第一章 罪

エバン・ホプキンス

「罪は律法を破ることです。」(一ヨハ三・四)

「不義はすべて罪です。」(一ヨハ五・七)

「ですから、あなたたちの死すべき体を罪に支配させて、その情欲に従わせてはなりません。」(ロマ六・一二)

「私の不義をことごとく洗い去り、私の罪から私を清めて下さい。」(詩五一・二)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出して、良いわざに熱心な特別な民を、ご自身のものとして清めるためです。」(テト二・一四)

「私の魂を癒して下さい。私はあなたに対して罪を犯したからです。」(詩四一・四)

「私は彼らの背きを癒そう。」(ホセ一四・四)

「あなたたちのよく知っているとおり、あなたたちが先祖から伝統的に受け継いだあなたたちの空しい生活様式から贖われたのは、銀や金などの朽ちるものによるのではなく、傷もしみもない小羊の血のような、キリストの尊い血によります。」(一ペテ一・一八~一九)

「あなたたちを躓きから守り、あなたたちを傷のない者として、大いなる喜びと共にご自身の栄光の前に立たせることのできる方に、すなわち、唯一の知恵ある神・私たちの救い主に、栄光と威厳、主権と力が、今も、永遠に至るまでもありますように。アーメン。」(ユダ二四~二五)

「あらゆる異端の根源は、罪に関する誤った見解にある」と言われてきた。贖いに関するわれわれの考えは、その贖いを必要ならしめた悪に関するわれわれの考えによってほとんど決まる。疑いなく、逆もまた正しい。しかし、あの無限の犠牲に関する全き認識に向かって立ち上がりたければ、われわれは罪の真の性質を、できるだけ完全に、理解しようとしなければならない。

では、罪とは何か?悪の存在はあまりにも行き渡っていて普遍的なので、われわれはそれを、われわれの人間性から不可分なものと見なしがちである。しかし、罪はわれわれの人性を構成する本質的要素ではない。罪はもともと人の中に無かったこと、また、最終的に人が栄化されるときも人の中には無いことを、われわれは知っている。また、罪は人なるキリスト・イエスのうちに存在しない。しかしそれにもかかわらず、悪の存在以上にわれわれが自覚している事実は一つもない。われわれは至る所で罪に出くわす。すべての人がその荒廃をもたらす影響力を見ているし、感じている。罪はたんなる想像の産物ではない。恐ろしい現実である。それは曖昧模糊とした陰ではない。現実の特別な悪である。

またわれわれは、罪をわれわれの道徳的発展に必要なものと見なすべきではない。われわれの益となるよう罪を支配できること、罪をわれわれの霊的訓練に役立てられることは、疑いなく真実である。しかし罪は、われわれの道徳的訓練や霊的成長において、必要不可欠な要素ではない。われわれは恵みが増し加わるために罪を必要としない。知識において前進したり、謙遜において成長したりするのに、われわれは罪の力の下にいる必要はないし、その染みによって汚される必要もない。

罪の真の性質を学ぶために、われわれは罪を直視しなければならない。罪と自分の関係だけでなく、罪と神との関係をも見なければならない。われわれは神の無限の正義・聖さ・愛と罪の関係を凝視しなければならない。この光の中で初めて、われわれはその実際の性格を理解するのである。

さらに、われわれは罪を多面的に考えなければならない。罪は途方もない悪なので、様々な観点から見ない限り、その真の性質に関する適切な観念を形成することはできない。罪には多くの面がある。

しかし、どの側面から罪について考えるにせよ、その各面の特性は、神が罪のために備えられた治療法の中にある、それに適切に対応するものによって解決されることが分かるだろう。

人類に対する罪の影響を認識することと、神に対する反逆としてのその本質的性格を理解することとは、別の問題である。人は罪を通して「傷づき台無しに」なっただけでなく、神から遠ざかった。人は神に積極的に敵対する姿勢を取った。それゆえ、罪は憐みを誘うもの、つまりたんなる不幸であるだけでなく、刑罰に値するものでもある。なぜなら、罪は神の純粋さ、善良さ、威光に対する反逆だからである。

もし罪が不法でなければ、いけにえ無しに罪を赦す神の憐みについて思い描くこともできただろう。しかし、いけにえの必要性は、罪は神の律法を破ることであることを、われわれに教える。この必要性は旧約聖書の中に紛れもなく明確に示されており、新約聖書でも同じくらい強調されている。

「罪は律法を破ることです」(一ヨハ三・四)。われわれは律法という言葉を次のように理解しなければならない。「律法という言葉は旧約聖書のモーセ律法だけでなく、新約聖書のキリストにある律法をも意味する。キリストはそれを言葉で説明し、生活の中で示された。この律法は人の心の中に記されていて、人に特別な指示を与える。それは複雑な戒め全体を含む」(ピアソン)。

神が御言葉の中で啓示されたことを人は内側で感じている――罪には神の憐み以上のものが必要なことを感じている。この点で、聖書の教理と人の心の証しとは一つである。

咎には償い以上のものが必要であることを、人の本性は直感的に人に教える。しかし、人は放っておかれると、自分が考案した方法でこの償いをしようとする過ちに陥る。これがすべての異教のいけにえの歴史である。

罪は不法である。なぜなら、罪は神の主権に対する反逆であり、神の性質に反するものであり、神の聖さに対する侮辱だからである。罪は律法と関係している――理性の律法、良心の律法、適切な律法だけでなく、神の律法とも関係している。罪を本質的に構成しているのは、神の御旨との一致の欠如である。律法はこれを啓示する。罪は不法――律法を破ることである。それゆえ、律法は罪の罪深さを啓示する。「歪んだ線の歪みは、それだけで分かるかもしれない。しかし、直線という完全な標準と比べると、それはいっそう明らかになる」。

われわれの罪という咎には何らかの修復が必要なことを、良心はわれわれに告げる。他方、ただ啓示だけが、その修復をなしうる方法を示せる。そこにおいてのみ、どんないけにえが人間の咎を贖うのに十分なのかをわれわれは学ぶ。罪に対するこの見解は、十字架上のキリストの死の意味の理解へとわれわれを導く。それは有罪判決を受けた犯罪者の死だった。「彼は私たちの咎のために傷つけられ、私たちの不義のために砕かれた」(イザ五三・五)。彼は死なれた。「義しい方が、義しくない人のために死なれた」(一ペテ三・一八)。

違反としての、神に対する犯罪としての罪からの解放は、それゆえ、こういうことである――すなわち、キリストの贖いの死により、罪は「取り除かれ」、「まるで罪が無かったかのように」なることである。「地や天のいかなる力も、なされたことをなされなかったことにすることはできない。唯一想像可能なありえる例外は、まるで一度もなされなかったかのようになること、つまり、その悪い影響がすべて除去・抹消されることであり、また、罪が償いによって無効化されることである」(モズレー)。犯罪としての罪からの解放にあずかることは、現在の特権である。それは、十字架上のキリストの死を見て救われることにより、われわれが経験する自由の第一の面である。

罪を犯すことについて話す時、もちろん、それは行いを意味する。しかし、行いという言葉は外面的なものだけを意味するのではなく、純粋に内面的なものをも意味する。違反を、それゆえ、神の律法を外面的に破ることだけに制限してはならない。それは、神の御思いと御性格に反する、魂のすべての内的行為を含む。

ローマ六章が特に考察している罪の側面は、支配する力としての側面である。罪はそこでは、信者を支配しようとする者として人格化されている。

堕落に何が伴っていたのか、考えよ。堕落は人の上に違反としての罪による刑罰をもたらしただけでなく、支配的原理としての罪の下で人を奴隷にした。罪は人間存在の中枢の中に入り込んでいる力であり、そこに自らを確立して、人性のあらゆる部分をその支配下に置いている。罪は本質的に神に敵対している一つの原理であり、人の意志と愛情を乗っ取ることによって、人を神の敵とし、公然と神に反逆するよう人を導く。こうして人は罪の奴隷になったのである。

われわれの性質の中心部から、罪は人全体を支配する。われわれの体は「罪の体」(ロマ六・六)である。すなわち、「罪の(罪に属する)体」である――「誘惑の入口としての、また、罪の仲介者としての(中略)物質的体」(ディーン・ボーハン)である。われわれは罪の支配下にあり、他方、体はそれを通して罪が自らの働きを遂行する道具である。体は罪に所有されており、罪の支配下にある。

このローマ六章で、使徒は罪に関する信者の現在の立場を示している。キリストの十字架刑は罪に対する信者の立場を完全に変えた。キリストの死は、違反としての罪の結果から信者を分離しただけでなく、主人としての罪の権威から信者を分離した――信者を解放したのである。

キリストが自分のために死んで下さったことにより、自分は罪の刑罰から完全に解放されたことを、信者は理解する。同じように、信者には次のことを理解する特権がある。信者はこの死の中でキリストと一体化されているので、信者は支配的原理としての罪からも解放されているのである。その力は破られた。この意味で信者は「罪から解放」されている(ロマ六・一八、二二)。

この六章における使徒の目的は、「キリストが罪に対して死なれた」時、信者がどれほど完全にキリストと一体化されたのかを示すことである。この死の意義の中に完全に入り込むことは、われわれの昔の主人である罪をこれ以上取り扱わなくても済むように、キリストがわれわれを解放して下さったことを理解することである。今や「神に対して生きて」おられるキリストの中にある立場を取る特権を、信者は持っている。この観点から、信者は今後、罪を見なければならない。信者は今も、また永遠に、昔の主人と昔の支配から自由である。十字架が一度限り永遠にこの関係を断ち切ったのであり、難なく断ち切ったのである。昔の主人である罪に対して、決定的かつ完全な断交を成し遂げたのである。

「これがキリスト者の聖化の神聖な秘訣である。これは単純な天然的道徳とは根本的に異なる。後者は人に対して『あなたがなりたい者になれ』と言う。後者は信者に対して『あなたが(キリストにあって)すでにそうであるところの者になれ』と言う。これは道徳的努力の基礎に、一つの積極的事実を据える。この基礎に信者はいつでも立ち返って、あらためて頼ることができる。こういうわけで、信者の労苦は不毛な渇望という結果になることはないし、絶望に終わることもない。

信者は罪から徐々に解かれるのではない信者はキリストにあって一度限り永遠に罪と手を切るのである。意志の断固たる行いにより、信者は完全な聖潔の領域の中に置かれる。そしてその領域の中で、個人生活の漸進的更新が進む。この二つ目の福音の逆説である信仰による聖化は、一つ目の逆説である信仰による義認に基づく」(ローマ六章についてのゴデット教授の言葉)。

十字架はこの解放を効率的に成し遂げる要因である。罪の支配力からの解放は、すべての信者がただちにあずかれる特権である。それは実際的前進だけでなく真の奉仕の必須条件、もしくは出発点である。このような成長や奉仕は、成熟した信者だけでなく若い回心者にも可能である。それゆえ、罪の支配からの解放は、赦しを受けるのと同じように、われわれが信仰によって要求できる祝福である。われわれはそれを、キリストがわれわれのために買い取って、われわれを直ちに受け入れるために獲得して下さったものとして、要求することができる。われわれは罪から解放された者として、そしてわれわれの主であるイエス・キリストにあって神に対して生きている者として、前進することができる。これが支配的原理としての罪からの解放である。

不幸なことに、たとえキリストの死は罪のための贖いに十分であることを理解していても、その死は罪からの個人的清めの秘訣・源でもあることを見落とすおそれがある。

罪はわれわれの上にのしかかる重荷や、われわれの上に処罰的結果をもたらした違反であるだけではない。それは、われわれを神の臨在にふさわしくない者とする汚れである。重荷が去ったこと、咎が贖われたことを、われわれは喜んできたかもしれない。しかしそれでも、キリストの清める力を少ししか知らないかもしれない。たった一つの不従順な行いのせいで、われわれはわれわれの主との交わりから放逐されているかもしれない。われわれはこのようにして、咎だけでなく汚れをも意識するようになった。

旧契約の下におけるイスラエルに対する神の取り扱いの中に、これがどれほど鮮やかに示されていることか!

例えば、レビ記を読む時、祭儀上の汚れからの分離の必要性が強調されていることに衝撃を受けずにはいられない。そこで与えられている諸々の指示の中に、エホバがどれほど妬みをもってこの件でご自身の民を見張っておられるのかにわれわれは気づく。食物、衣服、習慣、他の家庭内の決め事に関して、事細かい指示がなされている。これにはみな、たんなる物質的・祭儀的事柄よりも遥かに深い意義があったことを、われわれは知っている。福音の光の中で、われわれはそれらの完全な真の重要性を学ぶ。

汚れというこの問題全体を見渡す時、汚れは二つの異なる源から生じることにわれわれは気が付く――外面的源と内面的源である。

内側から生じた汚れが、レビ記では主に述べられている。これは内住する悪から発する道徳的汚れと関係している。また、死との外面的接触を通して内側から生じた汚れは、民数記でさらに顕著に示されている。そこでは、世との接触によって引き起こされた汚れの諸々の効果の型が示されている。

前者の内側から生じる汚れに関して言うと、その最も顕著な絵図がらい病人によって示されている。この恐ろしい病ほど、昔のイスラエルに罪のおぞましい性質を力強く印象付けられるものは何もなかった。

そのような者は聖所から追放されることになっていた。その人は神礼拝から締め出され、神の民とのあらゆる関係から追放された。

無視して意図的に、あるいは無意識のうちに、死と接触を持った人も同様である。その人は直ちに祭儀上汚れた者となり、贖われた礼拝者のすべての特権から「断ち切られ」た。

これは今でもそうではないだろうか?

これらの型の本体は魂の肖像である。祭儀上の汚れと清めは、霊的汚染と、福音の中でわれわれに啓示されている清めを示していたのである。

信者の交わりの停止は、その構成員をイスラエルの会衆から断ち切ることに相当する。

こうしたすべての福音の絵図的描写により、神はご自分が贖った民に次のことを教えておられたのである。すなわち、神はご自身のものとした人々や、その間にご自分の住まいを定めた人々に対して、いかなる汚れも容認できないのである。そして、神はご自分の民に聖くなることを要求されたがゆえに、神は彼らのために特別な備えをされたのである。

内側から来る汚れにせよ、外側から生じる汚れにせよ、神はすべての汚れを祭儀上取り除くことのできる諸々の手段を備えて下さった。そして、神がこの備えをされた目的は、御前で彼の民が親密で永続的な交わりのうちに歩めるようになることだった。

今、このような諸々の特権が旧約の経綸の下で現実のものだったからには、新約の経綸の下ではそれらはさらにどれほど現実的であることか!

すべての清めの真の基礎はキリストの死にあるというこの中心的事実を、われわれは決して見失ってはならない。命と清さに二つの泉、二つの源はない。ただ一つの中心的泉しかない。それは十字架である。

らい病人の清めに関する律法と、赤い雌牛の定め――この二つの儀式は十字架を指し示していたのである。罪の赦しを受けられる場所は、汚れからの清めを受けられる場所でもある。

らい病人と、死と接触した人の両者が清められて、神との交わりに回復されるのは、神が定められた備えを明確かつ個人的に自分のものとすることによった。イスラエル人に考案可能ないかなる手段も、このような回復を成し遂げられなかった。なぜなら、他のいかなる手段も祭儀上の汚れを除けなかったからである。

それゆえ、ただキリストの十字架にしか、魂をあらゆる道徳的汚れから分離する力は見い出せない。

そして、このような汚れは魂を神との交わりから放逐するため、この状態の中でなされたクリスチャンの務めはみな、どれほど入念に遂行されたものでも、「死んだ業」にすぎない。その中に霊の命の息吹がないからである。

御子の死によって神と和解させられたことを知るのがわれわれの特権であるように、この同じ死によって罪の汚れから分離されていることを理解するのもわれわれの特権である。われわれの赦しと義認の源は、われわれの清めの源でもある。そして、咎による罰からの解放の何たるかを知っているなら、あらゆる不純さから清められてその清めの状態を維持してもらうことが、内なる意識に関してどういうことなのかも、われわれは知ることができる。こうして初めて、神との永続的交わりの真の意味をわれわれは学べるのである。

キリストが「私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをあらゆる不法から贖うため」(テト二・一四)だった。つまり、キリストがご自身をささげられたのは、敵の力からわれわれを贖う代償としてだったのである。不法はここでは、その支配からわれわれが解放された者の力と見なされている。しかし、これだけがキリストの死の目的ではなかった。「特別な民を、ご自身のものとして清めるためです」等々。キリストが死んで贖った人々を清めることも、その犠牲の目的である。そして、両方の祝福を同じ方法で受け取れるのである。

第一の祝福を把握した人のどれほど多くが、第二の祝福を理解しそこなったように思われることか!

赤い雌牛の「灰」を汚れた人に適用しなければならなかった。それらの灰の中に、「そのいけにえ全体の不滅の残滓」がある。いけにえが完了した後、それらの灰の中に血が含まれていた。それらを汚れたイスラエル人の清めのために利用することができた。そのいけにえの死は繰り返されなかった。なぜなら、そのいけにえは「一度限り」のキリストの死を指し示していたからである。しかし、その灰は無限に適用するために取っておかれた。それによっていけにえの効力が適用された「分離の水」は、水だけではなく、その「灰」で満ちた水だった。汚れた者は、これらの灰を含んだ水を降り注がれたのである。

この霊的意義は何か?何をそれは指し示しているのか?一つは赦しのため、もう一つは清めのため、というように霊的救いの二つの源を指し示しているのではない。その水を聖霊の予表として見るにせよ、あるいは御言葉を示すものとして見るにせよ、予型的真理のすべての路線がここで収束する一つの中心点は、キリストの血あるいは死である。これがヘブル書九章の論理ではないだろうか?

旧約聖書の儀式が祭儀上の汚れに関するものを清めたのだとすると、「なおさらキリストの血は(中略)あなたたちの良心を死んだわざから清めて、生ける神に仕える者としないでしょうか?」(ヘブ九・一三~一四)。

ある人々が主張しているように、この型の中の水は聖書のことである、と主張することもできる。これはその血の効力を損なうものではない。この水がその灰――その血を含んでいる灰――を運んで、汚れている人をその血との接触にもたらした――だから今や、われわれをキリストの血にもたらすのは御言葉なのである。しかし、御言葉はわれわれの清めのではなく、われわれをその泉へともたらすものにすぎない。罪のための、そして汚れのための泉は一つしかない――それはキリストの十字架である。

それでは、キリストの十字架の清めの力を知るには、何が必要なのか?あるいは、別の言い方をすると、どうすればわれわれの心、思い、内なる意識は、罪の汚染する影響から分離されうるのか?ただこの幸いな事実を理解することによってである。すなわち、キリストはわれわれを罪の汚れから分離するために死なれたという事実である。

どんな汚れでも、それから清められることは、それから分離されることにほかならない。キリストの死以外の何物も罪から分離することはできない。この死の事実及び目的は、彼の御言葉の中に啓示されている。われわれをこの死に同形化することが、御言葉による聖霊の職務である。これは罪のためのキリストの犠牲の贖いの効力によってもたらされた自由と同じように、その清めの力の解放を知ることである。

魂に対する罪の関係は、体に対する病の関係と同じである、とたびたび指摘されてきた。われわれの肉体器官に及ぼす病の影響は、罪がわれわれの霊的性質の上に生じさせるものの絵図にほかならない。道徳的汚れとしての罪については、らい病との関連ですでに触れた。今、さらによく考えるべきは、罪の麻痺させる影響、あるいは不能にする影響である。

罪のこの特別な面がいかなるものなのか、また、その破壊的影響からの解放がいかなるものなのかを理解するには、われわれの主の数々の奇跡を霊的癒しの象徴、主がいま人々の魂の上になさっていることの絵図として見ることが、われわれの助けになるだろう。これらの奇跡は神の力の顕現であるだけではなかった。霊的真理の「しるし」でもあったのである。それらの奇跡には肉体の癒しよりも遥かに高度な何らかの意味があった。またわれわれはそれらの解釈を「回心」に限定してはならない。数々の事例の大多数は、神の子らである者たちが知って理解するべき諸々の祝福を示している。病の前提は命の存在である。病とは不正常な或いは病んだ状態にある命にほかならないのではないだろうか?病とは「諸々の器官の自然の機能が妨害・攪乱されている、生体の任意の状態」と定義されてきた。われわれの主がなさった癒しはみな、そのような撹乱状態から体の一部あるいは全体を解放するものであり、道徳的悪の何らかの形態からの魂の解放を表わしていたのである。

聖マタイの福音書の八章に、山上の垂訓を説いた後、われわれの主が直ちになさった一連の奇跡の記事がある。彼の王国の数々の原則を教えによって示してから、主は行動によって御力を示し、人々のすべての病を癒すことにより、解放と力をもたらすご自分の美徳を伝達された。この章の中にはらい病、麻痺、熱、悪の他の形態がある。しかし、キリストはそれらをみな癒せたのである。

これらの肉体的病が示しているのは、病としての罪の様々な面にほかならないのではないだろうか?

麻痺の機能障害の中に、われわれは自発的に筋肉を動かす力の欠如を見る。それは感覚の欠如を伴わない動く力の欠如か、あるいは、動きの欠如を伴わない感覚の欠如か、あるいは、両者の欠如かもしれない。それは様々な姿で現れる。時として、それは組織全体を攻撃する。あるいは、体の片側だけに影響を与える。また、他の時には、一肢体だけが影響を受ける。

罪はまさに同様の影響をわれわれの魂に及ぼす。霊の命があっても、霊的活力に欠けているかもしれない。罪の影響の痕跡を、自発的力の機能障害、あらゆる道徳的力の衰弱、霊的感覚の鈍化や死滅の中に辿れるかもしれない。そしてその結果は、霊の命全体が低調になることである。罪はこうしてわれわれから力を奪う。われわれの新しくされた存在に属する諸々の機能を発揮することを可能にする唯一の力を奪う。そして罪はわれわれの力を弱めるだけでなく、われわれの成長の邪魔をする。体の組織がすべて揃っていて、すべての器官、すべての機能が揃っている子供でも、麻痺に見舞われるなら、成長できなくなる。魂も同じである。新生しているかもしれないし、神に回心して一大変化を遂げたことは明確な紛れのないことかもしれないが、それでも、罪が侵入してその麻痺させる影響を生じさせるのを許容してきたかもしれない。罪はわれわれから霊的力をすべて奪うだけでなく、われわれの前進を遅らせ、われわれの成長を阻む。

しかし、病は活力を弱めて死滅させるだけではない。体の器官の中に明確な欠陥を生じさせるかもしれない。例えば、盲目に生まれついた人の場合や、口や耳が不自由な人の場合である。ここでわれわれが目にするのは、病がもたらす弱める結果や麻痺させる結果以上のものである。罪についても同じである。われわれは罪をこの観点から見ることができる――剥奪として見ることができる。これをわれわれは再生されていない人だけでなく再生されている人の中にも見る。罪はわれわれの道徳的存在の霊的器官に影響を及ぼして、やがて、これらの器官は活動を停止するかもしれない。「目があっても見えない」という御言葉が実際に成就されるのである。

耳が聞こえず口の利けない人の事例には、数々の霊的事柄に関する何という絵図があることか!「彼らはイエスのもとに、耳が聞こえず口の利けない人を連れてきた」。彼は聞くことも話すこともできなかった。われわれの極めて貴重な能力の二つに欠けていた。それらの器官は存在していたが、実際上その人はそれらの器官がまるでないかのようだった。外界と情報交換する二つの経路は、このようにその人に対して閉ざされていた。

どのようにイエスは癒されたのか?解放の順序はどうだったのか?どの器官から彼は始められたのか?彼はまず耳を開かれた。さて、耳は受け入れる器官であることをわれわれは知っている。これがその目的である。耳は与えためではなく受け入れるために造られている。耳は、それによって諸々の影響が外側から心の中に入る経路である。

その人は音を受け入れる力に欠けていた。その器官は無かったわけではなく、機能障害に陥っていた。その扉は閉ざされていた――その通路は閉鎖されていた。彼はそのようなすべての影響に対して無感覚だった。

これは霊的にもそうである。罪は人から神の御声を聞く力を奪った。そして罪は信者から、もし信者が罪に屈するなら、同じ能力を奪う――主の御声に耳を傾ける能力を奪う。

聞くことは信仰の最初の行為である。「聞け、そうすればあなたの魂は生きる」。「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持つ」。そして、全生涯を通じて耳を傾け続けなければならないのである。

その後、主イエスはその人の舌を解かれた。

舌は話すための手段である。その人は自分の思いを伝える力に欠けていた。舌は、取り入れることによってわれわれが理解したことを語り出す器官である。舌は、われわれが神に賛美を歌う時、感謝を言い表す時、人々の前で証しする時、用いる道具である。舌はあらゆる器官の中で、救いの良いおとずれを宣べ伝えるために出て行く使者が最も必要とするものである。

さて、これはみな霊的生活にも言える。

罪は人から神に賛美をささげる力や、祈りの中で神を呼び求める力を奪った。罪は人から人々に対して証しする能力を奪った。罪は人の口を閉ざし、人の耳を聞こえなくするだけでなく口を利けなくした。

さて、これらの二つの器官――聴覚と会話力――は互いに依存しあっている。生まれつき耳が聞こえない人は、通常、口が利けないままである。聴覚は先天的器官だが、会話力――つまりはっきりと話す能力――は後天的技術である。人は聞くことによって話すことを学ぶ。しかし、生まれつき耳の聞こえない人は、どうやって学べるというのか?

同じように霊的生活においても、魂の同様の器官の間には緊密な関係がある。口が開かれる前に、まず耳が開かれなければならない。神のために効果的に語ることは、神に正しく耳を傾けることによる。心が満たされるのは耳を傾けることによる。そして心に満ちていることを口は語る。

イエスは「エパタ」(「開かれよ」)と言われた。耳と舌の両方が自由にされた。

この行為はキリストの務め全体を象徴している。彼が来られたのは、魂を贖うためだけでなく、われわれが持っているすべての能力と器官を自由にするためである。それらの能力と器官は、神が当初ご自身の栄光のために創造されたものだった。

サタンの一大目的は、奴隷にして虜にすることである。魂を神との交わりにもたらすすべての道をサタンは閉ざそうとする。キリストが来られたのは牢獄の扉を開くためである――魂を罪の奴隷にしておく足枷を壊すためである。「彼の務めの効力は、一つの継続的なエパタだった」――道徳的・霊的能力をすべて解放し、鎖をすべて解くことだった。

われわれは皆、習慣の力を認めている。過去の数々の行動、特に度々繰り返された行動は、今日われわれの中にある実際の力であることを、われわれは経験的に知っている。「現在は過去の結果である」。習慣は、頻繁に繰り返すことによって獲得された力・能力である。最初は難しくて、不完全にしか行えなかったことも、習慣によって容易になり、十分にできるようになる。

それゆえ、習慣は後天的力であり、繰り返された行動の結果である。それは第二の天性のようであることがしばしばである。

これから明らかなように、われわれは習慣を生じさせるものを受け継いではいるが、習慣は生まれつきのものではない。それゆえ、悪い習慣を、アダムのすべての子らがこの世に生まれる時に帯びている諸々の罪深い傾向性と混同してはならない。この罪深い傾向性は生まれつきだが、罪深い習慣は生まれつきではない。

「人は数々の習慣の集大成である」。しかし、人の行いはたんなる習慣を超えたものの産物である。おそらく、習慣がわれわれの日常生活の上に及ぼす力は、どんなに強調しても強調しきれないだろう。しかしそれでも、先天的傾向性と後天的習慣との明確な違いを認識することは極めて重要である。悪い習慣をみな取り除くことは可能かもしれない。どんな習慣の力からも完全に解放されることは可能かもしれない。しかしこれは、罪への傾向性がそれによって根絶されることを意味しない。

さて、後天的習慣と諸々の欲望との間には、とても緊密な関係がある。「もし一組の悪い習慣が個人の成長と共に成長するなら、あるいは、悪い傾向性が一つでも習慣的行動の源となるのを許すなら、それらの習慣に対抗してその行いをやめるには、遥かに強固な意志の力が必要となる。これが特に言えるのは、習慣的考えが情緒的性格を帯びて、諸々の欲望の源となる時である。これらの欲望に屈するほど、それらの及ぼす誘惑は強くなる。そして最終的に、抵抗力がほとんどなくなるほど、自我はすっかりそれらの欲望の虜になってしまうかもしれない。また、欲望が自らに基づく行動によって力を増すにつれて、その人の意志は屈服する習慣によって弱められてしまう」(カーペンターの「精神心理学」)。

このように「習慣によって、情動はその実体を建て上げて、肉体的器官だけでなく霊的器官をも、罪に役立てるために行使する」(マルテンセンの「キリスト者の倫理」)。「習慣と情動が結合したものが悪徳である。それにより、人はある特定の罪に対する奴隷となってしまう。日常生活で話をするとき、世人の目前で人に不名誉を被らせる諸々の罪のことだけを悪徳と称することに、人は慣れ切っている。例えば、飲酒、盗み、不貞、その他同様のことである。同じように、『非難の余地がない、染みのない歩み』という句で人が理解するのは、大抵の場合、社会的公義という衣服の上に何の染みもない、ということだけである。

しかし、人に対してこのような支配権を獲得して、人をその奴隷とするすべての罪のことを勝手に悪徳と称してはならないのではないだろうか?高慢、妬み、悪意、噂話(悪口)、無慈悲を悪徳と称してはならない理由があるだろうか――これはつまり、それらのものがその人に対してそのような支配権を獲得して、その人が自分の自由を失う場合である」(同上)。

エペソ人への手紙の中で、聖パウロは多くの罪を挙げているが、それらはみな後天的習慣という見出しの下に含められる(エペ四・二五~三二)。偽り、盗み、悪い話、苦々しさ、激怒、怒り、騒ぎ、罵り、悪意。これらのものはみな取り除かれるべきものである――従わせたり抑え込んだりされるべきものではなく、全く取り除かれるべきものである――信者がそれ以上関わってはならないものとして、そして実際にそれから分離されなければならないものとして、取り除かれるべきものである。それゆえ、これらの罪をすべて「取り除きなさい」――すなわち、人が服を脱ぐように――脱ぐことである。それらの罪に屈しようとする欲望そのものが取り除かれなければならない。

使徒ペテロは、聖潔の特権と義務を読者に印象付ける際、読者を直ちにキリストの十字架にもたらす。これが彼の論拠である。「私が聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者になりなさい。(中略)あなたたちがよく知っているように、あなたたちが先祖伝来の空しい生活様式から贖われたのは、銀や金のような朽ちるものによったのではなく、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです」(一ペテ一・一六、一八~一九)。

それゆえ、われわれはキリストの死の恩恵の一つとして、われわれの過去の生活の悪しき力からの完全かつ瞬時の解放を要求することができる。キリストが死なれたのは、心と体のすべての悪い習慣からわれわれを贖うためである――すべての間違った不正直な行動路線から――すべての空しい不真実な行動路線から――すべての卑しい不純な動機から贖うためである。罪の完全な根絶は可能である、という考えを抱く人々が、時々次のような問いを発してきた。「どうやって罪と聖潔が同じ心の中に同居できるのでしょう?どうやって人は病気であると同時に健康でもあることができるのでしょう?完全に健康な時、人は病から解放されているのではないでしょうか?キリストが癒しの御手を置くことによって『健康』にされた魂については、病としての罪は完全に取り除かれた、と言えるのではないでしょうか?」。

それゆえ、この推論によると、すべての罪――違反としての罪だけではなく原理としての罪も――魂がその真の特権に従って生活する時、根絶されるというのである。だから、「罪の法則」はもはや存在しない、とそれは言う。悪への傾向性自体がなくなるというのである。

もちろん、クリスチャンでも罪を犯す可能性があることを疑問に思う人はいない。当初の罪のない無垢な状態にあったアダムですら、罪を犯す可能性からは自由ではなかった。しかし、今生で罪に対するすべての傾向性から解放してもらえる、と考えているように思われる人もいる。「心の清さ」の祝福は、清さが維持されている状態というよりは、むしろ清い状況である、と主張しているように思われる人もいる。この区別は重要である。

一つの例によって、これを明らかにすることができるだろう。自然にはありえないことを仮定してみよう。すなわち、暗い部屋の中に火の灯った燭台を通らせたところ、この一つの行為によって、部屋が直ちに明るくなるだけでなく、明るい状態継続する効果が生じたと仮定してみよう。もしこのようなことが可能だったなら、その部屋は、最初自分の中に光の状態をもたらしてくれた燭台に借りがあるものの、光のためにその火の灯った燭台に居続けてもらわなくても済んだだろう。

このようなことは、キリストがわれわれに授けて下さる清めの性質ではない、とわれわれは主張する。

この同じ例を用いて――しかし、無理なことは仮定しないが――暗闇は罪を、光は聖さを表わすとしてみよう。暗い部屋に対する火の灯った燭台の関係は、信者の心に対するキリストの関係と同じである。

キリストご自身の内住の臨在の光により、キリストはわれわれの意識の外に罪を締め出して下さる。このようにもたらされて実現された清めは、状況ではなく、維持されている状態であって、キリストご自身から離れて存在しえないものである。

光が暗い部屋の中にもたらされると、暗闇はただちに消え去る。しかし、暗闇への傾向性は残る。その部屋を明るい状態に保てる唯一の方法は、この傾向性に絶えず対抗することである。この部屋を照らすのは「光線の絶えざる流れである。継続的に降り注ぐこの光線の一本一本は、この部屋を最初に照らした光と別のものではない」。

だから、これは状況ではなく、維持されている状態であって、完全な継続的依存を示す適切な絵図なのである。

もしそれがキリストが魂の中に生じさせられた清い状況だったなら、われわれはそれをキリストの内住という現在の働きとは別に存在するものとして思い描けただろう。そのような観念は必然的に何につながるだろうか?神によってわれわれに対する「聖別」とされた御方よりも、むしろ清い状況に専念する習慣につながる。続いて、自然な結果として、常に現存している悪への傾向性である「罪と死の法則」に対抗するために絶えずキリストに拠り頼む必要はない、という幻想が生じる。

ドラモンド教授はこう記している。「自然は命に満ちている、とわれわれは想像しがちである。実際には、自然は死で満ちている。植物にとって生きることは自然なことである、とは言えない。その性質をよく調べると、その天然的傾向性は死ぬことであるのを認めないわけにはいかない。死ぬことからそれが守られているのは、たんなる一時的な分与によってであり、この分与がそれに一時のあいだ諸元素を支配する力を与える――短い期間、雨、陽光、空気を利用する力を与える。この一時的分与が少しの間やむなら、その真の性質が現れる。自然を征服する代わりに、征服されてしまうのである。その成長と美に資するように思われた諸々の事柄がまさに、今やそれに反するものに転じて、それを衰退・死滅させる。それを温めた太陽がそれを萎れさせ、それを養った空気や雨がそれを腐敗させる。命と関係しているこれらの力がまさに、その真の性質が現れる時、実は死に資するものであることがわかるのである。

植物界全体に言えるこの法則は、動物や人にもあてはまる。空気は命ではなく、腐敗である――文字通り腐敗であって、命が衰退する時、腐敗を締め出す唯一の方法は空気を除くことである。命は、これらの破壊的力が一時のあいだ差し止められている状態にすぎない。そしてこれが、実際のところ、われわれが今まで受け取ってきた中で最も正確な命の定義である。すなわち、命とは『死に抵抗する機能の総計』なのである。

霊の命も、同様に、罪に抵抗する機能の総計である。魂を取り巻く環境は、この世の日毎の試練、境遇、誘惑である。諸元素を利用する力を植物に与える唯一のものが命であり、命がなければ諸元素植物を利用するのと同じように、誘惑や試練を利用する力を魂に与える唯一のものは霊の命であり、霊の命がなければ誘惑や試練が魂を滅ぼすのである」(「霊の世界における自然法則」)。

ここに示されている偉大な原理を理解することが、この問題全体に対する鍵を握ることである。ここにこの偉大な奥義の答えがある。神の聖霊が内住している所に、どうして罪への傾向性が存在しうるのか?抵抗の法則によってである。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。「命の霊の法則」が働いていること、そしてそれが常に必要であるこの事実こそ、罪と死の法則は根絶しておらず、ただ差し止められているにすぎないことの証拠である。言い換えると、罪への傾向性は依然として存在しているのである。

天然の命の法則を知らない人は、「植物は、活動と活発な成長の新鮮さを示している間、それを死と衰退の状態にもたらそうとしているこれらの力の影響から完全に自由である」と結論するかもしれない。言い換えると、「植物が命の活力の中にある限り、死への傾向性はまったく失われて存在しない――その時作用している力は、実際には、命の力だけである」と結論するかもしれない。これがこの問題に関する一般的見解かもしれない。われわれの霊の状態に関するこの問題では、同じ間違いを犯さないようにしようではないか。

今生で悪の存在から完全に解放されることは決してない。罪と死への傾向性は絶えずわれわれと共にある。

植物に言えることが、最も聖い聖徒にも言える。この決定的原理は一時のあいだ差し止められているにすぎず、この天然の傾向性はたちまち明らかになる。内住の命であるキリストから離れるなら、最も進んだ信者といえども霊的衰退の状態の中に直ちに逆戻りしてしまう。なぜなら、罪の法則に抵抗するものがもはやないからである。

しかし、他方において、われわれは罪になびきやすいだけでなく罪を犯しがちであるという事実――われわれには最後まで下向きの力がかかっている事実――を認識する一方で、キリストはサタンと死よりも強いことを忘れないようにしようではないか。ご自身の死により、キリストはわれわれを罪の刑罰、働き、汚れ、弱める結果、習慣から分離して下さった。そして同じように「ご自身の命の中で」、ご自身の内住の命の中で、キリストは罪の法則からわれわれを解放して下さる。命の霊の法則により、キリストは死に向かう天然の傾向性に抵抗して下さるので、罪の圧政と重圧は共になくなる。

キリストの死の目的は、われわれを悪から分離することである。ここで考察した罪のこの五つの面において、解放はイエス・キリストの死を通して臨むことを、われわれは示そうと努めてきた。

しかし罪のこの最後の面において、聖書がわれわれの現在の特権としてわれわれの前に置いているのは、それからの完全な分離や根絶ではなく、反作用である。それゆえ、ここでわれわれが導かれるのは、キリストの死ではなく、キリストの、その復活の命である。生けるキリストの法則――復活したキリストとの活き活きとした交わりの何たるかを知る時、われわれがその中に導かれる法則――がわれわれを解放して、罪と死の法則から解放された状態にわれわれを保つのである。