エサウの選択

ロバート・ガボット

「姦淫を犯す者、また、一杯の食事のために長子の権を売ったエサウのような俗悪な者にならないようにしなさい。あなたたちの知っているように、彼はその後、祝福を受けることを願ったが、拒絶されたからです。彼は涙を流してそれを求めましたが、悔い改めの余地を見いだしませんでした」。(ヘブル一二・一六~一七)

神の智恵は昔の人の行いを用いて、大いに異なる時代に生きる私たちへの教訓とされたが、これは何と素晴らしいことだろう!山の頂が朝日の光を浴びて輝くように、過去を正しい観点から眺めるなら、それは何と光り輝くことか!

不敬虔な者たちは一般的にエサウを好む。彼らの目に、エサウは単純率直で正直に見えるが、ヤコブは狡猾な偽善者に見える。神がヤコブを選び、エサウを拒絶されたことには深い理由がある。

心の中に神に対する反抗心が密かにわき起こる。ヤコブはそんなに悪い人間だったのだろうか?神の選びはヤコブの善良さによって決まったのではなく、恵みから発したのである。私たちはヤコブの罪の行いを擁護する必要はない。

しかし、エサウの性格を偏見無く評価すると、彼がとても悪い人間だったことがわかる。彼の俗悪さがここに示されており、これはまさに神を怒らせる罪である。彼の重婚一つとっても、それは彼の両親に影響を与えるものであったし、確かに邪悪なことであった。自分の過ちにより長子の権を失った後、彼は弟を殺そうと思ったが、これは彼にとって大きなマイナスである。「私は自分の臥すベッドを売ってしまった。しかし、私は自分自身の過ちを認めたくないので、床の上に寝ることはできない!」

聖霊はこの違反者を警告として鎖で道端につながれた。私たちは彼をさらす台の足下で厳かに

Ⅰ.エサウの罪と

Ⅱ.彼への罰

について考察しようではないか!

Ⅰ.エサウの罪

俗悪さは神に対する罪であり、聖なる事柄を無視し、踏みにじり、軽蔑することである。最悪の場合、俗悪さは神の御言葉、戒め、民を嘲り、馬鹿にし、からかうものとなる。

エサウの誕生はこの罪を示す機会となった。神は彼を長子とされた。容易には定義できない霊的な諸々の特権が長子の権に含まれていた。それらはおそらく次のようなものである。

1.霊感を受けた父から授けられる祝福

2.メシヤの祖先、神の民イスラエルの偉大な族長となる栄光

3.聖なる者となるなら、神の御名に関連する者となること。エホバの名称は今は「神のイスラエル」「ヤコブの神」であるが、「エサウの神」となっていたであろう。

この俗悪な人の生涯が完全に示されている。空腹で、仕事に失敗し、疲れ果てて、家から遠く離れていた時、彼は長子の権を売り、霊的なものを一時的なものと交換したのである。彼は不信仰なことに、「私の人生はもう終わりだ。食物があれば助かるのだが」と言ったのである。その時、パンが彼の神であった!彼は赤いスープに信頼した。エホバをまったく信じていなかったのである!

この罪が悪化していく様に注意せよ。

1.彼はこの長子の権を二束三文で売り払った。全生涯ヤコブに養ってもらうという要求に比べたら、ただも同然である。たった「一食」である!彼はたった一食のために、矢を一本たりとも手放そうとはしなかったであろう。

2.彼自身、売り払ったものを軽視していた。これから彼の思慮のなさがわかる。艶やかで足の速い美しいアラビアの軍馬を引いていたある男の話である。彼はその馬を買いたいという人に対して、「まあ、私はもうこの馬に乗りたいとは思いませんね。こんなよれよれの馬なんて用無しですよ」と言ったのである。しかし、エサウもそう言ったのである!霊的な永遠のものを彼が軽んじていたことがあらわに書き記されている。この軽蔑心が言葉となって現れる前に、彼は心の中で常々これをさげすんでいたにちがいない。彼の言い訳は説得力に欠ける。彼は死ぬ瀬戸際だったのだろうか?神の怒りの下で生きるより、神の微笑みと共に死ぬ方がましである!しかし、彼が長子の権を保持していた時、彼は死ぬ瀬戸際だったわけではない。もしメシアが彼の子孫から誕生する定めであり、それでもまだ彼に息子がいなかったなら、この長子の権によって彼はその時まで生きながらえたであろう。しかし今、彼は長寿の唯一の保証を自ら捨て去る。彼はいと高き方を怒らせて自分を断ち切るのである。

3.彼は誓いをもって売り払った。おそらく、エサウの言葉は信頼に足るものではなかったのであろう。彼が思い直さないよう、ヤコブは彼の決意を誓いをもって封印させた。この要求を突きつけられても彼はやめなかった。他の多くの人なら考え直したであろうが、彼はためらわなかった。この邪悪な行いの証人として神が立てられた。もしエサウが誓いを履行せず、ヤコブに差し出した長子の権を取り戻そうとするなら、神がその違反に復讐して下さるようにという懇願がなされたのである。

4.彼は座して自分の罪の実を食べ飲みした!彼は十分な代価を得たと考えて満足したのである。後で考え直しても彼は罪の意識を覚えなかった。「彼は自分の道を行き」、このことを忘れてしまった。まるで、野ウサギを小麦の束と交換するこの世の取引より価値の低い取引がなされたかのようであった。

しかし次に

Ⅱ.彼への罰

に注意しよう。

イサクが祝福を与えようと言い出すまで、どれくらい期間があったのかはわからない。長子の権は親による祝福と関係しており、一方を失うことは必然的に他方も失うことであった。この二つはエサウに関係していた。「そこで彼は言った、『奴の名がヤコブとはよく言ったものだ。奴は私を二回も押しのけた。奴は私から長子の権を奪い取り、そして見よ、今や私の祝福を奪い取った』。そこで彼は言った、『あなたは私のために祝福を残して下さってはいないのでしょうか?』」(創世記二七・三六)

受け継がれたこの祝福はアブラハムの祝福であり(創世記二八・四)、一時的な価値だけでなく永遠の価値を伴っていた。

さて、この二つがヤコブに与えられたまさにその時、エサウはその重要性に目覚めたのである。彼はこの祝福を受けることを願った。*

* この節ではκληρονομησαιの意識。書簡に何度か出てくる時は、単に「得る」という意味。

彼の父はおそらく、エサウがそれを失ったことに気づいていなかったであろう。もはやそれが自分のものではないことを、エサウ自身も忘れていたのである。しかし、神は忘れておられなかった。そして――

「彼は拒絶された」のである。

優れた祝福は彼に許されなかった。彼の父から拒絶されたのである!お気に入りの息子を拒絶したのである!しかも、祝福を与える決意の表明後、父の突然の心変わりによってである!否、父の心変わりは、自分が祝福した息子に騙されたことにイサクが気づいた後のことである!ヤコブを呪ってはならない!エサウの求める祝福をエサウが得てはならない!「そうだ、ヤコブが祝福されるのだ!」。エサウの耳には悲しい言葉である!「あなたを呪う者は呪われる」――イサクが用いた言葉である――たとえ呪いたくても、この言葉がヤコブを呪うことを不可能にしたのである。

次に私たちに示されているのは――

彼が拒絶された理由である

「彼は悔い改めの余地を見いだしませんでした」。この御言葉は誰の悔い改めについて述べているのだろうか?

1.エサウの悔い改めだろうか?それとも、

2.彼の父の悔い改めだろうか?私たちはこの両方の観点から見て、益を受けることができる。

エサウの側から。しかし、ここで問題が生じる。「人はいつでも悔い改めることができるのではないでしょうか?人は生きている限り、常に悔い改めの余地があるのではないでしょうか?エサウは悔い改めなかったのでしょうか?」。然り!自分の愚かさを悔い改めたのである。神に対するを悔い改めたのではなかったのである。

しかし、この表現は独特である。それは「彼は悔い改めの余地を見いだしませんでした」と言っている。この御言葉は、悔い改めによって彼の損失を修復する機会がなかったことを意味するように思われる。多くの場合、悔い改めは赦しをもたらす。神と人の両方からである。そして、その罪に伴う有害な結果を無効にする。

こうして、(1)ニネベの人々がヨナの宣べ伝えで悔い改めた時、神の警告は撤回され、町は助かった。

悔い改めた(2)放蕩息子は父の家で元の地位に戻された。

こうして、後悔した(3)ペテロは、否認の後、救い主の赦しを得て使徒たちの間でその地位を取り戻した。しかし、ここではそうではない。彼の罪によって引き起こされた損失を修復する機会は一切与えられなかったのである。彼の長子の権はその祝福と共に失われ、取り返しがつかなかったのである。

ⅰ.彼は祝福と長子の権を売り払って得た代価を受け取り、それを楽しんだ。売り払った物と売り払って得た代価とを、同時に両方とも持つことは出来なかったのである。その代価の何とみすぼらしく、何とたちまち過ぎ去っていくものであることか!インディアンの酋長たちは、衣服や斧や釣り針と交換で、彼らの丘、森、谷、川をイギリスの入植者たちに売り払った。しかし、すぐに衣服はすり切れ、斧は壊れ、釣り針はなくなってしまったのである!土地はその所有者と共に残った。かりにインディアンが元の値段の二十倍で彼らの土地を買い戻すことを願い、また、そうすることができたとしても、彼らはその土地を手に入れることはできなかったのである。

ⅱ.また長子の権は、預言者が借りてなくしてしまった斧とは異なり、単なるものではない。売り払った品は他の人のものになり、その所有者は自分が得た権利の価値をますます感じるようになって、それを手放そうとしなかったのである。それを取り去ることは、ヤコブに対して不正を犯すことであった。

ⅲ.エサウは誓いを立てて売り払った。それゆえ、この契約に第三者が立ち会ったのである。たとえヤコブがそれを売り戻すことを願ったとしても、力ある審判者なる方はそれを拒絶したであろう。もしエサウがその取引を撤回したなら、彼は自分の身に神の呪いを招いたであろう。もはや修正はきかなかったのである。この譲渡は有効であり続けなければならない。いくらエサウが涙を流しても、この損失を修復することはできなかったのである。

2.しかし今、この問題をイサクの側から見ることにしよう。すでに述べた問題を見ると、ここで語られているこの悔い改めは父に関してであると受け取るのが最も合理的に思われる。エサウは父親を悔い改めに導くことはできなかった。父は霊感を受けてこの言葉を語り、それは撤回しえなかったのである。父の側に悔い改めの余地はなかった。彼は神の御旨を語った。神は変わることのない御方である。すでに祝福はヤコブを覆っていた。人の手がそれを引きはがすことはできなかった。祝福をそこに置いた者の手といえども、それを引きはがすことはできなかったのである。エサウは父の心を変えようと試みた。しかし、彼は父の心が堅いのを見いだした。ことはすでになった。「この件は私の手を離れた」――これが父の事実上の答えであった。

他方、エサウは父親の優しい気持ちが自分に向いているのを感じていたので、「悲痛な叫び声」を上げ、涙を流しながら、悲嘆にくれた鋭い懇願で父親の愛情をゆさぶった。しかし、この厳しい狩猟者の目がかすむことはほとんどなかったとはいえ、彼は勝利を得なかったのである。三度彼は父親に泣きつき、三度その懇願の目的は拒絶された。彼はイサクの心を悩ませるが、その心を変えることはできない。地震による巨大な高波が浜辺に押し寄せ、砂を巻き上げ、激しくかき混ぜたとしても、それはほんの一時のことである。波は砂粒を浜辺に残し、砂粒無しで深海に戻らなければならない。

この教訓を主イエスの弟子たちにあてはめることにしよう。

この手紙は「避け所を求めて」イエスに「逃れてきた」信者たちに宛てられている。彼らは初めの頃、大きな勇気を示し、キリストのために耐え忍んだ。ゆえに、使徒の訴えは偽善者たちやこの世の者たちに対するものではない。

ここで私たちに適用されている旧約聖書の歴史は、同じ真理を示している。エサウはイサクの割礼を受けた息子であり、ヤコブと同じように約束の時に生まれた。同じ父と母から生まれた双子であった。おもな祝福を拒絶され、除外された時ですら、彼は呪いを受けて立ち去ったわけではない。彼は依然として息子だったのである。「私はあなたに何をしようか、わが息子よ?」。彼は優った祝福からは締め出されたままだったが、劣った祝福を楽しんだ。だから、もしエサウのようにあなたが罪を犯すなら、彼のようにあなたも罰せられることを覚悟せよ!少し考えてみよう!彼はどのように祝福を失ったのだろうか?

(1)偶像崇拝によってではないし、アブラハムの神を拒否することによってでもない。

(2)しかし、俗悪さによってである。特別な霊的祝福がエサウに委ねられていたのだろうか?あなたにも委ねられているのである。エサウの祝福は悪い行いによって失われうるものだったのだろうか?*あなたの祝福もそうである。私たちは回心によって「神の息子たち」とされた。エサウが持っていた立場より優った立場が私たちに与えられている。私たちの前に、優った契約に固有の栄光が置かれている(ヘブル四章)。私たちは「長子」である。私たちは小羊の血によりエジプトから神へと贖われた最初の者たちである。イスラエルの長子(後にレビ族に移行した)は特別な救われ方をしたのだろうか?(ヘブル一一・二八)。私たちもである。私たちの前には、至高の千年期の祝福の希望がある。私たちは神によって「王国と栄光に召されて」いる。私たちはメシヤと共に約束された祝福にあずかることができるのである。

*永遠の命は神の無代価の賜物であり、選びの民全員のために神ご自身が安全に保っておられる(ローマ六・二三)。しかし、メシヤの千年王国での報い(黙示録二〇章)は失われる恐れがあるものである。

しかし、あなたは千年間の栄光をささいなことと思うかもしれない。「永遠の命さえ手に入れば満足です!」。あなたは楽しい地をさげすみ、主の御言葉をほとんど信用しないかもしれない。あなたは、神は厳しい方であるという考えをもて遊び、自分は誰も太刀打ちできない環境の中に置かれていると思うかもしれない。あなたは昔のイスラエルのように、栄光への道には克服できない諸々の困難があると思うかもしれない。あなたのような「いなご」がどうしてアナクの巨人の末裔たちに太刀打ちできるのか、というわけである。あなたはエサウのように絶望するかもしれない。「王国を得ようと私が努力しても無駄です。私のような状況下では、誰もまっすぐ立つことなどできません!理屈が麗しいことは認めます。しかし、これはあまりにも厳格すぎて、誰も実行することができません!」。もしあなたがこのような思いを許すなら、それと同質の行動がたちまち続くであろう。火薬に火がつくと必ず爆発が起きるのと同じように、あなたは誘惑されてそのような俗悪な考えを必ず実行に移すであろう。

あなたは今のこの世の利益のために、将来の栄光の所有権を安値で手放すであろう。王国に対するあなたの希望は弱まり、王国に対するあなたの観念は貧弱になり、あなたはエサウのように破滅的な安値で売り払うであろう。そして神の前で、また最後には他のすべての人の前で、あなたの俗悪さが明らかになるであろう。それはまるである公爵の跡取りのようである。彼は困窮に陥り、ワラブキ屋根の小屋に住んで、斧で生計を立てることを余儀なくされた。彼は公爵の宮殿、土地、称号の所有権を売り払う。今日の必要のために数百シリング得るためである。しかし、あなたの取引はこのような取引ではない。なぜなら、この安売りは俗悪なことではないからである。この跡取りは世的な所有権を世の別のものと交換した。しかし、あなたの場合、霊的なものを一時的なものと交換したのである。

この類の数千の取引が私たちの周りで行われており、神はそれらをご覧になって記録しておられるのである。

1.ここに不安な良心を抱える一人の聖職者がいる。もし彼があなたに信頼しているなら、あなたにこう言うだろう、「私は自分が話したり行ったりするよう召されているいくつかの事柄で困難を抱えています。しかし、私のような状況下では何ができるというのでしょう?私には妻と育ち盛りの子供がおり、私の扶養を必要としています。もし今の環境から飛び出すなら、どうやって彼らを養えばいいのでしょう?」。これはまさに不信仰というエサウの精神である。「見よ、私は今にも死にそうだ。こんな長子の権が私に何の役に立つのか?」。もし彼がこのような理屈にしがみつくなら、彼の傷ついた良心から得られる生計は、自分の長子の権を売り払って得た一杯のスープなのである。

2.ここに信者の召し使いがいる。彼女はしばらく職がなく、貯えも尽きてしまった。すると、ある貴族の家で高給の仕事が舞い込んできた。この女性にとって万事順調のように思われる。「あなたが信じておられる宗派はどちらですか?」「プロテスタント系の非国教徒です!」「ああ!それではあなたを雇うことはできません。他の点はみな申し分ないのですが。しかし、もしあなたが私の職に就くなら、あなたは国教会以外行くことはできません。あなたは私のめがねにかなっておられるので、一日か二日考える時間を差し上げましょう」。その国教会では、不敬虔な牧師がキリストの福音ではなく道徳を説いているのである。しかし、この世はまばゆく輝き、神の黄金の約束は色あせた安物になってしまう。この世の偽物の派手な安物が黄金のように輝く。あなたは市場の屋台で、全身赤、黄、紫、青、金箔でまばゆく光輝く俳優の絵を見たことはないだろうか?子供はそれらの絵に引きつけられてしまう。父親はその価値を知っている。一ペニーか二ペンスである!しかし、ルーベンスの地味な絵には深い陰影と燃えるような輝きがある。子供はほとんど気にせず通り過ぎるが、父親の目を引く。それには数千ペンスの価値があるのである!

さて、信者の召し使いの胸中の葛藤はどう決着したのだろうか?彼女は信者として洗礼を受け、キリストの教会の会員として登録されたにもかかわらず、譲歩してしまい、今の一時的な求職のために、霊的な特権、会員権、希望を放棄してしまうのである。彼女は今自分の報いを受ける。

これは新たなエサウの選択ではないだろうか?これは原理的に同じ類のことではないだろうか?然り!より高い地位、より高い給料は一杯のスープである。この安売りはエサウの安売りと同じく現実である。両者を共に楽しむことはできない。優ったものが犠牲になるのである。この世の富は得られるかもしれないが、王国を失うのである!

ここにクリスチャンの商売人である本屋がいる。彼は競争が逼迫しているのを見る。儲けはわずかである。同じ商売をしている商売敵たちが、彼を追い越しつつある。彼らは彼の良心の痛みに煩わされることなく、キリストが罪に定めておられる商売で儲けることができる。しかし、彼には妻があり、所帯も大きくなりつつある。「小説や演劇やトランプを扱うのは好ましくない。しかしもし扱わなければ、どうやって生計を得ればいいのだろう?自分が扱わなくても、他の人たちは扱うだろう。今は特に困難な時である。他の人たちがしているように自分も商売するか、この商売をやめるかだ」。もし彼がそのように商売するなら、エサウの俗悪な安売りがまたもや繰り返されることになる。慣習にならって得るこの世の利益の増加は、彼にとって一杯のスープである。スープと同じように、これもまた速やかに過ぎ去る。死が訪れるまで、あるいは主が現れるまで、この世の物を楽しむなら、その時、一文たりとも支払いを受けることはないであろう。彼は生きているうちに良い物を楽しんだのである。

しかし、来るべき日には、エサウとその父親の間で交わされた光景が再び上演されるのである。

ラッパが復活を告げ知らせた!聖徒たちは集められてキリストとその御父に会う。まばゆい光の輝きの中、イエスの恐ろしい臨在の前で、王国の壮大な時代の予感が稲妻のように閃く。その時、メシヤの栄光の中の地位に比べたら、この世は何物だろう?夜の闇が視界を覆う時は過ぎ去った。夜、旅人は山上で休むために横になったが、三日月の下では下界の景色は薄暗くてよく見えなかった。しかし、目覚めると、広大で荘厳な景観を見た。その景色は夏のまばゆい光を浴びて葉で覆われ、ダイヤモンドのような朝露で輝いていた。ナイチンゲールの歌声が響き、森と山々に囲まれ、大滝と川で銀色に彩られていたのである。その壮大さは、夕方に思い描いた貧弱な想像とは何とかけはなれていることか!隠されていた美と雄大さを太陽がすべて明らかにしたのであり、そして旅人は携え上げられて立つのである。

その時、一目見ただけで、弟子の魂は王国の価値を理解するのである!王国で地位を得たいという願いが、枯れたハリエニシダの束の山に点いた炎のように燃え上がる。列車の機関から発する蒸気の輪のように、過去に抱いたさげすみの念は消え去る。以前、王国を得る望みは無いと考えて諦めたことは、すっかり忘れてしまう。魂は王国を鮮やかに感知し、熱心にそれを願う。

その時、魂は熱心な訴えを口にして言う。

「ああ、主よ!私をあなたの栄光にあずからせてください!あなたの王国に入らせてください」

その時、救い主は地上でなされた俗悪な安売りの罪科を思い出されるであろう。その時、魂は光を放つ栄光を放棄して、地のあぶく銭を得たのである。魂はその金を楽しんだ。生涯、その安売りを保ったのである。長子の権は売り払われた。祝福は去った!二者択一の選択が熟慮の末に行われ、堅く維持された。王国は失われたのである!

しかし、魂はこんなに素晴らしいものをおとなしく諦めることはできない。こんなに素晴らしい栄光を失い、そして千年間、他の人々の喜びとメシアの統治から締め出されることへの恐れの感覚が魂を揺さぶる。「は暗闇の中に取り残され、私の兄弟たちは光の中に入る!私は悲しみの中に残されるが、彼らは喜びに浴する、千年間も!」

魂はきわめて悲痛な叫びで天の御父に訴えるのである!涙を流し、言葉もつまりがちである。「ああ!私が入るのをお許しください!主よ、私は罪を犯しました!しかし、それでも私が入るのをお許しください!あなたが光の中で統治される間、私を外の暗闇に締め出さないでください!」

これは無駄である!悔い改めの時は過ぎ去った。それはである。その時、蒔く時期は終わっているのである。それは実りの麦束と取り込みの日である。働きにしたがった報いの時である。イサクの決定より堅い決定なのである。この族長は、親としては祝福を与えることを望んでいたにもかかわらず、お気に入りの息子を拒絶したのだろうか?その時、神はご自身の義を示され、神の真理には染み一つつかないであろう。そのような者をその安息に入ることから除外するという神の誓いが、完全に執行されるのである(ヘブル三・四)。イサクの愛より強い愛にもかかわらず、神を動かすことはできない。その安売りは有効なままである。「下がれ、俗悪なエサウよ!王国は失われたのだ!」

それゆえ、恐れようではないか――やがて啓示される栄光から「投げ出され」ないように。私たちはエサウの俗悪な安売りをしたことはあるだろうか?それを直ちに取り除こうではないか。今はまだ悔い改めの余地がある。しかし、その時にはないのである!

Ⅱ.さて、私は未信者の方に一言述べなければならない。

私の話を聞いておられる、有能で愛想の良い若者の方々。あなたたちの中に、聖書をもじってあざけり、不敬虔な仲間たちの笑いや喝采を求める集団の指導者はおられるだろうか?青年よ、あなたは神の言葉を冷やかしたことはあるだろうか?そして、良心は痛み、神を怒らせる真似はよすようあなたに訴えているにもかかわらず、あなたはなおもそのようなことを行い続けるつもりだろうか?神の刃をもてあそぶのは危険なことである。たわむれに神の鋭い刃の上に乗ってバランスを取ろうとする者は、もしそれで傷を負うことがないなら、さぞや器用な軽業師にちがいない。気をつけよ、あざける者よ!それによって多くの陽気な冒涜者たちは致命傷を負ったのである。気をつけよ、ああ、俗悪な者よ!もし神の忍耐が突然尽きたらどうするのか?その時、たちまちあなたは最後を迎えるであろう。恐ろしい金切り声をあげて、恐れに打たれた悪人たちの群れから飛び出そうとするであろう。遠くからあざけることと、永遠に地獄の火の中にとどまることとは別の話なのである!

私はあなたにお願いする。あざけるのをやめてほしい。それは預言者が言っているように、「あなたのしめ縄がきつくならない」ためである。あなたが囚人としてサタンに渡されて、解かれることのない鎖につながれることがないためである。死すべき者が神をあざけるとは、狂気の沙汰である。神は永遠にあなたの涙をさげすみ、あなたのうめきをあざけられるであろう。

神は悔い改めない者に正義をもって警告された。「私もあなたの災いを笑い、あなたが恐れるときあざけろう」。あなたはエサウより悪いのである。あなたはより多くの光を持っているので、あなたの罪はより多いのである。エサウは宗教を馬鹿にしなかった。神の賜物を過小評価しただけである。エサウは失われただろうか?彼より罪が重いあなたはどうやって逃れることができよう?

別の例について述べよう。あなたは俗悪だが、その俗悪さが目立たない人である。あなたはこの世をとても愛している。あなたは自分の欲望に従う人である。あなたにはたくさんの金があり、陽気な友達として評価されている。あなたの信条は、人生とは楽しむもの、である。あなたは、あなたと共に楽しまず、現世の快楽を求めない、愚かなヤコブたちをさげすむ。

それでも、あなたはいまわの際に悔い改めるつもりである。できるだけ長くこの世を楽しみ、浸水した旅船が船首を上げて渦と共に底に沈もうとするその瞬間、傍らにある救命ボートに飛び乗ろう、というわけである。しかし――「この世と共に歩むのはもう十分である!漕ぎ手たちよ、配置につけ!緋色に縁取られたガラスのような流れから出立せよ!我々は水難に会う前に帆船を停泊させよう!」

あなたは将来いつか悔い改めるつもりである。あなたは神がそのような機会をお与えになるつもりかどうか尋ねたことはあるだろうか?さもないと、あなたは自分の罪が花盛りのときに断ち切られ、災いの見せ物となり、永遠に正義の報復のみせしめになるかもしれないのである!神の忍耐はたまたまあなたの予想より数年短いかもしれない。もしそうなら、あなたはどうなるのか

神はご自身でお定めになった間は耳を傾けてくださるであろう。「今日」この日である。「今日、もし彼の御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない」。今日、悔い改めよ。そうすれば神は赦してくださる。「私たちの神はこころよく赦してくださいます」。

しかし神は、将来の悔い改めのためにあなたに数年与えよう、とは決して約束しておられない。あなたの手書きの覚え書きや将来の支払いの約束は紙の無駄であり、破産者の詐欺的保証である、と神はみなしておられるのである。

今、行動せよ口約束ではだめである!預金者よ!あなたの口座は赤字である!永遠の運命を賭けたばくち打ちよ、さいころを振るのをやめよ!たった一投のために永遠の運命を危険にさらしてはならない!あなたは聞いたことがないだろうか?数千もの多くの人々、あなたのように無謀な者たちが、苦しみにあってきたし、今もあっていることを。彼らは「見せしめとして、永遠の火の刑罰を受けている」のである。

あなたは人の臨終の様子について聞いたことはないだろうか?(あなたはもしかするとそれを見たことはないだろうか?)それは生存者たちの記憶に暗く刻まれ、不気味な光景として脳裏に残ったのである。あなたは眠るために横になった人の話を聞いた事はないだろうか?その人は隣人たちがベルを鳴らし、ドアをノックし、「火事だ!火事だ!」と警告したにもかかわらず、眠ろうとしたのである。そして、起きてから逃げようとすると、すでに火が彼のベッドを取り囲んでいた。彼の口から絶望の恐ろしい叫びがあがった――「手遅れだ!手遅れだ!ああ、耳を傾けていれば!だが、その時は過ぎ去ってしまった!」

最近私が読んだ事件は、おそらく今日の警告をあなたの心に印象づけるであろう。

ある日曜日の晩、アメリカのフィラデルフィアで行われた若者の祈りの集会でのことである。一人のよそ者が立ち上がって、話をする許可を求めた。彼が言うには、彼は今寄港している船の船長であり、キリストの宗教への信仰を告白する者であった。彼は言った、「私はここにいる悔い改めていない人たちに、先延ばしにするのは危険なことだと警告したいと思います。今日すべきことを明日に先送りするのは安全なことではありません。私が船旅をしていた時のことです。私はあの悲惨な運命を辿った蒸気船『セントラルアメリカ』号に偶然出会いました。夜が迫り、波も高かったのですが、私はその航行不能に陥った蒸気船と連絡を取り、助けが必要かどうか尋ねました。『船は沈みつつあります』とヘンドン船長は叫びました。『あなたの船の乗客を私の船に乗せた方がよいのではありませんか?』と私は答えました。『朝まで私の船のそばにいてもらえないでしょうか』とヘンドン船長は応答しました。私は答えました、『そうするよう努めますが、あなたの船の乗客を私の船に乗せた方がよいのではありませんか?』。『朝まで私の船のそばにいてください』とヘンドン船長は再び言いました。私は彼の船のそばにいるよう努力したのですが、夜、こんなに荒れ狂う海の中ではどんな船も位置の制御は不可能です。そして、私は二度とその蒸気船を見ることはなかったのです船長が『朝まで私の船のそばにいてください』と言った一時間半後、その船は乗員と共に沈みました。そして彼自身も、乗客や乗組員の大多数と共に、海の藻屑と消えたのです!」

ぐずぐずするのはもうやめよ!この遅れさえなければ、「セントラルアメリカ」号の乗組員や乗客は全員助かったかもしれないのである!

これはあなたに対する語りかけではないだろうか?神の霊は今、あなたの心に訴えておられ、神の御子の避け所に逃れるようあなたに押し迫り、促しておられるのである!あなたは航行不能であり、今にも沈みそうである。それなのにあなたは今、救いを遠ざけるのだろうか?あなたは恵みの霊にこう言うつもりだろうか――「まだだめです!朝まで私の船のそばにいてください」。「もっと好都合な時がいずれきます!」。もしあなたがこうするなら、私はあなたに警告する。この世の暴風雨の海はあなたを神からますます遠く追いやるであろう。もしかすると、これが神があなたに許しておられる最後の呼びかけかもしれない。この呼びかけを拒むなら、あなたは沈むかもしれない。あなたはあなた自身の愚かさの犠牲となり、「永遠に失われる!」のである。