第十一章 中心に向かって

ガイオン夫人

「イスラエルの子らよ、あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ」(イザヤ書三一章六節)。回心とは、神に戻るために、被造物から転じること以上のなにものでもありません。

罪から恵みに向かうだけでは(たとえそれがどんなに良く、またどんなに救いに必要不可欠だったとしても)、回心は不完全です。回心が完全なものになるには、それは外側から始まって内側に深まっていかなければなりません。

いったん神に向かうなら、絶えず神に向かい続けることが驚くほど容易になります。神に向かえば向かうほど、魂はますます神に近づき、神にしっかりと引き付けられます。そして、神に近づけば近づくほど、必然的に、魂はますます被造物から遠ざかります。なぜなら、神と被造物は正反対だからです。魂は回心の中に確立されるため、その状態が習慣的になります。まるで、その状態が自然であるかのようです。

さて、「自分の力でこの状態を実現しよう」と思ってはなりません。私たちにできる唯一のこと、また私たちがなすべき唯一のことは、神の恵みに協力して、外側の物事から退き、内側に向かうことです。その後は、神の引き寄せに従い続けること以外、なにもすべきことはありません。

神には魂を引き寄せる性質があります。神はますます力強く、魂をご自身に引き寄せてくださいます。そして、魂を引き寄せる時、神は魂を清めてくださいます。魂は蒸気のようです。太陽が水を蒸発させると、その蒸気は少しずつ上に向かって昇って行きます。そして、上に昇って行くにつれて、蒸気はますます浄化され、純化されていきます。蒸気は、上に引き上げる力に、ただ身を任せます。しかし、魂と蒸気の間には一つ違いがあります。蒸気はなにもできませんが、魂は自発的に主と協力できるのです。

このように内側に向かうことは、とても容易であり、自然に魂を前進させます。魂はなにも苦労せずに前進します。なぜなら、神は私たちの中心だからです。中心なる神にはものを引き寄せる性質があります。そして、私たちが霊的になり、高く上げられるにつれて、その引き寄せはますます強力で、逆らえないものになります。

しかし、中心なる神にものを引き寄せる性質があるだけでなく、被造物にもその中心に再結合されようとする強い習性があります。私たちが霊的になり、完成されるにしたがって、この習性はますます強まり、ますます活発になります。

どんなものも中心に向かうやいなや、邪魔されないかぎり、すぐに中心に達します。手から石を落とすと、石は自分の重さによって、自分の中心である地面に落ちます。水や火も、邪魔されないかぎり、自分の中心に向かって絶えず流れて行きます。魂が努めて静まり、中心に向かう習性の影響を受ける時、魂は、愛の重さによって、少しずつ自分の中心に向かって落ちて行きます。愛以外の力は必要ありません。じっと静かにしていればいるほど、また自分の努力から自由になればなるほど、魂はますます速やかに進みます。なぜならこの時、妨げられることなく、自由に、十分に、求心力が働くからです。*

編者注
*この美しい比喩は、内なるいのちの路線の教師たちが教えた神聖ないのちの本質をすべて内包しています。この比喩は美しいだけでなく、真実です。神は魂を引き寄せる大いなる磁石です。しかし、神が引き寄せるのは魂だけです。不純物や混ざり物は、この引き寄せる力を邪魔します。もし不純物や混ざり物がなにも無ければ、この強力無比な引き寄せの下で、魂は神に向かって猛スピードで突き進み、神の中に失われるでしょう。しかし、多くの人は財産を負い、地上のものや自己を堅く握りしめています。そのため、彼らは一生の間、カタツムリのようにゆっくりとしか中心に向かえません。神が、愛のゆえに、彼らの手から荒々しく重荷を取り去られる時、彼らは自分を引き止めていた妨害物にはじめて気がつきます。もし、私たちがすべての重荷を下ろして、自己や被造物から手を引くなら、犠牲の後にすぐ復活が続くでしょう。ここで説かれている受動性に反対する、敬虔な人々もいます。彼らは、ここで述べられていることを、「神が魂に御旨を行うには、魂はいのちのない物体のように死んだ状態にならなければならない」と誤解します。しかし、魂の主要な要素は意志であり、そして、完全に受動的なこの状態は実は意志の高度な働きであることを考慮するなら、このような反対はなくなるでしょう。この状態にある魂は、自分の中で、自分によって、自分を通して、神の御旨がなされることを、全身全霊を傾けて絶えず願います。これに関しては、さらに二一章でも述べられています。

ですから、私たちは内側に向かうことを学ぶ必要があります。私たちはこれだけを心がけなければなりません。困難に出会って落胆してはなりません。神は私たちに豊かな恵みを与えて、これを全く容易にしてくださいます。ただし、私たちは忠実に、外側の気を散らせるものや、自分の心を占有するものから、穏やかに退かなければなりません。そして、優しさと静けさに満ちた愛情をもって、私たちの中心に向かわなければなりません。感情が掻き乱された時、内側の神の臨在に穏やかに避難するなら、感情は容易に静まります。他の方法では、感情をしずめるかわりに、ますます掻き立ててしまいます。