第十四章 静けさ

ガイオン夫人

「主は、その聖なる宮におられる。全地よ、その御前に静まれ」(ハバクク書二章二〇節)。どうして、内なる静けさが必要不可欠なのでしょう?それは、主が御言葉だからです。御言葉である主を受け入れるには、魂は静まらなければなりません。聴覚は音を聞くための感覚であり、能動的である以上に受動的です。それは音を受け入れますが、感覚を伝えません。音を聞きたいときは耳を澄まさなければなりません。永遠の御言葉であるキリスト――魂が新しいいのちを持つには、キリストが魂に伝達されなければなりません――が私たちの内に語られるとき、私たちはその御声に細心の注意を払わなければなりません。

ですから、「神の御声を聞いて、それに注意を払うように」という命令が、聖書の中にたくさんあります。「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ」(イザヤ書五一章四節)、「わたしに聞け。胎内にいた時からになわれ、生まれる前から運ばれた者よ」(イザヤ書四六章三節)、「娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。そうすれば王は、あなたの美しさを慕おう」(詩篇四五篇十、十一節)。

私たちは自分を忘れ、自分の関心をすべて忘れて、神に聞き、神に引き寄せられなければなりません。このような単純な行為により、もっと正確に言うと、このような受動的な習性により、主ご自身から来る、あの美しい愛が生み出されます。

外側の静けさは、内側の静けさを涵養し、発達させる上で、とても重要です。静けさと隠遁を愛さなければ、実際に内なる人になることはできません。神は預言者の口を通して、「わたしは彼女を荒野に導き、そこで彼女の心に語ろう」(ホセア書二章十四節、ウルガタ訳)と言われました。言うまでもなく、内側で神と交わることと、外側で数千の些事を抱えて忙しくすることは、全く両立しません。

弱さのせいで中心から離れてしまったら、すぐに再び内側に戻らなければなりません。中心から離れるたびに、私たちはこの過程を繰り返さなければなりません。一時間や半時間、献身的に内側に向かうだけでは不十分です。最終的に、油塗りと祈りの霊が一日中続く状態に達しなければなりません。