「この方法だと、奥義が心に刻み込まれない」という反論があるかもしれません。しかし、実際はその逆です。これこそ、奥義を魂に刻み込む特別な方法なのです。私たちはイエス・キリストに自分を明け渡しました。イエス・キリストは「道であり、真理であり、いのち」です(ヨハネによる福音書十四章六節)。私たちは主に従い、主に聞き、主からいのちを受けます。主はご自身を魂に刻み込み、ご自身の様々な性格を魂の中に造り込んでくださいます。イエス・キリストのすべての経験を負うことは、彼の経験を黙想することよりも、ずっとまさっています。聖パウロは自分自身の身にイエス・キリストの経験を負いました。彼は、「私はこの身にイエスの焼き印を帯びています」(ガラテヤ人への手紙六章十七節)と言いました。彼は、「私はそれについて考察しています」とは言いませんでした。
イエス・キリストは、この明け渡しの状態にある人に対して、ご自分の性質に関する特別な啓示をしばしば与えてくださいます。私たちは主の啓示を感謝して受け入れ、主の御旨に自分を明け渡さなければなりません。また、主が与えてくださるものを、選り好みせずに、すべて平等に受け入れなければなりません。熱心に主を追い求め、常に主と共に住み、主の御前で自分を無にし、主の賜物を分け隔てなくすべて受け入れなければなりません。暗闇や光、豊かさや乏しさ、弱さや強さ、甘さや苦さ、誘惑、混乱、痛み、疲労、不確実さを、それが神からの賜物であるかぎり、すべて受け入れなければなりません。これらのものが、一瞬たりとも私たちの歩みを遅らせてはなりません。
神から何らかの奥義を受けて、それを数年間、黙想の中で享受し続ける人もいます。そのような人は、ただ一つの奥義だけを黙想します。その人をその奥義に忠実であらせなさい。しかし、神がその奥義を魂から取り去られる時、魂はそれが取り去られるのを黙って見ていなければなりません。ある奥義を黙想することができないと、そのことで非常に不安になる人もいます。しかし、神を愛して神に近づくことは、それ自身の内にあらゆる種類の祈りを含んでいます。ですから、ただ神だけに静かにつながっている人は、すべての神聖な奥義に容易に向かうことができます。だれでも神を愛する人は、神に属するすべてのものを愛します。