第二二章 内側の活動

ガイオン夫人

活動には、外側の活動と内側の活動があります。外側の活動は外側に現れるものであり、感覚的なものと関係があります。外側の活動に道徳的性格はありません。しかし、例外もあります。外側の活動が人の内側深くで生じた活動の結果なら、その活動には価値があります。外側の活動の価値は、その源によって決まります。私はここで、内側の活動についてだけ話したいと思います。私たちの魂が内側に戻るとき、私たちは外側のものを離れます。

神に向かっている時、その活動の性質を変えようとするなら、私は神から遠ざかり、被造物に向かってしまうでしょう。外側のものに向かえば向かうほど、私はますます神から遠ざかり、被造物に向かうことになるでしょう。被造物に向かっている時、神に戻ろうとするなら、そのために私は必ず内側に戻らなければなりません。内側に戻れば戻るほど、私はますます神に立ち返ります。

神に完全に立ち返るまで、繰り返し内側に戻らなければなりません。すぐに神に立ち返る人もいますし、発展的段階を経て神に立ち返る人もいます。いずれにせよ、私の活動は絶えず神に戻ることでなければなりません。私は魂の機能と力を総動員して、純粋に神を求めなければなりません。「あなたの心のすべての動きを、神の聖さの中で一つにしなさい」(集会の書三〇章二四節)。「私は自分のすべての力を、あなたのために保ちます」(詩篇五九篇九節、ウルガタ訳)。私たちは罪によって、自分の心から迷い出てしまいました。神が求めておられるのは、私たちの心だけです。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ。あなたの目はわたしの道を見守れ」(箴言二三章二六節)。心を神に与えるとは、魂のすべての力を神に集中することです。これにより、私たちは神の御旨と一つになります。ですから私たちは、神に向かった最初の瞬間から、絶えず神に向かわなければなりません。

しかし、私たちの心は不安定であり、魂は外側に向かうことに慣れています。そのため、私たちはすぐに内側から逸らされてしまいます。しかし、この悪に対抗することができます。自分が内側からさまよい出てしまったことに気づいたら、神に戻る純粋な活動によって、直ちに神に戻るのです。単純かつ真実に神に戻るとき、魂は大きな影響を受けます。この影響力によって、神に完全に立ち返るまで、神に戻る活動は続きます。

同じ活動を何度も繰り返せば、それはやがて習慣になります。魂は神に戻る習慣を身につけます。以前は断続的で特別だった活動が、恒常的になります。

魂はすでに神に戻る習慣を身につけています。ですから、神に戻ろうとしてはいけません。神に戻ろうとすることは、今やとても困難です。それどころか、そのような企てによって、魂は自分のあるべき正常な状態から引き離されてしまいます。魂はすでに神に戻る習慣を実際に身につけており、確立しています。魂は恒常的な回心と恒常的な愛の中にあります。今、魂は一つの単純な活動のみによって神につながり続ける代わりに、多くのものの助けによって一つの活動を求めます。

自分の心から迷い出るたびに、私たちは再びそこに戻ります。このような単純な活動を、私たちはしばしば繰り返します。しかし、再び自分の心の中に入る時、私たちはそこに静かにとどまらなければなりません。ですから、「自分はなんの活動もするべきではない」と思うのは誤りです。私たちは絶えず活動しているのです。しかし、私たちの活動は自分の霊的成長にしたがったものでなければなりません

最も霊的な人々でさえ、これをよく理解しているわけではありません。今、ある活動は一時的であり、他の活動は継続的です。また、ある活動は外面的であり、他の活動は内面的です。すべての人が一時的な外面的活動をすることができるわけではありません。また、すべての人が継続的な内面的活動をするのに適した状態にあるわけではありません。一時的な外面的活動は、外側に迷い出てしまった人に向いています。外側に向かえば向かうほど、内側に向かうためにますます多くの力を費やさなければなりません。もし外側に向かうことがわずかなら、内側に戻ることもわずかですみます。

この継続的な活動によって、魂は全く神に立ち返ります。この活動は常に行われています。ですから、この活動を更新する必要があるのは、それがなんらかの理由で中断された時だけです。このように神に向かっている魂は、愛のうちにあり、愛のうちにとどまります。「愛のうちにとどまる者は、神のうちにとどまります」(ヨハネ第一の手紙四章十六節)。この時、魂は恒常的な活動の中にあり、その中で安息します。しかし、魂は怠けているわけではありません。なぜなら、間断ない活動が魂の中に存在しているからです。その活動は神の中に沈む甘い活動です。神の引き寄せる力は、ますます強くなります。魂は、この力強い引き寄せに従って、愛の中にとどまります。そして、ますます深く、神の愛の中に沈んでいきます。この内側の活動は、魂が最初に神に向かい始めた頃の活動よりも、はるかに強力です。内側の活動は、ますます強力で、活発で、効果的になっていきます。

今、魂は深く活発に活動しており、全く神に明け渡されています。このような魂は、この活動に気づきません。なぜなら、この活動は直接内側に向かう活動であって、外面的な活動ではないからです。「私はなんの活動もしていません」と言う人がいるのは、このためです。彼らは知らず知らずのうちに自分の内側の状態を誤解します。実は、彼らは以前よりも活動しているのです。より正確には、「自分は活動を感じていないだけであって、活動していないわけではない」と言うべきでしょう。彼らが自分で活動していないのは事実です。彼らは主に引き寄せられており、その引き寄せに従っています。彼らは愛の重さによって沈みます。人が無限の海の中に落ちるなら、その人は永久に深く沈んでいくでしょう。彼は自分が沈んでいっていることに気づきません。しかし実際は、知覚できないほどの速さで深みに向かって沈んでいっているのです。

ですから、「自分は活動していない」と言うのは誤りです。皆、活動しています。しかし、活動の仕方は人それぞれです。ここで、私たちは間違いを犯しがちです。活動しなければならないことを知っている人は、知覚できる外面的な活動を願いがちです。しかし、それではいけません。感覚的な活動は初信者のためです。感覚的でない経験は、さらに進んだ状態にある信者のためです。感覚的な活動にとどまってはいけません。なぜなら、それにはほとんど益がないからです。感覚的な活動にとどまるなら、私たちは非感覚的な活動を失うでしょう。しかし、感覚的な活動を経ずに、いきなり非感覚的な活動をしようとするのもまた、誤りです。

「すべてのことには時がある」(伝道の書三章一節)。魂が経過する状態は、開始、発展、完成からなります。最初の段階にとどまるのは悲しむべき誤りです。発展の段階を経ずに、完成に至ることはできません。最初、私たちは苦労して働きます。しかし最後に、自分の働きの実を刈り取ります。

船が港にある時、船乗りたちは船を港から出すために全力を尽くさなければなりません。しかし、一度船が海に出てしまえば、船乗りたちは自分の好きな方向に容易に船を向かわせることができます。同じことが魂にも言えます。最初、魂は罪と被造物の中にあります。魂を解放するには、何度も努力を繰り返さなくてはなりません。魂を束縛している縄から解かれなければなりません。忠実に、力強く、努力し続けるなら、魂は少しずつ自己の港を離れ、それを後にして、内側の慕わしい港に向かいます。

船がこのように出発する時、それはさらに外洋に向かって進み、海岸を後にします。船が陸から離れれば離れるほど、船はますます容易に進みます。そしてついに、帆を使えるようになります。今、船は航路を疾走します。もはや、オール(櫂)は役に立ちません。オールは不要です。今、操縦士は何をするのでしょう?操縦士は帆を広げ、舵を握って満足します。

「帆を広げること」は、単純な祈りで自分を神の御前に置き、神の霊によって動かされることです。「舵を握ること」は、心を穏やかに呼び戻し、神の霊の導きに従いつつ、自分の心を正しい航路からそれないように保つことです。そよ風が少しずつ帆を満たして船を進ませるように、神は少しずつ私たちの心を獲得されます。順風の時、操縦士と船乗りたちは仕事を休みます。今、船は進んで行きますが、乗組員は全く疲れません!彼らは船を風に任せて安息します。以前、彼らは全力を尽くして長時間努力しても、少ししか進めませんでした。しかし今、彼らは一時間の間に大いに前進します。今、もしオールを使おうとするなら、かえって船のスピードを落とし、疲労を招くだけです。

これが私たちの取るべき内なる道です。もしこの道を取るなら、神の力によって私たちは短期間で大いに前進するでしょう。自分で努力を繰り返す場合よりも、遙かに前進するでしょう。この道を試す人はだれでも、この道が世界で最も容易な道であることを知るでしょう。

逆風と嵐の時、船を固定するために、私たちは海に錨を下ろさなければなりません。「錨を下ろす」とは、ひたすら神に信頼し、神の慈愛に望みを置くことです。嵐がおさまって順風になるまで、私たちは忍耐して待ちます。ダビデはこのように行動しました。「私は忍耐深く主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞かれた」(詩篇四〇篇一節)。ですから、私たちは神の導きに自分を全く明け渡して、神の霊に従わなければなりません。