第十二章 内なる祈り

ガイオン夫人

これまで述べてきたように、忠実に神を愛し、神に向かう魂は、主が少しずつ自分の全存在を所有されるのを感じてびっくりするでしょう。今、魂は主の臨在の感覚を継続的に享受します。魂にとって、主の臨在が自然なものになります。そして、祈りだけでなく、主の臨在も日常的になります。人知を越えた静けさが魂全体に広がります。今、沈黙が祈りのすべてを構成します。神は魂に愛を注がれますが、この愛は言い尽くせない祝福の始まりにすぎません。

おお、この主題をさらに深く掘り下げて、この後に続く無限の段階を描写できたら、どんなによかったでしょう。しかし今、私は初心者のためにこの小著を書いています。ですから、これ以上進むのはやめましょう。そして、主の時が来たら、この後の段階について述べることにしましょう。*

編者注
*この主題については、「霊の奔流」の中で取り扱われており、また「神への道と合一の状態に関する概観」の中でも多少述べられています。

しかしながら、最も重要なことを述べなければなりません。それは、自分の行動や自分の努力をやめることです。そうするなら、ただ神だけが働けます。主は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇四六篇十節)と言われました。しかし、私たちの心には、自分の努力を愛し、それに固執する性質があります。そのため、心の働きを感じ、知り、識別できない時、私たちは心の働きを信じません。しかし、心の動きの様子がわからないのは、その速さのためです。神の働きは常に増し加わっており、被造物の働きを飲み込みつつあります。例をあげて説明しましょう。太陽が昇る前、星は明るく輝きます。しかし、太陽の光が強くなるにつれて、星は徐々に消えていき、やがて見えなくなります。これは、星の光が足りないためではなく、太陽の光が強すぎるためです。

同じことが、霊の事柄にも言えます。宇宙的な強い光があり、それが魂の小さな光をすべて吸収します。この強力な影響の下で、魂の小さな光は暗くなっていき、やがて消えてしまいます。もはや、自己の活動を識別することはできません。

「この祈りは不活発である」と言って非難する人がいます。しかし、これは大きな間違いです。彼らは、この祈りを経験したことがないから、そう批判するのです。おお、この祈りを修得しようと少しでも努めるなら、彼らはすぐにこの祈りについて十分な光と理解を得るでしょう。

魂が活動していないように見えるのは、欠乏の結果ではなく、豊かさの結果です。経験を積んだ人なら、はっきりとこれがわかるでしょう。この沈黙は豊かであり、油に満ちています。この沈黙は豊かさから生じます。

沈黙している人には二種類あります。なにも言うことがない人と、言うことがたくさんありすぎる人です。この場合は後者にあたります。欠乏から沈黙が生じるのではなく、過剰な豊かさから沈黙が生じるのです。

溺れて死ぬことと、渇いて死ぬことは、全く別のことです。両方とも死因は水です。しかし、一方は多すぎる水が死を招き、他方は水の不足が死を招きます。そのように、豊かな恵みが自己の活動をしずめます。ですから、できるだけ静かにしていることが最も重要です。

母親の乳房にしがみついている赤ん坊を例にあげましょう。赤ん坊は小さな唇を動かすことによって、ミルクを引き出します。しかし、ひとたびミルクが豊かに流れ始めると、赤ん坊はそれ以上なにも努力せずひたすらミルクを飲みます。これ以外の方法では、赤ん坊は自分を損ない、ミルクをこぼし、乳房から離れなければならないでしょう。

祈り始める時、私たちも同じようにしなければなりません。すなわち、愛情の唇を動かすのです。しかし、神聖な恵みのミルクが流れ始めたら、ただ静かに、楽しく、そのミルクを飲みます。これ以外なにもする必要はありません。もしこのミルクの流れがやんだら、赤ん坊が唇を動かすように、再び愛情を掻き立てます。これ以外の方法では、この恵みを最大限に用いることはできないでしょう。主がこの恵みを与えられるのは、魂を愛の安息に誘うためであって、自己を掻き立てるためではありません。

赤ん坊が、全くなんの努力もせずに、穏やかにミルクを飲んだとしましょう。さて、赤ん坊はどうなるでしょう?驚くべきことに、赤ん坊はこのように養いを受けることができます。平穏にミルクを飲めば飲むほど、赤ん坊はよく育ちます。さて、この赤ん坊はどうなるでしょう?赤ん坊は母親の懐で眠りに落ちます。それと同じように、魂が祈りの中で静穏になる時、魂はしばしば神秘的な眠りに落ちます。そして、この神秘的眠りの中で、魂の力は完全に活動を停止します。最終的に、魂はこの状態に全く適応するようになります。魂は自然に、努力することなく、苦労することなく、この状態に導かれます。技術や学びも必要ありません。

内側*は堅固な要塞であって、外側の嵐や暴風によって揺るがされません。また、内側*は平和の王国です。この王国はただ愛によってのみ獲得できます。私がこれまで述べてきた小道を歩む人は、内なる祈り**に導かれるでしょう。神は、大それたことや難しいことを、なに一つ要求されません。それどころか、神は単純な子どものような振る舞いをとても喜ばれます。

訳者注
*信者の内なる霊を指す。
**英訳では"infused prayer"。これを直訳すると「(神によって)息吹かれた祈り」となります。私たちが自分の内なる霊に向かい、そこで神と接触する時、神は私たちにご自分の御旨を示し、そのために祈るよう私たちを促されます。内なる祈りとは、神によって私たちの内側(霊)に息吹き込まれる祈りです。それは内側から始まって外側に作用し、私たちの全存在を満たし、私たちの存在すべてに浸透します。

最高度の霊性に到達することは至極容易です。最も必要なことは最も容易なのです。これも自然を例にあげて説明できます。海に行くことを考えましょう。どうやってそこに行けばいいのでしょう?ただ船に乗ればいいのです。あなたはなにも労苦せず、自分でも気づかぬうちに、海に近づくでしょう。もし神のみもとに行くことを望むなら、この楽しい容易な道を歩みなさい。そうすれば、あなたは自分の望む目的地に到達するでしょう。あなたは容易に、想像できない速さで、神に到達するでしょう。

もし試しにやってみるなら、私がほんの少ししか話していないことがわかるでしょう。そして、あなたはこの段階を越えて無限に前進するでしょう。何を恐れる必要があるのでしょう?なぜあなたは愛なる主の御腕に直ちに飛び込まないのでしょう?主が十字架上で御手を伸ばされたのは、あなたを抱きしめるためです。ただ神にのみ信頼することに、どんな危険があるのでしょう?自分を全く神に明け渡すことに、どんな危険があるのでしょう?ああ!主はあなたを欺かれません。主は、あなたの望みを遙かに越えて、ご自分の豊富をあなたに与えてくださいます。しかし、自分自身でこれらすべてを得ようとしている人よ、預言者イザヤによって与えられた、この主の叱責を聞きなさい。「あなたは道の長いのに疲れても、なお『平和のうちに休もう』と言わなかった」(イザヤ書五七章十節)。