二つの力の必要性

エバン・ホプキンス

「勝利者」誌 一九一一年 第三巻 一〇月号より

私たちは二つの力を必要とします。妨げを取り除く力と、実を結ぶ力です。私たちを悪から分離する力と、私たちを善なる者に造り変える力です。

この二重の力はキリストの内に見いだされます。キリストの死の力と、キリストの命の力があります。私たちがこの二番目の力によって生きるようになったからといって、一番目の力に別れを告げることはありません。そうです、キリストの復活の力を知る条件は「キリストの死に同形化される」ことなのです(ピリピ三・一〇)。

真の命、罪に打ち勝ち、「実を結ぶのをやめない」命は、死から生じる命です。

使徒の次の言葉には深い霊的意味がありますが、これを最初に読む時、私たちには理解できません。「常に主イエスの死をこの身に負っていますが」――あるいは、死に渡されていますが――「それはイエスの命もまた私たちの体に現されるためです」(二コリント四・一〇)。

ここで、死は命の条件として私たちの前に示されています。この命が継続的に現されるかどうかは、この死に常に同形化されるかどうかにかかっています。

死は分離を意味し、命は合一を意味します。罪に対して死なれたキリストの死に共鳴すればするほど、私たちは罪の働きや汚れからますます徹底的に分離されます。これは罪を犯すことからの分離であるだけでなく、古い自己の命からの分離でもあります。キリストの命の現れを妨げる大きな妨げは、自己の命の存在と活動です。この自己の命は断ち切られて、除かれる必要があります。「主イエスの死に渡すこと」以外の何ものも、これを成し遂げることはできません。キリストの死に同形化されることは、この古い命の活動、動機、目的といった古い源から、心と知性が分離されることを意味します。

この「同形化」は神の命が現されるための条件です。すでに見たように、「イエスの命」は、それをますます生きたものとするために、私たちの力や努力を必要としません。神が要求されるのはただ、私たちがこれらの条件を満たすことだけです。これらの条件はこの妨げを取り除く上で必要不可欠です。これらの条件に従うなら、ただちに命が自然に生じます。それには何の無理も努力も必要ありません。私たち自身の努力でこの命を直接生じさせたり、強めたりすることはできませんが、神によって定められたこれらの条件に従うことにより、私たちは命の現れを間接的に増し加えることができるのです。