第十章 内なる霊に生きる

ガイオン夫人

私はさらに言いましょう。これ以外の方法で、感覚や欲望を完全に克服するのは不可能です。

その理由は明らかです。魂は感覚に活気と力を与え、感覚は欲望を呼び覚まして刺激します。死体には感覚も欲望もありません。なぜなら、体と魂が分離されているからです。外側を矯正しようとすることは、魂を外側に向かわせます。その結果、魂の力は外側に散らされて、外側の感覚と欲望をますます強めます。魂が外側のものに注意を向けるやいなや、抑制しようとしている感覚を逆に強めてしまいます。感覚が力を汲み出す泉は、魂しかありません。ですから、魂が感覚に注意を向ければ向けるほど、感覚はますます活発になります。この感覚のいのちは、欲望を抑制して征服するかわりに、欲望を掻き立てて刺激します。苦行は体を弱めるかもしれませんが、今述べた理由により、感覚の鋭さを取り除くことも、その働きを弱めることもできません。

感覚を征服する唯一の方法は、内側に向かうことです。* これにより、魂は全く内側に向かい、そこにおられる神を得ます。** すべての力を内側に注ぐなら、魂は感覚から分離され、感覚は弱められます。神に近づけば近づくほど、魂はますます自己から分離されます。内側で力強い恵みに引き寄せられている人は、外なる人が非常に弱まるのを経験するでしょう。

訳注
*ローマ人への手紙八章六節「肉に付けた思いは死ですが、霊につけた思いは命と平安です」。
**救われた信者の霊の中には、キリストが内住しておられます。ヨハネによる福音書十四章二〇節「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります」。十四章二三節「だれでもわたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。そうすれば、わたしはその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」。コロサイ人への手紙一章二七節「この奥義とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の望みのことです」。

私は苦行を否定しているわけではありません。ただし、苦行には常に、各人の力と状態に応じて、また従順の要求に応じて、祈りが伴わなければなりません。しかし、私は言いましょう。苦行は私たちの主要な実行ではありません。* 私たちは苦行を自分に課すべきではありません。ただひたすら、内側の恵みの引き寄せに従い、神の臨在で満たされなくてはなりません。そうするなら、特に苦行を実行しようと思わなくても、神があらゆる苦行を実行できるようにしてくださいます。神は、忠実に自分を明け渡している人々の内で働かれます。神は、彼らの中に残っている、死に渡されるべきものを、ことごとく死に渡してくださいます。この働きが終わるまで、神は彼らを放されません。

訳注
*コロサイ人への手紙二章二〇~二三節

私たちがなすべきは、全神経を神に集中し続けることだけです。そうすれば、すべては完全に果たされるでしょう。すべての人が外側の苦行を実行できるわけではありませんが、これならだれでも実行できます。私たちの目と耳は、私たちの想像力に絶えず新しい題材を供給します。ですから、自分の見聞きすることに関して、私たちには訓練が必要です。この訓練を実行するとき、極端に走るおそれが若干ありますが、神はこれについても私たちを教えてくださいます。私たちは、ただ神の霊に従わなければなりません。

このように進むことによって、魂は二つの益を受けます。第一に、外側の事柄から退くことによって、魂は絶えず神に近づいていきます。神に近づくにつれて、魂はますます支える力と徳を受けます。第二に、魂はますます罪から離れていきます。こうして、回心が習慣として確立されるのです。