勝利者誌 一九二九年 十巻 一月号 掲載。
黙示録十二章十一節に、「勝利者の証し」に関する、私たちにとって最も馴染み深い、尊い御言葉があります。私たちはしばしば、この偉大な御言葉の一部を、一緒に復唱してきました。「小羊の血と、彼らの証しの言葉」は、急速に迫りつつある恐るべき試練の時代にキリストを告白する受難者のために、「悪魔ともサタンとも呼ばれている龍、あの年を経た蛇」に対する輝かしい勝利を保証します。
しかし、そのような日が来るまで、このメッセージの霊的意義にあずかるのを先送りにする必要はありません。この大敵は同じです。今日、霊的戦いで彼の敵意は私たちに向けられています。兄弟たちを訴える者、彼らに反対する者の燃える憤りは、キリストの十字架とその交わりとを証しする、神のすべての信実な僕にとって、大いなる現実です。しかし、敵が同じである以上、現在の戦いの中にある神の僕たちに対する備えも同様に同じなのです。小羊の血と、神の御前における、そして私たちの贖いにおける、キリストの尊い血の決定的価値に対する私たちの証しの言葉とにより、私たちは常に勝利に導かれるのです。
しかし、この天の宣言には別の言葉も述べられており、それを多くのとき私たちは見落としてしまいます。それは、「彼らは死に至るまで自分の命(ギリシャ語ではプシュケ、psuche、魂の命)を愛さなかった。それゆえ(ギリシャ語ではディア、dia、このゆえに)天よ喜べ……」というこの言葉です。ウェイマス訳では、「彼らは自分の命を軽んじて、死からも尻込みしなかった」となっています。彼らは死に下ることによって打ち勝ちました。このように使徒に与えられたこの幻では、それは疑いなく肉体の死についての幻でした。しかし、ここにはさらに深い意義があります。キリストのために死んで証しする前に、キリストの死の交わりにあずかっていたのです。彼らは小羊の血のゆえに打ち勝ちました。それが第一でしたし、常に第一でなければなりません。この尊い血は恥と苦難を物語ります。これは、十字架上で神の御子が世の罪を担い去られた時の、彼の魂の苦しみを証しします。しかし、それはまた、私たちとのキリストの関係と一体化についても物語っています。神の永遠の御子は、カルバリを目ざして人の子となり、永遠の御霊を通してご自身をささげられました(へブル九・十四)。彼が私たちと同じになってくださったからには、私たちも彼と同じにならなければなりません。
典型的理解によると、私たちがキリストにあってついている地位はきわめて素晴らしいです。私たちは世の基が据えられる前から彼にあって選ばれていました(エペソ一・四)。世の基が据えられる前、私たちは影も形もありませんでしたが、神の予知と予定によって選ばれたのです(エペソ一・四、五、六、ローマ八・二八~二九も見よ)。何の目的のためでしょう?「愛の中で、私たちが御前に聖く責められるところのない者になるため(中略)彼の恵みの栄光の賛美となるためです」。ですから、私たちは世の基が据えられる前に彼によって贖われていたのです。つまり、神の御旨とみこころにおいてです(一ペテロ一・十九~二〇)。そして今や、私たちは彼にあって神の御座の前に現されようとしています(へブル九・二四)。
経験的理解によると、私たちがキリストにあってついている地位はやはり素晴らしいです。永遠の過去、私たちはそのようにはその地位にありませんでした。おそらく私たちが、私たちの勝利の主イエスにあってついている自分の地位のこの偉大な特権を、以前よりもよく、実際に経験的に理解したのは、つい昨日のことかもしれません。また、彼の死による特権についても、そうかもしれません。自己を愛する古い肉の命のために神が用意された場所はただ一つです。その場所はカルバリです。「彼らは自分の命を軽んじた」。どうして私たちは自分の命を保っているのでしょう?それを愛しているのでしょうか?それに十字架の死の判決を免れさせているのでしょうか?もしそうなら、その判決はベーマすなわちキリストの裁きの御座で究極的に執行されることになります。自分の古い肉の命をキリストと共に経験的に十字架につけるのを差し控えるなら、その差し控えたものは、あの御座の白光と熱によって明らかにされて、燃やされてしまいます。そして、これは私たちにとって永遠の損失と恥になります。
しかし、カルバリは常に勝利の復活という結果になります。ペン-ルイス夫人がよく強調していたことを決して忘れないようにしましょう。それは賢明なことであり、真実です。「復活の命が私たちに分与されるのは、私たちがキリストとの死による合一に拠り頼む時だけです」。ローマ六章に見られるように、カルバリでキリストと経験的に一体化されるなら、その後、間違った判断や罪定めを被って、自分にとって真に大事な多くのものから断ち切られたとしても、それが一体何だというのでしょう?私たちにとって大事な唯一のことは、私たちの主との死における合一を維持してそれを証しすることです。二コリント四・十を見てください。パウロはエペソで厳しい戦いの中にありました。それは、彼を襲撃しようと堅く決意している、隠れた暗闇の勢力に対するものでした(使徒十九)。ピリピに行ってから、彼はこのコリント人への第二の手紙を執筆しました。この章で彼はまず、「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光」について記します。これに続いて彼は、彼の主であるキリスト・イエスの全能かつ十全な恵みに対する、卓越した証しを述べます。次に十節に至ります、「常に主イエスの死を身に帯びています」。もしくは、「死に渡す効力」、文字どおりには、「主イエスの磔殺もしくは殺す効力」です。この節で「死」と訳されているギリシャ語はネクロシス(nekrosis)です。ディーン・アルフォードは、この言葉は新約聖書に二回しか見られないことを、私たちに思い起こさせます。この箇所とローマ四・十九です。それは死ぬ過程を意味します。キリストは私の体の中にある罪に対して、日毎にご自身の死を死んでくださいます。そしてさらに、私の体の中にご自身の復活の命(ゾーエ、zoe)を注ぎ込んでくださいます。それは、これらの肢体が、罪に対して死に、ますます義の道具となって、彼の幸いな奉仕の中で聖潔へと至るためです。
「彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」。こうして彼らは、そして私たちは――命から死へと移るのではなく、この箇所のきわめて深い真実な意味によると――勝利から、私たちの主との死による合一を経て、彼との御座における合一に永遠に移ります。「それゆえ――このゆえに――天よ喜びなさい、また天に住む者たちも!」。