第二〇章 消失

ガイオン夫人

祈りには献身と犠牲が含まれます。聖ヨハネによると、祈りは香であり、その煙は神のみもとに立ち昇ります。「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった」(黙示録八章三節)。

祈りは神の臨在の中で心を注ぎ出すことです。サムエルの母は、「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです」(サムエル記上一章十五節)と言いました。賢者は、ベツレヘムの馬小屋で、キリストの足もとに香をささげました。これは主に注ぎ出された祈りを意味します。

祈りとは何でしょう?祈りは愛のぬくもりです。ああ、しかし、祈りはそれ以上のものです!祈りは溶かされることです!祈りは魂を溶かされて、高く揚げられることです。このぬくもり、溶かし、高揚によって、魂は神のみもとにのぼります。魂が溶かされる時、魂から甘い香りが立ちのぼります。この香りは、魂の内にある焼き尽くす愛の炎から生じます。

これは雅歌の中に描かれています。若い乙女は言います、「王がテーブルに着いておられる間、私のナルドは香りを放ちました」(雅歌一章十二節)。このテーブルは魂の中心を意味します。神はそこに住んでおられます。私たちが主と共にそこに住むことを学ぶとき、主の神聖な臨在は魂のかたくなさを徐々に溶かしてゆきます。そして、魂のかたくなさが溶かされる時、そこから芳香が立ちのぼります。ですから、花嫁の魂が溶けるのを見て、花婿である主は言われました、「貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るこの人は誰か?」(雅歌三章六節)。

このようにして、魂は神のみもとにのぼります。これは神聖な愛の粉砕して抹消する力に自己を渡すことによります。これこそ、クリスチャンにとって必要不可欠な犠牲の状態です。この犠牲によって、魂は粉砕され、消失し、神の主権を敬うようになります。「主の御力は偉大である。主はへりくだった者からのみ栄誉をお受けになる」(集会の書三章二〇節)。自己を粉砕されることにより、私たちは神の至高の存在を認識します。私たちは自己の中に住むのをやめなければなりません。そうするなら、永遠の御言葉の霊が私たちの内に住んでくださいます。自分のいのちを放棄することによって、私たちは主の到来に道を開きます。自己に死ぬとき、主が私たちの内に生きてくださいます。

私たちは、自分のすべてをキリスト・イエスに明け渡し、自己に生きることをやめなければなりません。そうするなら、主が私たちのいのちとなってくださいます。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されています」(コロサイ人への手紙三章三節)、「熱心にわたしを求める人々よ。わたしのもとに渡って来なさい」(集会の書二一章十六節)。しかし、どのようにして神のみもとに渡るのでしょう?自己を放棄することによってです。そうするなら、私たちは主のうちに失われます。これは自己消失によってのみ可能です。自己消失こそ、「賛美と誉れと栄光と力を永遠に」(黙示録五章十三節)ただ神にのみ帰すことなのです。

この祈りは真理です。それは「霊*と真理によって神を礼拝する」(ヨハネによる福音書四章二三節)ことです。「霊*によって」のみ、私たちは真の礼拝をすることができます。なぜなら、私たちは「霊*によって」、自分の内で祈っておられる聖霊の純粋さの中に入り、自分の肉的で人間的な祈りの方法を離れるからです。また、「真理によって」のみ、私たちは真の礼拝をすることができます。なぜなら、私たちは真理によって、すべてが神から出ており、被造物からのものがなにもない領域に導かれるからです。

訳注
*ここで言っている「霊」とは、「人の霊」のことであって、「神の霊」のことではありません。人は霊・魂・体の三部分からなる存在であり(テサロニケ人への第一の手紙五章二三節)、人には「人の霊」があります。神は霊ですから、人は霊なる神に接触するために「人の霊」を用いる必要があります(ヨハネによる福音書四章二三節)。
 新約聖書の中には「霊」という言葉が頻繁に出てきます。この「霊」には、(1)神の霊を指す場合、(2)人の霊を指す場合、(3)神の霊が宿っている再生された信者の霊を指す場合、などの様々なケースがあります。したがって、読者は文脈から判断する必要があります。ヨハネによる福音書四章二三節で主が語られた「霊」は、明らかに「人の霊」のことを述べています。

親愛なる読者よ。実際、ただ二つの事実しかありません。すなわち、すべてか無かです。神はすべてです。神以外のものはすべて虚偽です。神に栄光を帰す唯一の道は、自分を失うことです。この素晴らしい働きがなされるやいなや、神が入って来られます。なぜなら、主は空っぽでなにも無いところに来ると、直ちにそれをご自身で満たされるからです。

ああ、魂がこの祈りから得る美徳と祝福を、私たちが知ってさえいれば!それを味わうなら、私たちはそれ以外のことをしようとしないでしょう。これは「高価な真珠」であり、「隠された宝」です。「だれでもそれを見いだすなら、全財産を売り払ってそれを買います」(マタイによる福音書十三章四四、四五節)。これは「生ける水の泉」であり、「そこから永遠のいのちの水がわき出ます」。これは、「霊と真理によって」(ヨハネによる福音書四章十四~二三節)神を礼拝することであり、純粋な福音の教えを全く実行することです。

イエス・キリストは、「神の国はあなたがたの内にあります」(ルカによる福音書十七章二一節)と保証しておられます。これには二つの意味があります。まず第一は、神が私たちの内で、完全に救い主、主になられるということです。そのため、私たちの内には主の支配に抵抗するものが全くなくなります。その時、私たちの内側は神の国になります。第二は、私たちが神を持つということです。至高善である神を持つ時、私たちは同時に神の国を持ちます。神の国の中には満ちあふれる喜びがあります。神の国の中で、私たちは創造の目的に達します。「神に仕えることは、治めることである」と言われています。私たちが創造されたのは、この地上の生涯で神を享受するためです。しかし、これを認識している人はほとんどいないのです!