはならない」(申命記四・二)

今日、人の性質のこの同じ気質や傾向が現れている。ローマは福音の光と温かさを、人の命令や伝統で覆ってしまった。合理主義は神の木から、その整合性を損なうように思われる枝々を切り取っている。批判という刈り込みバサミで、モチノキの茂みを一定の形に刈り取っているのである。

V. この真理の同じ二重性は、神の性質に関する聖書の御言葉の中にも現れる。御言葉は、神は唯一であることを確証している。

(1)「ああ、イスラエルよ、聞け。私たちの神である主は唯一の主である」(申命記六・四)
(2)「神は唯一です」(ガラテヤ三・二〇)
(3)「唯一の神が、割礼のある者を信仰を通して義とし、割礼のない者も信仰を通して義とされるのです」(ローマ三・三〇)

しかし、神格の三つのパーソンの区別を、聖書は単純に確証している。「単一性における多様性、多様性における単一性」という偉大な宣言がここでなされている。この支配的真理は神格の性質に由来するものであり、神の御業はすべてこれから発する。

(1)「そこで主なる神は言われた、『人は我々のひとりのような者となり、善と悪を知るようになった』」(創世記三・二二)
(2)「誰をは遣わそう、誰が我々のために行くだろう?」(イザヤ六・八)
(3)「父があなたたちに別の慰め主を与えて下さるよう、私はに祈ります。(中略)この方は真理の霊であって・・・」(ヨハネ一四・一六)
(4)「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジアおよびビテニヤに離散して寄留している人たち、すなわち、父なる神の予知にしたがい、御霊の聖別を通して、イエス・キリストに対する従順と、その血の注ぎへと選ばれた人たちへ」(一ペテロ一・一、二)

VI. 我々の神の性格について調べることにしよう。ここでも真理のこの同じ二重性に出くわすのである。神は厳格にであり、無限に憐れみ深いのである。

パウロは言う、「私たちの神は焼き尽くすです」と(ヘブル一二・二九)。しかし、ヨハネは言う、「神はです」と(一ヨハネ四・八)。

ローマ主義者は神の厳しさしか語らず、父としての神の愛や恵みを締め出してしまう。ユニテリアンは神が持つ父としての性格にまったく固執して、神が無限に義なる方であって、罪に復讐される方であることを見ていない。キリストの十字架は、この両方の特質を完全に区別して示しており、それでいながら、この両者を見事に和解させたのである。

VII. 救い主の性質に目を転じることにしよう。依然として、同じ二重性に出くわす。救い主は人だろうか?しかり、人である。

(1)「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一であって、それはなるキリスト・イエスです」(一テモテ二・五)
(2)「私たちの主である御子イエス・キリストです。この方は、によればダビデの子孫から生まれました」(ローマ一・三)

しかし、救い主は人であるだけだろうか?

(3)「御子に対して神は言われた、『あなたの御座は、おお、神よ、永遠に続き』」(ヘブル一・八)
(4)「祝福された望みと、私たちの偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れとを、待ち望んでいます*」(テトス二・一三)
*ギリシャ語を見よ

いくつかの節では、この二つの面が一緒にされている。

(1)「によればキリストもまた彼ら(ユダヤ人)から出たのです。この方は万物の上におられ、永遠にほむべきです」(ローマ九・五)
(2)「確かに偉大なのは、この敬虔の奥義です。において現れ」(一テモテ三・一六)

しかし、この二重の真理に対して、人の不信仰は常に難破するのである。一組の異端はイエスの人性を否定し、また一つは神性を否定した。ユダヤ人の分派は、イエスは人にすぎないと理解した。異邦の哲学者たちは、物質は悪であると信じて、イエスが人の体をまとわれたことを否定した。今日の異邦の哲学は、イエスの神性を否定する。

しかし、この輝かしい真理は、幕屋の調度品によって昔から予表されていたのである。全焼の献げ物の祭壇は、木と銅から出来ていた。銅は火に耐えるが、木は燃料になる。香の祭壇は、木と金で組み立てられていた。契約の箱は、神の指示により、二つの材料、木と金から成っていた。この一方の材料は他方よりも遥かに貴いものであった。しかし、両者は一体となって、神の内なる臨在の部屋の中に置かれたのである。

VIII. 同様に、神の歴史も二重の型を取る。預言者たちがあらかじめ告げたのは、メシヤは地上で栄光を受け、エルサレムで統治し、御使いたちは彼を礼拝し、王たちは彼に仕え、諸国民は彼をあがめる、ということであった。

(1)「こうして万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる」(イザヤ二四・二三)
(2)「エルサレムを攻めて来た諸々の国びとの残りの者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を礼拝し、仮庵の祭を守るようになる」(ゼカリヤ一四・一六)
(3)「その時、羊の群れのやぐら、シオンの娘の砦よ、以前の主権はあなたに帰ってくる。すなわち王国がエルサレムの娘に帰ってくる」(ミカ四・八、使徒一・六と比較せよ)
(4)「彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治める」。「王たちはみな彼の前にひれ伏し、すべての国民が彼に仕える」(詩篇七二・八、一一)

このような預言にユダヤ人は心を向けた。「メシヤが現れる瞬間、これらの預言が成就される」とユダヤ人は期待した。それゆえ、イエスが王の権力を持たずに、柔和な姿で現れた時、ユダヤの国民は彼を拒絶したのである。しかし、メシヤについて述べているのは、これらの節だけであろうか?否、他の御言葉もあって、同じように明白に、メシヤの謙卑についてあらかじめ述べていたのである。

(1)「私は打つ者に私の背をまかせ、私のひげを抜く者に私のほおをまかせた。私は恥とつばきから、顔を隠さなかった」(イザヤ五〇・六)
(2)「しかし、私は言った、『私はいたずらに労し、益なく、むなしく力を費やした。しかしなお、まことに私の裁きは主と共にあり、私の働きは私の神と共にある』と」(イザヤ四九・四)
(3)「イスラエルの贖い主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌み嫌われる者、つかさたちの僕に向かってこう言われる、『諸々の王は見て、立ち上がり、諸々の君もまた礼拝する』」(イザヤ四九・七)
(4)「彼らは、自分たちが刺した私を見て、嘆き悲しむ」(ゼカリヤ一二・一〇)

さて、ユダヤ人たちはこの御言葉の二つの組を調和させるすべがわからなかったので、最も喜ばしい組を選び、反対の組を拒絶した。それゆえ、彼らの心は偏見――神の証しを丸ごと受け入れることを拒む偏見――によって盲目にされたため、救い主が迫りつつある苦難について極めて明確に語られたにもかかわらず、それを理解できなかったのである。「そこで彼は十二人を呼び寄せて言われた、『見よ、私たちはエルサレムに上って行きます。預言者たちが人の子について書き記したことはみな成就されます。人の子は異邦人に渡され、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられます。また、彼らは人の子を鞭打って殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります』。十二人には、これらのことが何一つわからなかった。この言葉は彼らから隠されていたので、イエスの言われたことがわからなかったのである」(ルカ一八・三一~三四)。

しかし今では、反対の結果が生じている。エルサレムやユダヤ人に対する約束、ユダヤ人の王たるイエスへの約束がいまだに成就されていないのを見て、クリスチャンたちは「この預言は文字通り実現されることは決してなく、いつか将来、キリストの教会の無限の拡大と勝利という形で成就されることになる」と思い込んでしまったのである。

こうして彼らは、昔のユダヤ人のように、預言者たちの宣言の半分しか信じず、エマオに向かって旅していた二人の嘆き悲しむ弟子に主が語られた叱責の言葉の鞭の下に陥ってしまったのである。「ああ、愚かで心の鈍いため、預言者たちが語ったすべてのこと信じられない者たちよ!」。

IX. 人の性質中に潜むこの全く同じ欠陥から、礼拝に関して、クリスチャンの多くの誤謬が生じた。聖なる三位一体の御名による弟子の浸礼、互いの足を洗い合うこと、主の晩餐を、イエスは命じられた。儀式抜きでは教理は存続しえないこと、教理抜きでは儀式には価値がないことを、神聖な贖い主はご存じだったのである。それゆえ、古いぶどう酒と新しいぶどう酒、古い皮袋と新しい皮袋のたとえ話で、儀式と教理の関係の必要性と、福音の新たな教理を示す新たな儀式の必要性とを、彼は示されたのである。しかし、救い主の単純な儀式に、ローマは自分自身の多くの儀式を付け加えてしまった。他方、クエーカーは儀式をまったく排除している。彼らの目に福音はあまりにも霊的なものなので、外面的儀式はあってはならない、というのである。このように、神の道から右や左に逸れて行くことにより、手に負えない人の意志はその頑迷さを露呈したのである。

X. さらにまた――教会建造の方法はいかなるものか?罪人はその中にどのようにもたらされるのか?

1.ある人は言う――「説教者の生の声を聞いて教わることによってです。そうでない限り、すべての人の手元に聖書を送り届けたとしても、一人たりとも救われることはありません。福音の使者が徒歩で良きおとずれをもたらして、それを声に出して語らなければ、人は福音を聞くことはなく、信じることはない、と聖霊は言っておられるのではないでしょうか?」

2.しかし、他の人の返答は反対である。「どう学べばよいのか、とお尋ねになるのですか?聖書によってです!聖書だけが誤りなき真理なのです。説教者たちは間違ってばかりいます。ある面について間違いや過ちを犯したかと思うと、今度は別の面でもそうするのです。成長して賢くなりたいのですか?聖書を学びなさい。イエスはご自分の務めが神から出ているかどうかを知るために、ユダヤ人たちを聖書の学びに召されたのではなかったでしょうか?聖書は人に知恵を与えて救いに至らせる、とパウロは確証しているのではないでしょうか?」

「この証しのどちらを受け入れたらよいのだろう?」と誰でも思わずにはいられないのではないだろうか?その答えは、以前と同じように、両方である!この真理の柱のどちらも、自分の理解や心の中から押しのけてはならない。この二つがあなたの手の中で一つにならない限り、あなたは神の証しをすべて得ることはない。これを願う者をして、確かな真理を切り分けさせよ。あなたは両方とも保たなければならない!福音が最も栄えたのはどこだったか?ベレヤである。なぜか?そこの人々はこの二つの手段を積極的に用いたからである。使徒たちは宣べ伝え、聴衆の前に数々の極めて新しい変わった見解を示した。しかし、使徒たちはこれらの見解を確証して、律法と預言者たちの書によって裏付けた。それゆえ、ベレヤの人々は、この新しい音信おとずれが、証拠として示されたものによって証明されるかどうかを見るために調べたのである。この生ける御言葉は書き記された御言葉によって確証されることを、彼らは見いだした。それで、彼らは自分の魂を福音の恵みに委ねたのである。

このように、書き記された御言葉は説教者を試すものなのである。書き記された御言葉は、説教者の教えることが正しいか間違っているかを示す。説教者がいなければ、大多数の人はたとえ毎日自分の聖書を読んだとしても、極めて重要な諸々の真理に気づくことなく通り過ぎてしまうであろう。しかし、他方、人は常に悪になびきやすい者であり、教師も自分の利益のために真理を乱用しやすい者であるから、説教者が語る教理の正しさを判断するには、「説教者がそう言っているから」とか、「説教者は聴衆よりも賢いから」といった根拠よりも強力な根拠が大いに必要なのである。

それゆえ、よく教わったクリスチャンは、自分の聖書に向かって、示された教理が神の書の中に見つかるかどうかを調べるのである。

この点についても、二つの反対の方向に向かって逸れて行くのが人のさがである。ローマは信徒から神の御言葉を取り去って、人々をして神父の権威ある言葉に頼らせる。他方、信者は誰でも神の御言葉を精読するだけで自分のためにあらゆる真理を発見する能力を持つ、という見解を支持する者もいる。そのような人々は教師の役割を否定するのである。

XI. 礼拝の精神も、この同じ真理のもう一つの例である。

1.神の御前に出ようとする者は、自分が向かっている御方の無限の威光を覚えつつ、真心からの崇敬の念をもって近づかなければならない。クリスチャンは(奴隷)*なのである。

*Δουλοs。ローマ一・一、&e
(1)「恵みを受けて、それにより、崇敬と敬虔なる畏れとをもって、神に受け入れていただけるように仕えようではありませんか」(ヘブル一二・二八)

2.しかし、恐れによるよそよそしい精神を神は好まれない。神はご自分の民の心の中に、神ご自身に向かう愛を注ぎ込もうとしておられるのである。この愛は福音の偉大な特質である。信者は息子なのである。

(1)「あなたたちは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分の霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アバ、父よ』と叫びます」(ローマ八・一五)
(2)「こういうわけで、私たちはイエスの血によって、大胆に至聖所に入り(中略)信仰の確信に満ちた真実な心をもって、みまえに近づこうではありませんか」(ヘブル一〇・一九、二二)

この二つの異なる原則によって堅くされる時、遠く離れて礼拝することも、軽率な馴れ馴れしい言葉や態度で不興を買うこともなくなるのである。

XII. また、この同じ真理が恵みの手段にもあてはまる。聖徒たちの公の集会がなければ、真の宗教が栄えることはありえない。

「ある人々のように、共に集まることをやめることなく」(ヘブル一〇・二五)

しかしまた、公の集会のみによって成り立っている宗教は不健全きわまりないものであって、性格や品行に影響を及ぼすことはない。人は外側の目に見える体と、内側の目に見えない魂とから成っている。宗教もまた、儀式と教理の両方から成っていなければならない。また、密かな祈りと、礼拝や耳を傾けるための公の集会の両方から成っていなければならない。木は二つの部分から成っている。目に見える幹、枝、葉と、木をしっかりとその場所に固定する、目に見えない根である。

真理の門は唯一である。しかし、その柱は二本である。「入口を馬車で通る時は、右側の柱さえ見ていればよい」と思っている人もいるようである。彼らは左手の手綱を強く引っ張りすぎて、馬車を反対側にぶつけて壊してしまう。他の人々は、左側の門柱をはっきりと見ており、それを見落とす者たちの盲目さに驚きつつ、無惨にも右側に衝突して粉々になってしまうのである。

XIII. 教会の別の例に目を向けることにしよう。

1.しばしば、教会は一つの偉大な統合体として示されている。屠られて復活したイエスにある信者はみな、その肢体である。

(1)「キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらです」「キリストは教会を愛して、教会のためにご自分をお与えになりました。(中略)それは、栄光の教会をご自分に迎えるためです」(エペソ五・二三、二五、二七)
(2)「御子は、そのからだなる教会のかしらです」(コロサイ一・一八)
(3)「この岩の上に、私は私の教会を建てます」(マタイ一六・一八)

2.他方、教会は異なる別々の部分から成っている、と示している箇所もある。その各部分には、各地の奉仕者たちがいる。

(1)「私はあなたたちに、私たちの姉妹であるフィベを推薦します。彼女はケンクレアにある教会の奉仕者*です」(ローマ一六・一)

*Διακονη
(2)「私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたたちの使徒であるエパフロデトを、あなたたちに送る必要があると思います」(ギリシャ語を見よ、ピリピ二・二五)

3.救い主は、アジアの七つの教会のそれぞれに、手紙を別々に送られた。それぞれの教会は、ひとりの別々の御使いあるいは奉仕者の導きと指導の下にあった。そして、この御使いまたは奉仕者に、自分に委ねられた教会の状態に関する責任があったのである。エペソの状態についてスミルナには責任はなく、ラオデキヤの状態についてヒラデルヒヤには責任はない。

それゆえ、両方とも真理として保たなければならない。キリストの教会は一つであり、キリストの諸教会は多数である。「多様性における単一性、単一性における多様性」が、ここでも成り立つ法則である。

XIV. 神の経綸も、この同じ真理のもう一つの例である。神は不変である。しかし、神は様々な時に、ご自分に関する様々な見方を示されたこと、そして、それに基づいて異なる一連の命令を設けられたことも、同じように真実である。神の善なる、喜ばしい、完全な御旨を理解して、それに従うことを願うなら、この諸々の経綸を区別しなければならない。しかしここでも、他の事例と同じように、人の盲目で、性急な、ひねくれた知性のせいで、混乱が生じたのである。いと高き方は右と左に垣根を巡らされたが、人の知性は反対向きの二つの方向に進んで行って、その垣根を突き破ってしまったのである。

1.古代の最も恐るべき誤謬は、キリストの教会ユダヤ教の経綸に反するものとしたことであった。それぞれの戒めや原則があまりにも異なっているので、この二つは同じ神から出たものではありえない、としたのである。それによると、キリスト教は善なる神から出たものであり、ユダヤ教は邪悪な創造神から出たものである。これがグノーシス主義者の見解であり、昔の自信過剰な哲学者の理論であった。

2.この冒涜と誤謬の体系は過ぎ去った。しかし、この体系は今日、再びよみがえって、昔の冒涜的な言葉と忌まわしい行いとを再現する定めにある。しかし、名ばかりのキリスト教が優位に立って、皇帝たちの厚意を受けた時、別の体系が生じた。ユダヤ教キリスト教の体系が混同され、融合してしまったのである。キリスト教は世襲的、国家的なものになった。幼児洗礼が確立された。クリスチャンの教会の長老は、ユダヤ教の宮で犠牲を献げる祭司となった。そして、ユダヤ人に対する地的な約束は教会の分である、という主張がなされた。これがローマの根本的誤謬である。ローマは宗教を形式や儀式の問題にしてしまった。そして、ローマに信頼する、信仰を告白するクリスチャンたちを、律法の行いに連れ戻してしまったのである。ローマはバビロンである。バビロンとは混乱を意味する。多くの人が依然としてこの悲しむべき立場に部分的にとどまっており、キリストの僕たちですらそうである。しかし、この誤謬は、キリストにある真実な心の持ち主の思いの中から、光の力により、すみやかに消え去るにちがいない。聖霊は最近、この問題に関して、御言葉からその光を解き放って下さったのである。

XV. 最後の例として、神の御言葉に向かうことにする。

1.聖書の中には奥義的で理解の困難な箇所が確かにある。そうした箇所にローマは立脚して、「これほど難解な書を無知な人民の手に渡していいのでしょうか?」と問う。ローマは勝ち誇って問う、「学識の無いあわれな人に、どうして解釈の原則がわかるでしょう?」と。

2.しかし、ローマの嘲りに対する答えは、神の御言葉のもう一つの面にある。聖書はすべてが奥義的なのではなく、すべてが深い探求や、言葉に関する知識や、解釈の法則を必要とするわけでもない。単純で、子供の理解力でもわかる箇所もある。理解が困難な箇所もあることを聖霊は認めておられ、邪悪な心の持ち主はそうした箇所を曲解して滅びに至っている。他方、主イエスはサドカイ人の過ちを叱責された。なぜなら、彼らは聖書を知らなかったからである。聖霊は一人のユダヤ人の母親の行いを良しと認められた。その母親は自分の子供に幼少の頃から聖書を教えたのである。聖書は人に知恵を与えて救いに至らせることができる。

このように聖書には二重の性格がある。聖書を与えて下さった神と同じである。ある箇所には、我々を導く神の御旨が文字の形で記されており、それを走りながらでも読むことができる。別の箇所では、神の永遠の御旨という広大無辺な海にそびえる岩の上に我々は立つ。そして、不動の確固たる重みを持つ奥義が我々に押し迫ってくる。我々より遥かに良く知っていた者と共に、我々は叫ばざるをえない、「ああ、何という深遠さよ!」と。

書簡を見よ。人には理解力がある。書簡は指示をもって人を照らし、神に対する自分の関係や、自然には見いだしえない目に見えない事柄について、人に理解させる。しかし、理解力の光では不十分である。人は知的な思索する存在であるだけでなく、活動する存在でもある。それゆえ、書簡は教理的であるだけでなく、実行的でもあるのである。

神の御言葉には文字通りの場合と、比喩の場合とがある。この二つの原則は相容れないものであろうか?断じてそんなことはない!この二つの原則の一方を強調して度を越すことが誤りなのである。神学者たちは律法文字通り我々に適用した。こうして、幼児洗礼、聖水、聖衣、聖所や聖日、戦争、宣誓が入り込んだ。しかし、神学者たちは預言者たちの書を霊的に解釈して、ユダやエルサレムに対する約束を教会の相続財産とし、預言を絡まった蜘蛛の巣のようにしてしまった。預言は一人一人の信者の内的経験について語っている、というのである。このやり方を逆転させよ!

XVI. クリスチャンの兄弟たちよ、聖書を丸ごと受け入れようではないか。ある人々が聖書を重んじているのは、聖書が保守的な原則を教えて具体化しているからであり、この世や教会における特権、地位、能力の多様性を、力強い絶え間ない声で確証しているからである。

他の人々は聖書の中に、支配者や富める者の不正に対する恐るべき非難、進歩のための原則や改善のための原則しか見ることができない。人の起源は一つであること、偉大なる審判者の御前に魂はみな平等であること、この御方に対して皆が同じ責任を負っていること――聖書が示すこうしたことを彼らは熱心に握りしめる。

しかし、聖書はこの両方の真理を支持しているのである。聖書は神の書であって、人の書ではない。いと高き方の量りは公平である。聖書は王たちの数々の罪について告げているし、人々の不正についても告げているのである。

真理のこの二重性から諸々の困難が生じるが、それは計画通りなのである。こうして神は人類を試されるのである。こうして神はご自分の民を試されるのである。神の単純な主張に基づいて、彼らは神の両方の宣言を受け入れるだろうか?大部分の人は受け入れない。彼らは片寄っている。何でも無理やり調和させようとする。彼らは聖書の段落に現れる矛盾や「過ち」に我慢できず、自分たちの見解に反する証拠をすべて無視する。このようなことはやめなければならない。心の単純な人は耳を傾けるであろう。「主は何を語られたのか?」という事実が重視されるようになるなら、クリスチャンたちの間の距離はいっそう縮まるであろう。我々の理論を調和させるまで、神の真理を後回しにしてはならない。これを見て証しする時、我々は一致に向かう道を大いに前進するであろう。

陸や海を旅する時、我々を勢いよく進ませる、あの強大な力は何か?火と水の産物である。火か水を取り去るなら、エンジンは活動を停止した鉄の塊のままである。火と水は正反対の性質を持つ。しかし、区別を保ったまま接触させると、何と素晴らしい結果が生じることか!

さて、蒸気エンジンについて未開人に完全に正しく説明したとしよう。未開人からすると、極めて馬鹿げた矛盾に思われるのではないだろうか?彼らに動いている蒸気エンジンを見せよ!彼らの間に二つの党派が生じるのではないだろうか?――「火炎派」は炉が全ての力を生み出していると考え、「水派」は液体のみから力が生じると見なすのではないだろうか?これと同じように、互いに排斥し合っているカルバン主義者とアルミニウス主義者は、私には不合理に思われるのである。

説教者よ!二本の手綱を握りたまえ。片側ばっかり引いてはならない。さもないと、あなたもあなたの馬も溝にはまるであろう!

それゆえ、私は読者に勧める。神が言われたことを受け入れよ。たとえ矛盾しているように思われたとしても、一方において神ご自身の主権と無限の力を、他方において人の自由と責任を受け入れよ。神がこれを証ししておられるからである。これを受け入れるにはこの根拠だけで十分である。最初にこれを体系づけて、理論の枠組みの中に収める必要はないのである。

しかし、締めくくるに当たって、調停する弁証論的思想を一つか二つ示して、読者に供したいと思う。

聖書には、真理全体、神の御旨全体、神の完全な性格が記されている。しかし、神の性格は二重である。神は義なる統治者であり、支配下にある者たちに従順を要求される。しかし、神はまた憐れみに満ちた主権者であり、被造物に諸々の恵みを与えて下さる。この神の二つの属性という山の頂から交互に眺める時、人は二重の性格を帯びる。神は至高の創造者であって、その御旨は堅く立たなければならず、あらゆる混乱に対して最初から永遠の御旨が備えられている、としたらどうだろう?ああ、この場合、人はにすぎないのである!揺らぐことのない数々の法則の下で陽光を浴びる塵にすぎないのである!人の善はすべて創造者から発しなければならない。

しかし、我々は神をこの宇宙の支配者と見ることができるし、そうするべきである。神は律法の授与者であって、被造物がご自分に従うことを期待しておられる。この御方は約束を与え、警告を与える。その約束は永遠の命であり、その警告は無限の炎と苦しみである。ああ、この時、人は人格を持つのではないだろうか?人は自由な独立した支配者となり、自分の意志のままに選ぶことができ、神もまた人の行いに応じて人を正しく裁くことができるのではないだろうか?この見方によると、人は反逆者であり、神の数々の律法を破り、神の御心を痛めているのである。そして、義なる統治者を怒らせた罰を永遠にわたって受けることになるのである。

この二つの見方は異なっているが、両方ともおおむね真実である。聖書は両方とも主張している。人は能動的であり、受動的である。人は神のに関して能動的であり、神の主権に関して受動的なのである。

キリストの十字架という福音的観点がなかったら、神の義と神の憐れみというこの対照的な要求は到底満たせなかったであろう!キリストの十字架において、神の完全な義と完全な憐れみが無限の調和のうちに現れたのである。この両方の特質はそれぞれ、人々に対する将来の裁きと報いの時、この素晴らしい出来事の時と同じように、見事な調和のうちに働くであろう。しかし、福音の啓示がなければ、人は知る事ができなかったであろう、人のに関して、この二つの特質の相反する要求がいかに満たされるのかを。この二つの特質は今や、人類の振る舞い将来に関して、調和のうちに働いているのだから、たとえこの二つの特質を均衡させてその要求を調整しようとする企てに困難があったとしても、それは素晴らしいことではないだろうか?そのような企てによって、我々は自分の分を踏み越えてしまったのである。

ここに、処方箋に従って薬を調合している薬剤師がいる。客が店に入ってきて、処方箋に目を通し、「シアン化水素にキニーネを混ぜると、何かいいことがあるのですか?」「同じ小瓶に強壮剤と消炎剤を混ぜても大丈夫なのですか?」と尋ねる。「こんなにも正反対の性質を持つ薬品を混ぜ合わせて、どんな良い効果があるというのでしょうか?」。薬剤師はこう答えるであろう――「そうお尋ねになっても、お客様、それは私の専門ではありません。この処方箋を作成した人は、私より遥かに薬物の専門家なのです。私はただ手順に従っているにすぎません。この薬の効用について、私には責任がありません。私の義務はこれらの薬品を混ぜ合わせることです。私の責任はただこれだけです。病人に対する効能について、私はご質問にお答えする立場にはないのです」。この薬剤師にとっては、この返事で十分ではないだろうか?なぜなら、薬剤師の知識は医師より劣っているからである。それゆえ、神の僕が宣べ伝えたり教えたりする時、魂の医者である全知なる御方の権威に基づいて、相反するように思われる真理を組み合わせても良いのである!しかり!神の薬局の薬剤師なのである!手順に従って処方せよ!結果は、処方箋を書いた御方に委ねよ!

聖書は正面が二つ以上ある家のようなものである。いつも東の道を通って家に来る人は、家の色はだと確信するかもしれない。いつも西の道から家に入る人は、それと同じ確信、同じ正しさをもって、家の色はだと確信するかもしれない。しかし、両方の道を歩み、家の周りを巡って、あらゆる角度から家を眺めるなら、前面と背面の黒と白の壁それから切妻が一軒の頑丈な建物を形造っており、それは神と人の両方の性質に深く根ざしていることがわかるであろう。真理の半面しか受け入れない人は豹変しやすい。また、熱心であればあるほど、ますます意固地になって一方に偏ってしまう。熱心なアルミニウス主義者は、強力な反対者や真理の力によって、神の主権を確信するようになると、強情で頑固なカルバン主義者になってしまうことが少なくない。そして、多くの良いわざを行うことから出発した人が、最後には、そうした良い行いを非難して拒否するようになるのである。

どうか主が我々に単一な目と聖霊の教えとを与えて下さり、御言葉の一つ一つの箇所が、我々の判断と心と振る舞いに、しかるべき印象を残すようにして下さいますように!