第二章 第一段階

ガイオン夫人

なにか重要な真理、実際的真理や観想的真理の中に入るには、二つの方法があります。第一の方法は、聖書の御言葉を読んで黙想することです。第二の方法は、ただ黙想することです。

聖書の御言葉を読んで黙想することは、御言葉を読むことと黙想の両方を含みます。まず最初に、聖書を開いて、実際的な節を選びます。次に、その節を少しだけ読みます。* そして、その御言葉を味わい、吸収して、その本質と内容を抽出します。その節に味わいや風味が残っている間は、次の節に進みません。それから再び、前と同じように聖書を読みます。この時間を終える時、おそらくあなたは半ページも読んでいないでしょう。

訳注
*読むとき、注意が必要です。自分が読んでいる御言葉を、注意深く、少しずつ、十分に取らなければなりません。以前のあなたの習慣では、聖書を読むとき、一つの節から次の節へとすぐに進んで行き、そうして一つの区分全体を読んでいたかもしれません。おそらく、あなたはその区分の要点をつかもうとしていたのでしょう。しかし、聖書の御言葉を読んで黙想する時、あまり速く読んではいけません。非常にゆっくりと読むのです。あなたが読んでいる節のまさに核心に触れるまで、次の節に進みません。その時あなたは、自分に触れた聖書の御言葉を取り上げて、それを祈りたくなるでしょう。

聖書の御言葉を読んで黙想する方法では、どれだけたくさん読んだかは重要ではなく、どのように読んだかが重要です。もしあなたがさっと読むなら、少しも益を受けないでしょう。あなたは花の表面をなでる蜜蜂のようでしょう。聖書の御言葉を読んで黙想するこの方法では、あなたは花の奥まで進入する蜜蜂のようにならなければなりません。花の中に深く飛び込んで、最も深いところにある蜜を取り出すのです。たくさん読む方法は、学問には向いていますが、神聖な真理には向きません。霊的な書物から益を受けるには、私が示したように読まなければなりません。私は確信しています。もしこの方法を実践するなら、読んだ御言葉によって祈ることが少しずつ習慣になっていくでしょう。そして、ますますこの方法を実践するようになるでしょう。

第二の方法である黙想は、適当な時期が来たら実践します。また、黙想の時間は聖書を読む時間とは別に確保する必要があります。私は、最も良い黙想の方法は次のようなものであると信じています。

まず、生ける信仰を活用して、神の臨在の中に入ります。次に、聖書のどこかの真理を読みます。読んだら、穏やかに静まります。静まるのは、理性を用いるためではなく、精神を集中するためです。黙想の主要な目的は、神の臨在を経験することです。ですから、御言葉を読むのは思いを静めるためであって、理性を働かせるためではありません。

次に、自分の内側深くにおられる神を信じる生ける信仰によって、感覚が外側をさまようのを抑制し、自分の内なる最も深い部分に向かいます。そうするなら、多くの束縛から解放され、外側のものから遠く離されて、神のみそば近くにもたらされます。神が見いだされるのは、私たちの最も深い部分においてだけです。私たちの最も深い部分は、神が住まわれる至聖所です。かつて主は、「だれでもわたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人と共に住みます」(ヨハネによる福音書十四章二三節)と約束されました。また、かつて聖アウグスチヌスは、「私は、クリスチャン経験の初期の頃、内側よりも外側で主を見いだそうとしたために、多くの時間を失ってしまった」と後悔しました。

このように全く内側に向かうなら、神の臨在の感覚で満たされ、温められます。感覚は静まり、外側から中心に引き寄せられます。魂は、自分が読んだ真理によって、甘く静かに満たされます。これは読んだ御言葉を研究することではなく、読んだ御言葉で養われることです。それは御言葉を研究して理性を疲れさせることではなく、愛情によって意志を力づけることです。愛情がこの状態に達したら(最初、これは難しく見えるかもしれませんが、これから述べるように、容易に達することができます)、愛情に休むことを許さなくてはなりません。それは、自分が味わった御言葉を食べるためです。

例として、最高の御馳走の香りを楽しんでいる人を考えましょう。動くのをやめて御馳走を食べないかぎり、養いを受けられません。それと同じように、愛情の炎が燃え上がった時、それをさらに燃え上がらせるなら、かえって炎を消してしまい、魂は養いを奪われてしまいます。ですから、愛情を休ませて、自分が受けた幸いな食物を、恭しく、確信をもって食べなければなりません。この方法は絶対に必要であり、短期間のうちに魂を前進させるでしょう。

しかし、前に述べたように、祈りの主要な要素は神の臨在を見つめることです。私たちはさまよう感覚を呼び戻すよう勤勉に励む必要がありますが、神の臨在を見つめることこそ、外側の気を散らせるものに打ち勝つ、世界で最も簡単な方法なのです。さまよう感覚に直接戦いを挑むなら、かえってそれを掻き立てて、強めてしまいます。しかし、自分の内側に向かい、信仰によって神の臨在を見つめ、ひたすら静まるなら、さまよう感覚と直接戦ったわけではないのに、自分でも気づかぬうちにこの戦いに勝利するでしょう。

ここで、初心者に注意を述べたいと思います。あなたはこれまで、真理から真理へ、主題から主題へ渡り歩いてきたかもしれません。しかし、神聖な真理の中に入り込み、それを十分に味わい、心の中に刻み込む正しい方法は、味わいが続くかぎり、その真理にとどまることなのです。

最初、静まるのは困難です。これは、絶えず外側をさまようことに魂が慣れているためです。しかし、自分を訓練して、静まることに多少慣れるなら、この過程はすぐにとても容易になります。それは、習慣の力と神のおかげです。ご自分の被造物に対する神の御旨は、彼らにご自身を伝え、豊かな恵みを分け与え、ご自身の臨在の喜びを経験させることです。主の臨在は、静まることをとても容易にします。