第十五章 罪の告白

ガイオン夫人

自己吟味が、罪の告白に先立たなければなりません。しかし、自己吟味の方法は、魂の状態に見合ったものでなければなりません。今述べている段階まで進んだ人に、私は勧めましょう。あなたの魂を全く神に開きなさい。神はあなたを照らし、あなたの過ちの特質をあなたに示してくださいます。主がこの吟味をしておられる間、あなたは平穏にしていなければなりません。神があなたの罪を見いだして、それをあなたに知らせてくださいます。この神に信頼しなさい。自分の分析に信頼しないでください。

もし、自分で自己吟味をしようとするなら、私たちはたやすく欺かれるでしょう。私たちは自己愛に欺かれて間違うでしょう。「私たちは悪を善、善を悪と言っている」(イザヤ書五章二〇節)。しかし、義の太陽の全き照らしの中に横たわるなら、主の神聖な光線が私たちのささやかな過ちさえも顕わにします。ですから、自己吟味においても、罪の告白においても、私たちは自己を放棄して、自分の魂を神に明け渡さなければなりません。

魂がこの種の祈りに到達するとき、主はすべての過ちを裁かれます。罪を犯すやいなや、魂は内なる燃焼と優しい混乱によって責められるでしょう。主は魂を精密に検査されます。主は決して罪を隠れたままにされません。魂が取るべき唯一の道は、ただひたすら主に戻って、主が科される痛みと矯正を耐え忍ぶことです。

主が絶え間なく魂を吟味されるようになるとき、魂はもはや、自分で自分を吟味する必要はありません。もし、魂が忠実に自分を主に明け渡すなら、主の神聖な光は自分の注意深さよりも遙かに効果的であることを、魂は経験的に知るでしょう。

この道を歩む人は、罪の告白について多少のことを知らなければなりません。なぜなら、罪の告白はしばしば誤解されがちだからです。過去、あなたが自分の罪を主に告白した時、おそらくあなたは罪を悔いたのではないでしょうか?しかし今、愛と静けさが後悔の念に取って代わります。愛と静けさがあなたの魂に甘く浸透し、あなたの魂を満たします。もしあなたが正しく教わったことがないなら、あなたはこの感覚に抵抗したくなるでしょう。そして、神の御前で悲しみ、後悔しようとするでしょう。これまでしばしば、「神は罪を悲しみ悔いる心を喜ばれる」と言われてきました。これは真実です。しかし考えてください。自分の努力で悔いた心を生じさせようとするなら、あなたは純粋な悔い改めを失います。あなたの内側にあるその深い愛こそ、純粋な悔い改めなのです。それは、あなたが自力で生み出す何ものよりも遙かに優っています。この愛は、他のすべての悔い改めの感覚をまとめ上げて一つにします。この一つにまとまった悔い改めは、それぞれがバラバラの場合よりも遙かに優っています。

神があなたの中で、あなたのために、このように素晴らしい方法で働かれる時、あなたは自分で罪の感覚を生じさせようとする必要はありません。神は罪を憎んでおられます。神が与えてくださる悔い改めを経験する時、あなたは、神が罪を憎まれるのと同じように、罪を憎むようになります。最も純粋な愛は、主が魂の中に直接働いて生み出される愛です。それなのに、どうして私たちは行動することを切望するのでしょうか?賢人の教えに従って、主が定められたところにとどまりましょう。「神に信頼せよ。神が置いてくださったところに静かにとどまれ」(伝道の書)。

この道を歩む時、自分の罪を思い出すことの困難さに気づいて、あなたは驚くでしょう!しかし、不安になってはいけません。なぜなら、第一に、罪を忘れることは罪から清められた証拠だからです。この段階では、自分に関することをすっかり忘れてしまった方がいいでしょう。そうすれば、ただ神だけを覚えることができます。第二に、罪を告白する必要がある時、神は必ずその罪をあなたに知らせてくださるからです。神ご自身があなたを吟味されます。神の吟味は、あなたが自力で行う吟味よりも、はるかに優っています。

この教えは、これより前の段階にある人には向きません。この教えは活発な人のためのものではありません。活発な状態にある人に対しては、「自力で罪を対処する」という教えが全く正しいですし、必要ですらあります。このさらに進んだ段階に達した人々に、私はお勧めします。どうかこの教えに従ってください。主との交わりに入るときも、この単純な働きを続けてください。静けさの中にとどまって、神に自由に働いてもらいなさい。なぜなら、主を最もよく受け入れられるのは主ご自身だからです。