抜き身の剣を持つキリスト

J. S. ホールデン

勝利者誌 一九一一年 三巻 三月号 掲載。講演者による校正はされていません。

「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思ってはなりません。平和ではなく、剣をもたらすために来たのです。」――マタイ十・三四。

「わたしが来たのは平和ではなく、剣をもたらすためです」というこの御言葉は、イエス・キリストに関する私たちの通念とは真逆なので、「これは矛盾している」「これはキリストがご自身の務めに関して通常述べておられる考えではない」と私たちは言いがちです。しかし、こうした言葉でさえ、イエス・キリストのこの御言葉の核心に入り込む助けになります。

キリストは平和の君です。彼がお生まれになった時、天使たちは「地に平和がありますように!」と歌いました。霊感を受けた著者は、「彼は私たちの平和です」と述べています。イエスご自身、「わたしの平和をあなたたちに与えます!」と語られました。私はこれをすっかり忘れたわけではありませんが、それでも、このような矛盾らしき言葉のゆえに、イエス・キリストは首尾一貫しておられない、と判断することほど愚かなことはない、と述べたいと思います。

この世界、社会、個人の心の中のどれであれ、罪が敵である所では、この剣の結果としての平和以外に、永続する真の恒久不変の平和はありえません――戦いによる平和、攻撃的・破壊的な敵に対する勝利による平和以外にありえません。罪を滅ぼすためにキリストは来られたのであり、悪魔のわざを無に帰すために彼は現れました。人々の心と生活を荒廃させる罪の働きをすべて思い出す時、キリストが剣をもたらしていなければ、あなたや私のような人々の救い主にはなっておられなかっただろうことがわかります!抜き身の剣をもたらさないかぎり、彼は人々のための救い主にはなっておられなかったでしょう。人々は罪で呪われており、その生活は罪で暗くなり、自分自身のわがままや罪で絡みつかれています。彼の剣は鋭くて強力であり、魂と霊を切り分けて、心の思いと意図を識別しさえします。彼が抜き身の剣を持つキリストでなければ、キリストはキリストではなかったでしょう!

次のことも述べたいと思います。この剣はあらゆる形の罪と、そのあらゆる結果に対して戦います。罪のあらゆる要因や結果に対して戦います。もし私が自分自身の生活の中でこの剣を経験していなかったら、どうなっていたでしょう。敵を対処し、ご自身に敵対するものを対処し、私の中にある聖くないものや無価値なものを対処する、主のこの剣を経験していなかったら、どうなっていたでしょう?その場合、私がキリストを知ることは全くなかったでしょう!これは厳粛な事実です。もしあなたがこの剣を知らないなら、それは救い主を知らないからです。というのは、「わたしが来たのは平和ではなく、剣をもたらすため」だからです。つまり、平和は最初のものではなく、最後のものなのです。平和は最初に経験するものではなく、最後に経験するものです。平和は魂におけるキリストの御業の初めではなく、目標です。

さて、もちろん、これは比喩です。キリストの弟子の一人が御言葉をそのまま受け取って剣を抜いた時、キリストは最後の癒しの力を使って、僕のペテロが彼を守ろうとして軽率に行動した結果できた傷を癒し、「あなたの剣をさやに収めなさい。剣で打つ者は剣で滅びるからです」と言われました。この根拠に基づいて、イエス・キリストのこれらの御言葉は比喩である、と私は述べています――キリストを心と生活で理解する結果の比喩なのです。

キリストは何者でいかなる方なのか、人生における彼の意図は何か、神の救いは何を意味するのか、インマヌエルなる方の偉大な使命は何を意味するのかを、人の魂が理解し始める時、これを理解した結果必ずわかることは、キリストが来られたのは平和ではなくをもたらすためであるということです。それは鋭く素早い鋭利な剣の刃であり、個人においても、社会全体においても、切って征服します。

キリストを知る知識から生じる最も正当な結果は、人々が新しい歌を歌うことを教わることだけでなく、むしろ、新しい戦いに従事することを教わることです。福音の知らせは慰めの知らせであるだけでなく、戦いに召す知らせでもあります。人々を楽にするだけでなく、辛く厳しい状況に遭わせるものでもあります。

私たちは彼のことを、優しい同情に満ちた方、微笑んでいる方、幼子たちを両腕の中に集められた方、悲しんでいる者に触れて、傷ついた葦や砕かれた心を包まれた方と思っています。打ち砕かれた生活を優しく世話された方と思っています。そう思うのは至極当然です。こうした素晴らしい性格についていくら考えても考え尽くせません。しかし、キリストの優しさに溺れるあまり、罪を些細な問題と見なし始めかねないおそれがあるのです!イエス・キリストの優しさがすっかり麻薬のようになって、私たちの道徳的感覚、私たちの心、私たちの視力を鈍らせ、ついには、結局のところ罪はさほど致命的ではない、あまり恐ろしくもおぞましくもない、なぜなら、キリストは常に赦してくださり、常に忍耐強く、常に優しく、常に優しい裁きを下してくださるのだから、と考え始める大きな危険があるのです。

私たちは平和を説いてもらう必要はありません。私たちはみな、平和をもたらすキリストの使命を知っています。神に感謝すべきことに、優しい面があります。しかし、福音の奉仕者たちがそうしてきたように、それを強調した後、結局のところどのような結果になったでしょう?実のところ、私たちの生活はともするとなおざりにされ、不注意で無神経なものになりがちなのではないでしょうか。立ち向かう力に欠けているのではないでしょうか。それというのも、罪は結局のところ神に対する反逆ではない、それはたんなる偶発事故であってあまり大したことではない、と心の中で感じているせいなのです。

新約聖書はキリストの生活の優しい面をより強調していますが、それでも、今日、神に栄光を帰すような類の生活を生み出してきませんでした。昔の人々が持っていたような罪が、私たちにはありません。私たちは罪を憎んでいませんし、その示唆や接近を恐れてもいません。私たちはある程度、昔の清教徒精神を失ってしまいました。清教徒は偏狭だと、あなたは言うかもしれません!清教徒(Puritan)という言葉は、確かに、その語根は「清(pure)」であり、「この望みを持つ者はみな」――「清教徒」になります――「彼が清くあられるように、自分自身を清くします」。私たちはこれらのことを失ってしまいました。なぜでしょう?その大きな理由は、キリストが来られたのは、人々を幸福にするためではなく、聖くするためであり、平和ではなく剣をもたらすためであることを、私たちが理解しそこなっていたからです。

さて、愛する人よ、この御言葉が成就される三つの方面について、私と一緒に考えてもらいたいと思います。

第一に、人がキリストを知り始める時、キリストとその愛と恵みを最初に理解し始める時、それはその生活にどのような効力を及ぼすのでしょうか?貫く剣の効力です。あなた自身の経験を思い返してください。キリストを知り始めた結果、どのような影響があったでしょうか?あなたがどのように彼を知るようになったのかについては、私は気にしません。彼には人を新しくする数千の方法があります。喜びの中で、悲しみの中で、大群衆の中で、孤独の中で、愛によって、病によって、賜物の与奪によって、御言葉によって、あるいは御言葉を使わずに、彼は人を新しくされます。どのように彼が臨まれたとしても、私たちはかつてなかったほど彼を認識し始めます。その結果は何でしょう?私はあなたを証人として呼びますが、これほど優しい愛と、これほど恵み深い戒めに対して、これほど長く罪を犯してきたことを理解した時、私たちは悲しみ、後悔し、良心の呵責にさいなまれたのではないでしょうか?私たちがキリストを知り始めた時、それはまさに私たちの心をむき出しにする剣のようではなかったでしょうか!私たちはそれを認罪、悔い改め、自責の念と呼びました。それをあなたがどう呼ぼうと、それはまさに神の御子の刺し貫く剣だったのです。

彼はこれ以外の形で私たちに臨むことはできませんでした。なぜなら、私たちの内側には滅ぼされるべきものがたくさんあるからです!キリストを知るようになった時、私たちは突然、次の事実に目覚めました。すなわち、自分の中にある卑しい愛、聖くない想像、自分の生活を支配してなにものも抑制できない習慣、という事実です。私たちは理解しました。キリストが取り得た最も優しい道は、剣を携えて来ることだったのです!キリストを知ることは、それ以降ずっと勝利を意味するものでしたし、これらの束縛からの解放を意味するものでした。彼の刃による切断は、私たちの内なる存在においてなされます。

彼をさらによく知るようになるとき、私たちは彼が、「もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい!」といったことを言われるのを耳にします。最初、彼がナザレやベタニヤやカルバリの恵み深い人であることが、私たちにはほとんどわかりません。しかし後になると、彼は私たちを対処する最も優しく、最も真実な方法を取っておられることがわかるようになります。「彼が来たのは平和ではなく剣をもたらすため」であることを理解するようになるのです。

私たちが彼を知り始めた時、これがその知識の結果でした。彼をさらによく知って、彼は生活の偉大な理想であることを理解するようになった時、そのとき私たちは気づいたのです、剣で私たちの敵を排除して、私たちを罪の結果と罪の力から解放する方の到来に。その時、キリストは模範以上の方であることを私たちは理解しました。福音の体系では、キリストは生活の模範であり、行動規範です。彼の生活は私の生活の尺度であり、それによって生活の理想を立てるべき標準です。私は彼に従い、彼の生活を複製し、彼が教えられたことを行い、彼のように人々の間で生き、神に対して生きなければなりません。これを理解し始める時、それは剣の一突きではないでしょうか?キリストに似た者でなければならないことを理解する時、大きな喜びがはじけたりはしません。私の自己満足を探り出して、私の内なる存在を貫く鋭い一突きです!自分自身の貧弱な行動と性格だけでなく、この理想をも見た以上、私は二度と決して満足できません。私は彼を、神の高い理想を見ました。新たな悲しみ、以前経験したどんな苦悩よりも深い苦悩を感じるようになります。自分自身の弱さを知るようになり、自分自身の内なる状態に満足できなくなったからです。なぜでしょう?キリストが抜き身の剣を携えて来られたからです。

事実、私たちがこのようにキリストを知るようになる時、彼は私たちの存在中の眠れる道徳的力をすべて呼び覚まされます。彼はそれらをまどろみから呼び覚まされます。そして、私たちの心は、一方において神の召しと、他方において自分の弱さと無力さとの間の戦場になります。

決して誤解しないでください。この戦いが終わって、停戦の音が鳴り響くのは、私たちが麗しい王を見る時まで決してありません。キリストが抜き身の剣を携えて彼の栄光の中で再来されるのを見る時まで決してありません。その時、キリストは彼の無数の僕たちに囲まれ、ももには剣を帯び、「打ち勝って、征服する神の御言葉」という名が記されています。まさに、まさに、これは剣です。愛する人よ、あなたも私もこれを、彼ご自身の御言葉と私たちの経験の光に照らして解釈した方がいいでしょう。

私が話している人の中には次のような人がいるのではないかと思います。すなわち、キリストを知るようになり、ますますよく彼を知るようになったがゆえに、以前以上に不平・不満を覚えるようになった、その理由を理解していない人々です。神がこのことや、あのことや、他のことをされる理由を、彼らは理解していません。キリストを知るようになったがゆえに、自分の魂の中で絶えず鳴り響いている不協和音の、その理由を彼らは理解していません!その理由は次のようなものです。すなわち、抜き身の剣を持つキリストがあなたに臨まれたのです。そして、あなたの内なる不満、葛藤、戦いはみな、あなたの関係、あなたが彼との間に持っている救いの関係の証拠なのです。落胆するよりはむしろ、彼が剣を鞘に収めなかったことに感謝しなさい。あなたは彼のものなのです。それは、あなたが幸福を感じているからでも、絶えず歌っていたいと感じているからでもありません――そうではなく、あなたの心の中に、戦いと勝利、聖さと成長の衝動があるからなのです。イエス・キリストの剣がそれをそこに生じさせたのです。

あなたが最初にキリストを理解した時、それは剣の一突きのようでした。また、あなたが二回目にキリストを生活の模範、自分が似るべき方として理解した時、それは、あなたの存在のまさに中心を貫く剣の一突きのようでした。そうであるからには、あなたがキリストを自分の主人として理解する時は、どれほどなおさらそうであることでしょう?

彼は言われました、「わたしが来たのは、自分の家族の者たちが、その人の敵となるためです。わたしが来たのは、父を子供と、子供を父と、仲たがいさせるためです」。キリストを主人として、証しするべき方として、人々の前で告白すべき方として知る、この新しい豊かな知識は、それを妨げる生活関係に対する剣の一突きのようなものです。そして、それはなにものにもまして深くまで及びます。彼はまた言われました、「わたしよりも自分自身の命を愛する者は、わたしの弟子になることはできません」。わたしよりもこの世の事柄を愛する者は、わたしの弟子になることはできません。十字架を肩に負ってわたしに従わない者は、わたしの弟子になることはできません。ああ、これはなんと真実であることでしょう。

あなたたちの中には、証しをすることによって自分の生活に問題が生じるのを経験し始めた人もいるでしょう。かつてあなたは友人たちの間で大いに人気があったので、付き合うのがきわめて望ましい者としての待遇を受けてきました。事務所で、作業場で、自分の家で、自分の友人たちの界隈で、難なくうまくやっていけました。しかし、あなたがキリストのために立ち始めた時から、状況は一変しました。なぜでしょう?あなたがキリストのために証しし始めたからです――これに尽きます。

つまり、これは、あなたがキリストについて話し始めたからではなく、あなたには新しい人生計画があって、自分の生活を全く新しい基本計画に基づいて建て上げているからなのです。あなたがキリストの指示どおりに建て上げている事実こそ、彼のことを全く考えずに建て上げている人々を罪に定めるものなのです。あなたはかつてしていたことを秘密裏に行うことすら拒否します。かつて耽っていたことに近づくことを拒否します。あなたの人生の潮流は一転して、その作用する方向も変わりました。そのため、人々はあなたをキリストと同一視し始めました。キリストを彼らは欲しません。そして、彼のためにあなたは虐待を受けているのです。ああ!これは剣です。

単刀直入に話すことを許してください――これを皮肉ったり、落胆したり、失望したり、あなたに痛みと悲しみをもたらしている人々について悪口を言ったりしないでください。彼らを蔑んだり、軽蔑して見下したりしないでください。あなたが感じている刃は彼らの剣ではなく、イエス・キリストの剣なのです!剣をもたらすために来た方が、それをあなたの生活にもたらされたのです。それは、あなたが虐待されているという、まさにその事実によってです。それは厳しいものであることに、あなたは気づきつつあります。しかし、この世があなたを威圧しているまさにこの事実こそ、あなたは救いをもたらす神の御子イエスとの接触の中にあるという事実の一部であることがわかるようになります。

これに関してなんと多くの事例をあげられることでしょう。その事例の人々はイエス・キリストが自分の主人であることを見いだした人々であり、この剣の切り込みを感じた人々です――この剣は彼らを深く切り込むので、彼らはたじろぎます。この剣は、言葉で言い表せないほど的確に優しく、諸々の関係の中に切り込みます!また、イエス・キリストのこの剣を通して、神の真の祝福と、心の満足と、満ち満ちた愛が臨むのを、どれほど多くの人々が経験してきたことでしょう。自分の主人である方のために証しする生活を送り始めて、自分の証しのために困難、損失、孤独を感じてきた人が、あなたたちの中にだれかいるなら、私はあなたのために祈ります。キリストが剣を抜く時、彼はそれをあなたを守るために、あなたの最高の勝利と祝福のために抜いてくださることを、どうか思い出しますように。

さらに、彼のあの剣はカルバリの炎の中で鍛造されました。それは愛の剣です!私のためのキリストのこの剣を、彼は大きな代価を払って、私の生活の中に、私の罪との戦いの中にもたらしてくださいました!それは愛の剣です。キリストの愛はそれを私の生活の中にもたらして、私の自己満足に切り込み、私の弱さと無価値さを私に知らせますが、それはさらに彼を知り続けるよう私を鼓舞するためです。彼が私を愛しているからこそ、彼は私をこのような状況――彼のために証しすることによって、剣や、世人からの反対や、その他のものがもたらされる状況――の中に置かれるのです。抜き身の剣を持つ手の背後には、実際にはキリストの愛があるのです。

このようにキリストを自分の主として知るようになる時、そのとき私たちは、彼が世にある罪と真に戦っておられることを学びます。そして、彼は私たちの生活のような生活を取り上げて、それらを世にある悪の勢力との戦いのための剣とされることを学びます。

剣となるには、私たちはなんとあわれな人々でしょう!私たちの生活は切れ味が悪く、刃がありません。彼の力強い御手が握るには、強さに欠けており、力もありません。それでも、ああ、弱くて動揺している私たちがダマスカス鋼の刃になるとは、なんという変化でしょう。見せかけではなく、鋭い、輝く、鋭利な、神の御子と共に勝利する刃です!これこそ究極的なキリストの福音であると、私は信じています。私は祈ります。どうかあなたが彼とそれとに応じますように。彼の剣に対して戦ってはなりません、また、キリストのための剣となることから退いてはなりません。私たち自身の愛するこの土地の暗黒の場所や、彼方の暗闇の大陸では、キリストの御名は知られていません。ああ!キリストの剣となることから退かないでください。その時、この御言葉が私たちの心の中で不滅のものとなります――「わたしが来たのは平和ではなく剣をもたらすためです」。