第二章 罪に定められることはない

エバン・ホプキンス

「それゆえ、今やキリスト・イエスにある者、肉にしたがってではなく御霊にしたがって歩く者は罪に定められることはありません。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです。」(ロマ八・一~二)

「わたしを離れては、あなたたちは何もすることができません。」(ヨハ十五・五)

「私は、私を強めてくださるキリストを通して(キリストにあって)何でもすることができます。」(ピリ四・十三)

「キリスト・イエスにある恵みの中で強くなりなさい。」(二テモ二・一)

「罪に定められることがない」という特権の完全な意義を理解するには、「キリスト・イエスにある」という句の意味を知らなければならない。「キリストにある」という句は、ほとんど聖パウロに特有の句である。この句は彼の手紙の中だけでも約七十八回現れる。しかし、その萌芽は「わたしの中に住んでいなさい。そうすればわたしもあなたたちの中に住みます」(ヨハ十五・四)という主の御言葉の中に見いだされる。

様々な節を注意深く調べると、「キリストにある」という句で表現されている真理には二つの異なる面があることがわかる――義認を示す面と、聖化を示す面である。われわれは一方を他方から区別しようとする一方で、両者を分離しようとはしない。「キリストにある」立場と「キリストにある」歩み・経験と言えるものがある。前者は頭首権と関係があり、後者は交わりと関係がある。

頭首権について。われわれは各々、二つの立場のうちの一つを占めている――アダムかキリストである。神の取り扱いは二人の人と関係している――最初のアダムと最後のアダムである。われわれは人類を、多くの人がしているように、砂からなる一つの山のように個々人に分けてはならない。むしろ、一本の木のように、一つの有機的なまとまりである。無数の部分から成っているが、一つの全体を形成しているのである。だから、アダムの中に、人のすべての家族の総計をわれわれは見る。そしてエデンの園で、彼にあって、全人類が試みに遭うのをわれわれは見る。

アダムの試練は人を試験することだった。それは一個人の試練ではなく、全人類の試練だった。すべての人が彼の中に含まれていた。彼の堕落は家族全体の堕落だった。「一人の人を通して罪が世に入り、罪を通して死が入りました。こうして死がすべての人に及びました。すべての人が罪を犯したからです」。[「すべての人が罪を犯した」(アオリスト)というのは、アダムにあってである。試練に関する見方としては、救いに関係するものとして見る見方と、奉仕に関係するものとして見る見方がある。救いに関係する試練は、もはやわれわれ自身の働きの問題ではない。この意味では、われわれの試練はアダムの失敗と共に終わった。しかし、奉仕に関する試練は依然として進行中である。そして、われわれは使徒が記している次の言葉を、この意味に理解しなければならない。「他の人に宣べ伝えておきながら、自分は捨てられる(あるいは、拒絶される 改定訳)ことが決してないためです」――(一コリ九・二七)――失格したり拒絶されたりするのは、つまり、奉仕に関してである。]

そこで試練は終わったのである。厳密に言うと、堕落で人の試験は終わったのである(ロマ五・十二)。

福音が臨むのはそのような者に対してである。試練の決着がついていない者、試験の途中にある者、依然として試練を受けている者に対してではない。この立場に基づく機会が永遠になくなった者――それゆえ、「失われた」者に対してである。

それでは、福音は何を提供するのか?別の試練を提供するのか?人に第二の試験を課すことか?そのような類のことではない。その知らせの重点は試験ではなく贖いである。

一つの例を挙げよう。ここに多くの枝を持つ一本の木がある。その根を切ると、何が起きるか?死である。死はその茎の中に入り込むだけでなく、木全体に及ぶ。すべての枝、すべての葉に影響を及ぼす。

アダムにある古い立場の改善を提案することは、枯れた木の分かれた枝々の中の命を生き返らせようとする空しい努力のようである。

福音は新創造を宣言する。新しい木――新しい根との合一――新しい株への接ぎ木を宣言する。「だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です」(二コリ五・十七)。これは古い立場の改善ではなく、新しい立場に移されることである。

別の例を挙げよう。ここに商売に失敗した一人の人がいるとしよう。彼は絶望的破産状態にあるだけでなく、その信用は消え失せ、その名は地に落ちた。自分の立場を挽回しようとする彼の努力はすべて、全く不毛である。その方面で立ち直る望みは全くない。しかし、別の方面から彼に望みが臨む。商売の世界で高名な人によって、彼が共同経営者にされたとしよう。彼は裕福で立派な会社の共同経営者になる。その会社が彼の負債をすべて支払い、その過去は抹消される。しかし、それだけではない。彼は全く新しい立場を得る。彼の昔の名は退けられ、忘れ去られ、永遠に葬られる。彼には今や新しい名がある。この名によって彼は自分のすべての商売を行う。彼の昔の名は決して再び口にされることはない。

これは福音が与えるものの微かな影である。キリストにある信者であることは、われわれの古い立場を去らせたということである――われわれの昔の名を失ったということである――そして、全く新しい立場の上に立つことである。われわれは「主イエスの御名の中へと」バブテスマされている。われわれは「キリストにある」。

「それゆえ、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」。これは信者に段階的に臨む特権ではない。それは一度に丸ごと完全に臨む。そして、この移行が起きる瞬間、信者は審査される立場にではなく、贖いの立場に立つ。

この真理は根本的である。「キリストにある」この立場は、すべての実際的聖さの基礎であり、すべてのクリスチャンの奉仕の基礎である。われわれはここから始めなければならない。さもないと、聖潔の道を一歩たりとも歩むことはできない。

しかし、これで「キリストにある」という句の意味が尽きたわけではない。また、これはローマ人への手紙のこの八章の冒頭における使徒の宣言で理解すべきことのすべてでもない。この文章にはまた――

交わりの思想も含まれている。「キリストにある」ことは、この意味で言うと、彼の恩恵を意識することである。これは立場の問題ではなく、経験の問題である――そして依然として感覚の問題ではなく、信仰の問題である。われわれはキリストの中に「住む」よう命じられている。しかし、われわれの法的立場に関係しているのは勧めの問題ではありえない。キリストにある立場に立った者たち――義とされている者たち――は今や、聖化のためにキリストの中にとどまり、宿り、住む必要がある。われわれの経験と歩みに関係しており、われわれの聖化とも関係しているこの「キリストにある」は、聖書が常に勧めている問題である。

ああ!キリストの中に住んでいないおそれがあるのである。そして、信者が住むことをやめる時、何が起きるのか?その時、信者は自己の命を生きるようになるのである。宗教的な自己の命なるものがある。救いをもたらすキリストを知る知識を持っている人々でさえ、あまりにも頻繁にこの命を現わしているのではないだろうか?義認に関して「キリストにある」ことの何たるかを明確に理解していたとしても、聖化に関して「キリストにある」ことがどういうことかについては、依然として多くの暗闇と困惑がある。多くの人は真実な目的を持っており、キリストに栄光を帰すことと、キリストに似た者にされることを求めている――彼らには心からの熱心な願いがあり、聖さを求めて絶えず精力的に努力している――それにもかかわらず、彼らは絶えず失望しているのである。彼らは至る所で失敗と敗北に出会う。彼らが努力していないからではないし、奮闘していないからでもない――彼らはこれをみな行っている――しかし、彼らの生きている命は本質的には自己の命であってキリストの命ではないからなのである。

彼らは罪定めの中に陥る。これは、彼らの肢体の中にある「罪の法則」が彼らの新しくされた性質よりも強い事実から生じる。

キリストの中に住むことをやめる魂は「自分自身」の命を生きる。「キリスト・イエスにある者たち」という言葉は、七章の最後の数節の主題である「自分自身の中にあるありのままの私」という表現と対比を成す(ゴデット)。

「私自身」――「キリストから得る助けから離れていて、それと敵対している」(「新約注解」、エリコット司教編)――私自身は二つの反対の傾向性、二つの性質の間の内的葛藤の惨めな状態を意識している。一方の性質は善なるものである律法に同意して、それを喜び、その要求を満たすことを願っている。他方の性質は私を反対の方向に引っ張り、さらに強力であって、実際に私を罪の法則の虜とし、こうして罪定めの状態という結果になる。

「自分自身の中にある私」。「この句はローマ七・十四~二五全体に対する鍵である。聖パウロは、十四節から二四節で、自分自身の中にある者としての彼自身について述べたのである」(コニーベア&ホーソン)。

「それゆえ、今や罪に定められることはありません」。「『ありません』というこの言葉は」、フレデリック・ルイス・ゴデット教授がフランス語で記しているところによると、「キリスト・イエスの中にいない者の頭上には、一種類以上の罪定めがとどまることを示している。第一に、律法を破ったことによって招いた神の不興である――ローマ人への手紙の最初の三つの章で描写されている御怒りである。続く二つの章がわれわれに示しているのは、キリストの血によって、そして、御許に行くことに同意してそこで赦しを得る信仰によって、この罪定めが取り除かれるということである。

しかしもし、その後、罪がその魂の主人であり続けるなら、罪定めが間違いなく甦る。なぜならイエスが来られたのは、われわれを罪の中で救うためではなく、罪から救うためだからである。魂を健康にするのは赦しではない。それは救い、聖さの回復である。赦しを受けることは、神に似た者となることに何の影響も及ぼさない。聖さだけがこれをなす。赦しは救いの入口であり、それによって回復が始まる手段である。健康自体が聖さである。

それゆえ、取り除かれるべき最初の罪定めが、過ちとしての罪によって生じた罪定めである以上、この最初の罪定めがぶり返さないようにするために必ず取り除かれるべき第二の罪定めは、としての、内側に造り込まれている意志の傾向性としての罪によって生じた罪定めである。そして、聖パウロが『キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放しました』とここで描写しているのは、この第二の罪定めの除去の事である」。

この「私自身」の命の中では、悪い傾向性が優勢である。それゆえ、新しい性質――内なる人もしくは霊の思い――でわれわれは神の律法に仕えるが、それにもかかわらず、われわれは打ち負かされて、実際に罪の法則の虜とされてしまう。このような生活は、必然的に、日々罪定めを経験する生活にならざるをえない。

しかし、この自己の命には別の特徴もある。それは本質的に肉的(sarkikos)である(ロマ七・一四。付録の注記Bを見よ)。肉的と言っても、再生されていないという意味ではない。肉的な人でも御霊から生まれているのかもしれず、ただ敵対する肉の力に打ち勝つほどには御霊の照らしと聖めの力によって生きていないのかもしれない。依然として「肉にしたがって」考え、感じ、判断し、行動しているのである(一コリ三・一に関するランゲの注解)。

「肉的」という言葉によって描写されている状態は、回心したばかりの人の未成熟な段階か、さらに進んだ信者が陥る後退した状態である。前者に対しては何の叱責もなされていない。なぜなら、天然の者から霊の者へと進むにあたって、すべての人がこの段階を通らなければならないからである。しかし後者は責めを負うべきである。使徒がコリントの信者たちに「私はあなたたちに対して、霊の人に対するようには話せませんでした。むしろ、肉的な者に対するように、キリストにある赤子に対するように話しました」(一コリ三・一)と記したその書きぶりからわかるとおりである。

「彼がここで述べているのは、世人とは異なる者としてのクリスチャンのことではなく、他のクリスチャンとは異なる者としてのクリスチャンの一つの集団のことである」(ホッジ)。

これが、自分自身の中にある時の、すべての信者の描写であり、使徒の描写ですらある。そして、キリストとの交わりの外に生きる時、信者の経験はこのようなものである。肉的な原則もしくは肉の原則が優勢になる。信者はもはや霊・魂・体ではなく、むしろ体・魂・霊である。順序が逆転して、最も低い原則が支配的になる。

交わりに関して「キリストにある」ことは、個々の人の霊が神の御霊によって捕えられること、あるいは握られることである。このようにしてわれわれは神との調和の中にもたらされるだけでなく、神の力と結合される。われわれが自己の命の中で打ち勝とうとする時に欠けている能力は、キリストの命の中ではもはや欠けていない。これは罪と死の法則から解放されることである――これは霊的に気を付けるべきことである。

ある有能な優れた神学者の以下の見解は注意深く熟読するに値する。「われわれは従来どおり、今も次のような見解を支持する。すなわち、ローマ七・十四~二四でパウロは『再生された人の意識』から語っているのだが、これは、そのような経験をすることが再生された人にも許されている、ということではない――むしろ、そのような経験を再生された人は容赦してはならない。一人の同じ人が肉的であって罪へと売られている(七・十四)にもかかわらず、他方で、キリスト・イエスにある命の霊によって罪と死の法則から解放されている(八・二)、と述べるのは、確かに両立できない矛盾のように思われる。

しかし、使徒は実際にこの二つの状態を、今の自分の経験に属するものとして並置している。彼が七・十四で述べているのは、自分は以前は肉的物質から成っていて罪の下に売られていた、ということではなく、これが自分の天然的成り立ちであり、この矛盾が自分と神の霊的な法則との間に存在する、ということである。彼は現在のことを述べているのである。彼は続けて、自分は律法を受け入れているが、それは善を行う助けにはならず、むしろ罪のせいで、自分の意志に反して、神の御旨に反することをしてしまうことを示しているが、この間、彼はずっと現在のことを述べているのである。

この実証済みの今の主張を、七・七~十三ではさらに考慮に入れなければならない。すなわち、使徒はそこでも経験上の事実――その事実は当時は過去のものだったが――を歴史的な形で述べているのである。彼はそこから自分の幼年期を振り返る。そして、どのように律法の要求を徐々に意識するようになったのかを示す。そして、自分の内に現存していたが個人的振る舞いの中にはなかった罪が、どのように彼の個人的な罪となり、自ら死を招く原因となったのかを示す。十三節で述べられているように律法の目的は救いに導くことだが、これを彼はこのように痛ましく経験したのである。十四節以降、使徒が続けて描写しているのは、律法を行うことを望んでいた彼が、律法の光の中で自分自身と自分の行いを暴露されるのをどのように経験したのかということである。どのクリスチャンも自分自身の経験から、使徒が述べていることを認めないわけにはいかない。神の律法したがって神の御旨が自分の喜びである――すなわち、自分は善を望んでおり悪を憎んでいる――と認めることもできるなら、その人は幸いである。特に、罪は自分の意志に反するものであり、それから自分はさっさと逃げ去る、という具合に、罪は自分の最も深い性質とは無縁であることを示すような形で、そう認められる人は幸いである。しかし、自分自身の経験からこれを認めることができるだけで、キリスト・イエスを源とするこの新しい命の御霊が自分をしつこい罪と死の状態から解放した事実を認められない人は禍いである。罪と死の状態は律法によって取り除かれず、ただ明るみに出されただけだった。この解放は、律法によって善なるものになびいたその人の意志が、無力ではあるものの、今や実際に善を行えるようになり、自分の内に働き続ける死に対して、優勢で支配的な命の力として、立ち向かえるようになるためである。この命の力が最終的に栄光の中で勝利するのである」(デリチェ『聖書心理学体系』四五三~四五五頁)。

しかし、この見解は次のような反対を受けてきた。「もし私がキリストの中にあり、しかも『私はキリストの外にある』と叙述しているとするなら、それが実際に述べているのは、いま私が実際に何者なのかではなく、かつて私はキリストの外にあったということである」(ピリピ)。

さて、デリチェが述べているように、自分自身の心の中を覗いてみさえすれば、これがなんという詭弁であるかが直ちにわかる。キリストにある人はみな、実際の経験から、歩みと生活でキリストの外にあることがどういうことかを知っている。信者はみな、悲しむべき経験から、キリストの中に住むのをやめることがどういうことかを知っている。両方の生活を同時に生きること――すなわち、交わりに関してキリストの中にあることと、同じ意味で任意の時にキリストの外にあること――は可能である、ということではない。これによって生じる反対は、「キリストにある」という句には一つの意味しかありえない、という仮定に基づいている。しかし、この句の二重の意味、あるいはこの真理の二重の面こそ、われわれが明らかにしようとしてきたことである。

今や自分が罪に定められることはないことを知るのは信者の特権である。裁き主である神の御前に立っていることを自覚するときも、御父である神の御前を歩んでいることを自覚するときもである。前者の場合、信者は義なる方であるキリストの中に包まれて神の御前に立つ。キリストは義なる律法のすべての要求に応じてくださった。他方の場合、信者は聖なる方であるキリストの中に住んでいる。キリストは御父の御心のすべての願いを満たしてくださった。

このように歩みつつ、信者は神を喜ばせることの幸いを知る。確かに、魂のこの状態を指して、使徒は「愛する者よ、もし私たちの心が私たちを罪に定めないなら」(一ヨハ三・二一)と述べたのである――使徒は「もし私たちがキリストにあって義とされて立つなら」と言っているのではなく、「もし私たちの心が私たちを責めないなら」と述べている――その時、「私たちは神に対して確信を持」つのである。

次のことは注目に値する。この十一の節(ロマ七・十四~二四)で使徒パウロは、直接的にあるいは間接的に、約三十回自分自身に言及しているが、その間、一度たりともキリストや聖霊に言及していない。この節を読むとき、使徒は現在の経験の観点から述べていると仮定する必要はない。現在の確信の観点から、その当時彼の内側に現存していた二つの性質の傾向性について述べたのである。

八章の冒頭で使徒が述べている解放を、彼は推論理屈によって主張する。その推論・結論は、「それゆえ」という言葉によって示されている。「それゆえ今や」云々。しかし、その議論の中のどの点を、この推論の注記は指しているのか?どこにそれは遡るのか?注意深く熟読するなら、この最初の節は七章の最初の六節から生じる結論であることがわかる。

三つの偉大な真理を彼は読者の前に示した。身代わり、一体化、合一である。身代わりの思想を彼は五章で示す。「キリストは不敬虔な者のために死なれました」(付録の注記Aを見よ)。ここでも、アダムとキリストという第一と第二の代表者の頭首権について詳説されている。

一体化の思想を彼は六章で明らかにする。そこでは、信者はキリストと共に十字架につけられて葬られたと見なされている。六節と四節を見よ。次に、合一の思想がある。七章冒頭でこの真理が示される。「あなたたちはキリストの体によって律法に対して死にました。それは、あなたたちが別の方に嫁ぐためです」。この真理は最初の六つの節でのみ詳説されている。七節で乖離が始まり、合一の主題は八章一節まで再び取り上げられない。この三つの偉大な事実――身代わり、一体化、合一――の思想の進展は、「ために(for)」「共に(with)」「中に(in)」という前置詞によって示されている。新約聖書の諸々の前置詞の中には途方もない神学が込められている、と言われてきたが、これは真理である。

「それゆえ、今やキリスト・イエスの中にある者」――法理的だけでなく経験的にも、キリストとの合一の中にもたらされた者――は「罪に定められることはありません」。

しかし使徒はこの祝福された状態の理由をこう述べている、「なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです」。この合一により、われわれは解放された状態の中にもたらされる。われわれは解放する力の恩恵を受ける。この時、贖いが実現されて罪から解放される。これは過去の行いの功績によるのではなく、今働いている一つの法則による――働きが決してやんだことのない法則による。一つの法則に対して、実際に、別の法則が効果的に立ち向かう。キリストとの交わり、キリストとの心と思いの合一により、この輝かしい法則のすべての恩恵が自分のものとなるあの領域の中に、人はもたらされる。この祝福された自由を経験・理解できるのは、「キリスト・イエスの中」でであり、ただそこでのみである。

この領域の外にあるとき自分がいかなる者なのかが、七章のこの十一の節に示されている。しかし、キリストの中にあるとき――キリストの臨在の圏内にあるとき――自分がいかなる者なのかを、われわれは八章から学ぶ。

信者はこのように、主ご自身によって語られたあの簡潔ではあるものの含蓄のある御言葉を思い起こす。「わたしなしでは」あるいはわたしを離れては、「あなたたちは何もすることができません」(ヨハ十五・五)。つまり、わたしと交わりを持たないなら、たとえあなたの主また救い主としてわたしを知るようにされた後でも、そうなのである。「『わたしなしでは』という言葉を、『あなたたちがわたしの中にあるようになって、わたしの恵みを得るまでは、あなたたちは何もすることができません』という意味にとるのは、つたない不適切な解釈である。これはむしろ、『あなたたちがわたしの中にあるようになったでも、もしあなたたちがわたしから命と力を引き出さないなら、あなたたちは何も成し遂げられません』という意味である」(トレンチ)。

もし一塊の鉄が話せたら、それは自分自身について何と述べるだろう?「私は黒く、冷たく、硬いです」。しかし、それを溶鉱炉の中に入れてみよ。なんという変化が起きることか!鉄でなくなったわけではないが、その黒さや冷たさや硬さはなくなる!新たな経験の中に入る。その火とその鉄は依然として別々だが、それでもその合一はなんと完全なことか――両者は一つである。その鉄が話せたなら、自分を誇ることはできず、自分を明るく赤熱させ続ける火に栄光を帰しただろう。信者もそうでなければならない。自分自身が何者か、信者に問うてみよ。「は肉的であって、罪の下に売られています」と信者は答えるだろう。なぜなら、一人のまま放置されるなら、必然的に次のことが起きるからである。すなわち、自分の肢体の中にある罪の法則の虜とされてしまうのである。しかし、キリストとの交わりの中に入って、キリストの中に住むことが信者の特権である。そして、われわれの命、清さ、力であるキリストの中で――その御霊によってわれわれの存在の各部にまで浸透できるキリストの中で――信者はもはや肉的ではなく霊的になる。もはや罪に打ち負かされて虜にされることはない。むしろ、罪と死の法則から解放されて、解放された状態に保たれる。罪の働きと力から解放されるこの祝福された経験は、絶え間なく継続的にキリストの中に住むことを意味する。

信者は自分自身を誇ることはできない。到達した清い状態を誇って、キリストご自身から離れて存在することはできない。信者は一塊の鉄のようである。溶鉱炉の中から出される瞬間、その冷たさ、硬さ、黒さが戻り始める。元の自然な状態に戻ろうとするその傾向性に立ち向かうものは、一度かぎり永遠にその鉄の中に造り込まれた御業ではなく、その鉄に対する火の絶え間ない継続的な影響である。

これが霊の命の中にある自由の法則である。罪の法則から解放されていても、それと同時に、自分自身の生まれつきの腐敗をますます深く意識するようになっていく経験を絶えずする理由――悪に対する勝利の生活を送りつつ、きわめて真実な謙遜の精神を持ち続けられる理由――を、われわれはこれによって理解することができる。

以下はエリコット司教の「英語読者のための新約聖書注解」から抜粋した、ローマ八章の冒頭の言葉に関する注解である。

それはこの書の五章の最初の区分とは次の点で異なる。両方とも再生されたクリスチャンの状態を描写しており、両方ともクリスチャンが交わりに入る最初の時から、不滅を享受する究極的な約束の時に至るまでの全期間を網羅しているが、五章はもっぱらこの期間の最初と最後の時に重きを置いており、八章はむしろ中間期全体を強調している。専門用語を用いると、一方は主に義認について示しており、他方は聖化について示しているのである。

ランゲ博士は、この同じ節に関して、その注解の中でこう述べている。

義認もしくは聖化との関連というこの問題が、「罪定め」という言葉の解釈にも影響を及ぼしてしかるべきである。なぜなら gar という言葉で始まる二節は、根拠を導入しているように思われるからである。この手紙におけるこの章の位置づけ、及び、その諸々の節の公正な釈義により、この語が聖化と関連していることがわかる。(義認と聖化をクリスチャン経験において切り離せないのと同じように、これは他方を全く排除することではない。)それゆえ、われわれは「罪に定められることはありません」という句を広い意味に理解しなければならない。