第三章 命

エバン・ホプキンス

「霊から生まれる者は霊です。」(ヨハ三・六)

「この川の流れる所では、すべてのものが生きます。」(エゼ四七・九)

「霊の思いは命です。」(ロマ八・六)

「キリストが私の内に生きておられます。」(ガラ二・二〇)

「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がります。」(ヨハ四・十四)

「わたしを信じる者は、聖書が述べているように、その腹から生ける水の川々が流れ出ます。」(ヨハ七・三八)

バビロンの城壁に由来するある見事なレンガには、その強大な王たちの一人の像が刻まれている。公共事業用のブロックの上に王家の印を刻印することが当時の慣習だった。この刻印の中央には、この混雑した都をさまよう犬たちの中の一匹の足跡が残っている。この特別なレンガが柔らかい状態で横たわって乾くのを待っている間、野良犬がたまたまそれを踏んだのである。王の刻印は全く判別できないのに、その犬の足跡は完全に見分けがつく。このバビロンの強大な支配者の名はわからない。犬の足跡がこの王の刻印を全く踏み消してしまったのである(ノートン)。

われわれはここに、人の現在の状態を示す一枚の絵を見ることができるのではないだろうか?人はもともと「神のかたちに、神の似姿にしたがって」創造されたが、今や人の性質は神の性格の道徳的美しさや完全さをもはや反映していない。人の性質の一部分――魂――においては、神のかたちは損なわれた。他方、別の部分――霊――においては、それは全く損なわれた。悪しき者の足跡がはっきりと見えるのである。

しかし、当初の刻印の形跡が全くないわけではない。聖書はそのような痕跡を、かすかではあるものの、異教徒の中にも認めている(ロマ二・十四~十五)。それでも、これがそうである一方で、神の御言葉は人について、全く堕落していて、「新創造」と称されるようになるほどの完全かつ徹底的な変化が必要であると述べている。人は「再び生まれなければならない」。

人は創造された当初、霊・魂・体から成っていた。聖書にはこう記されている、「主なる神は土の塵から人を形造り、その鼻の中に命の息を息吹かれた。すると、人は生ける魂となった」(創二・七)。

話の順番としては、最初が体の構築である。人は土の塵から造られ、陶器師が土を形造るように、神の御手によって形造られた。神は「命の息」を息吹かれた。しかし、「神は人を土から造り、命の息を吹き込まれた。これを機械的に理解してはならない。すなわち、神はまず塵から人の姿を構築し、次に、ご自分の命の息を人の姿に形造った土くれの中に吹き込むことによって、それを生きたものにされたかのように理解してはならない。(中略)神の全能の御業によって人は塵の中から生じた。この塵が創造的な全能の力によって人の姿を取った瞬間、それは神の命の息で満たされて生ける者に創造された。だから、体の方が魂よりも早かった、とは言えないのである」(デリチェ)。

「人は生ける魂となった」。nephesh chay というこの同じ句は、より低級な動物を指すのにも用いられているが(創一・二〇、二一)、「これは、人の内にある生命原理の基盤と、低級な動物の内にあるそれとが同じであることを、必ずしも意味しない。この両者の違いは、創造の仕方の違いから生じたように思われる。獣は全能者が地に向かって創造的な命令を発せられたときに生じた――完全体で生じたのであり、皆が生ける魂だった。しかし、人が命を受けたのは、息を吹き込むという神の独特な御業によった――神格のパースン全体からの伝達によったのである。実際には、人はそれによって低級な動物のように生ける魂に構成された。しかし、その生命原理は人の内に、低級な動物にはない人格を与えたのである」(デリチェ)。

人はわれわれが魂と称している部分を受けただけでなく、霊と称されている部分も受けた。人は低級動物のようなたんなる被造物の一個体ではない。人は人格を持つ者になったのである。この人格は二つの性質、動物的性質と霊的性質が邂逅する地点である。それゆえ、人は三つの部分――霊・魂・体――から成っていた。人格を持つ魂の中で結合している体と霊――これが神の御手から生じた時の人に関する真の人間観である。

しかし、堕落以降の人の今の成り立ちはどうか?人は今や生まれつき「咎と罪の中で死んでいる」と聖書は告げる。つまり、人の霊的性質に関するかぎり、神に対して人は死んでいるのである。見たところ、人の霊的性質がなくなったわけではない。堕落以降、人は体・魂・霊の代わりに体・魂になったわけでもない。なぜなら、人は神に対して死んでいる一方で、罪に対しては死んでいないからである。

しかし、それではユダ書十九節「…感覚的であって、霊を持っていません」はどうなのか?ここで述べられているのは聖霊のことである、とする解釈を受け入れるのを、われわれはデベットらと共に躊躇する。しかし、堕落した人は霊的性質を失ったことの証拠として、この節を強要することはできない。ディーン・アルフォードはこの御言葉についてこう述べている。「この人々は、自分たちの三部分性の一部としてのプネウマ(pneuma)を実際に持たなくなったわけではない。そうではなく、霊を持ってはいるが、その価値が全くなくなったのである。それは衰退してプシュケ(psuche)すなわち人格的命の力の下に落ち込んで、それ自身の実際の活力がなくなってしまったのである」。プネウマは「人を本質的に動物から区別するものである。それは神からの(神から発した)息であり、われわれの性質の中で最も尊い部分である。しかし、天然の人の場合、それは堕落以降、肉的・動物的命の中に隠されている。それは実効上、絶え間ない罪によって肉の下に沈んで埋没しているため、まるでもはや存在しないかのようである」(ランゲ「聖ユダ書注解」。付録の注記Cを見よ)。霊の事柄を理解する能力はすっかりなくなった。堕落により、人は神と交わる能力を奪われたのである。

それでも、堕落した人はあらゆる種類の罪を犯しうる――体と魂に関する罪だけでなく、霊に関する罪をも犯しうる。「霊的に邪悪なこと」を行いうる。したがって、人には依然として霊的性質があるにちがいない。

サタンは、人の悪を最高度に発達させるために、人の霊を必要とする。

それゆえ、人は霊的に死んでいるという言葉の意味を、われわれは、人は神と交わることが全くできない、という意味に理解する。この死の状態の中では、人は真に理想的な人間性に至ることができない。

では、このような状況にある人は何者なのか?聖書はこのような人をどう呼んでいるか?このような人は「天然的」であると表現されている。「天然の人は神の御霊に関する事柄を受け入れません」(一コリ二・十四)。このような人は魂的である。これがその人に到達可能な最高の状態である。その人は、その最も高度な性質が魂である人である。天然の人は魂の人である。天然の人は自分の魂によって支配されている。それ以上高く上ることはできないが、低く沈むことはできる。悪魔的になることもありえる。その人の霊の性質を悪魔が握ることもありえる。

この無能さの理由は明らかである。聖書はその答えを与える。「なぜなら、それらの事柄は霊的に識別するものだからです」。まさに事の性質上、これはそうでなければならない。これは、天然の人は霊の事柄を知ろうとしないということではない――知ることができないのである。

この問題をはっきり述べると、三つの大きな領域――感覚の領域、理性の領域、霊の領域――があると言える。

感覚の領域に属する事柄がある。低級な動物にも、人と同じように、これらの事柄を見て理解する器官が与えられている。触ったり、味わったり、見たりすることができる。これらの能力を、われわれと同じように、野獣も持っている。われわれはこれらの感覚器官により、物質界の実体的現実を確信する。

次に、理性の領域に属する事柄がある。ここでわれわれはより高次の領域に上る――低級動物の手の届かない領域の中に入る。人だけが、推論し、結論を下し、抽象的概念を理解する能力を持っている。人だけが道徳的義務感を持っている。

最後に、の領域に属する事柄がある。これらの事柄は「天然の人」――サイキカル(psychical)な人すなわち魂の人――の手にも届かない、と聖書は告げる。これらの事柄は霊の命に属するものであり、信仰によって把握されるのである。

盲人の手に望遠鏡を置いて、遠くの星や素敵な景色を見るよう命じることは可能である。しかし、その盲人は「何も見えません」とあなたに言うだろう。まあ、その証言は正しい。同じように不可知論者はあらゆる超自然的宗教について、「自分にはわからない」と主張する。その証言もまた正しい。しかしその盲人がさらに進んで、「自分には何も見えないのだから、見えるものは何もない」と主張するなら、その主張は正しくないし、その証言は無意味である。

天然の人が霊の事柄について意見を述べる時、その意見の価値はこのようなものである。

しかし、天然の人は霊的になることができる。霊的に盲目な人は視力を回復してもらえる。「無知な」不可知論者は、見て理解して知るようにしてもらえる。

霊的な性質の命を回復してもらうことは可能である。これは神の霊の働きによって実現される。しかし、どのようにしてか?その過程の性質はいかなるものか?

魂的原理を育んで、天然の人を成長させることによってではない。魂の中に眠っている能力によって、天然の領域から霊の領域の中に移る人は一人もいない。それは天然の器官を涵養することにはよらない。また、まるで霊的性質は下に埋もれているだけであるかのように、それを掘り起こそうとすることにもよらない。

霊が生かされるのは、上からの命の直接的伝達による。「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊です」「あなたたちは上から生まれなければなりません」。

それゆえ、神に対して生きているということは、この神の命を受けているということである。「さて、私たちが受けたのはこの世の霊ではなく、神からの霊です」(一コリ二・十二)。

この霊的性質の中に聖霊は住まわれる。この性質が生かされないかぎり、霊的養い、霊的指導、霊的訓練はありえない。なぜなら、どんな養いがそこにあるというのか?どんな指導がそこにあるというのか?どんな成長がそこにあるというのか?

しかし、神の命の分与のおかげで、霊的原理の成長と発展がそれに続く。そしてこれには、性格の漸進的造り変えが含まれる。

さて、この造り変えの性質について考えることにしよう。

もしわれわれが神の子供なら、われわれは「御子のかたちに同形化されるよう定められている」――これ以上に素晴らしい、慰めを与えてくれる思想は聖書のどこにもない。その完全な意味での実現は、まだ起こりえない。この似姿が完全になるのは、彼の出現の時である。「私たちは彼に似た者になります。ありのままの彼を見るからです」。

しかし、この同形化は未来にのみ属するわけではない。真の意味で、今起きるべきことである。これは、神の命が魂の中に入った後、段階的に進む変化である。われわれは「栄光から栄光へと同じかたちに」「変えられ」――造り変えられ――る(二コリ三・十八)。

これは、ソブリン金貨が王女の像を帯びているのと同じような、上辺だけの見せかけではない。女王の像が金貨に刻印されているのは、その金貨を貨幣とするためである。しかし、その金貨は女王のかたちをしていない。その上に刻印されているだけである。

造り変えは内側から生じる変化である。人の霊から始まり、段階的にその性質の各部にわたって進む。神の御子のかたちへのこの同形化は、性格の変化から成る。性格は一度に形造られるものではない。性格を形造るには時間と訓練、選択行為における意志の行使が必要である。

性格は行動の結果である。行動は状態の産物である。正しい行動は正しい状態の結果である。しかし、正しい状態が存在しうるようになるには、正しい性質・気質がなければならない。霊的成長にはこのようにこの四つの要素がある。

第一が気質である。新しい性質がなければならない。「咎と罪の中で死んでいたあなたたちを、神は生かしてくださいました」(エペ二・一)。信者はみな、生かされたのである。

すべてのコロサイの回心者たちにこれが言えることを、使徒は神に感謝することができた。「私たちを光のうちにある聖徒たちの嗣業にあずかるのにふさわしい者としてくださった神に感謝しています」(コロ一・十二)。聖さの段階的成長によって、「適合者」「資格者」になったわけではない。そのような思想を述べているのではない。「われわれを資格者としてくださった方」(ライトフット司教)とは――われわれを相続する資格のある者にしてくださった方という意味である。さて、地所を相続する資格のある者とは誰か?裕福な地主にどのように土地を手に入れたのか尋ねてみよ。彼はおそらく「それは買ったものだ」とあなたに言うだろう。祖国に顕著な貢献をした地上の偉人たちの何人かに、どうやって地所を手に入れたのか尋ねてみよ。おそらく彼らの答えは「自分たちの功績に対する報いとして地所を受けたのである」というものだろう。彼らは自分たちの財産を受け継いだわけではない。

相続人だけが相続できるのである。しかし、相続人になる資格は何か?才能や教育ではない。個人的努力や博識ではない。相続人になる方法は一つだけである。相続人に生まれなければならないのである。それは誕生によるのである。

それゆえ、信者たちに相続する資格があるのは、彼らが神の家族の中に生まれたからである。われわれはこの出生により「神の相続人、キリストと共同の相続人」になったのである。

このことのゆえに使徒は感謝しているのである。彼らは光のうちにある聖徒たちの嗣業にあずかるのにふさわしい者――すなわち、資格のある者――である。彼らには新しい性質がある。もしこれに欠けているなら、前進するのは不可能である。前進するために一歩たりとも踏み出せない。正しい行動を要求したり、クリスチャンらしい性格を伸ばす重要性を呼び掛けても無駄である。

しかし今やわれわれは状態に来る。霊的性質と霊的思いは異なる。クリスチャンはみな、御霊から生じた性質を有している。しかし、すべてのクリスチャンが霊の思いを持っているだろうか?

深い重要性を持つ文脈の中で「キリストの思い」に言及している三つの節を見ることにしよう。

「キリスト・イエスのうちにもあったこの思いを持ちなさい」(ピリ二・五)。これが述べているのは、自己に関して考える思いの状態である。それは自己を全く無視する思いだった。「彼はご自身を空しくされました」。徹底的自己抑制というこの線に沿って、彼は御父をあがめた。彼ははっきりと「わたしは自分自身からは何もすることができません」(ヨハ五・三〇)とわれわれに告げておられる。つまり、自分自身からは何一つできないということである。また、「わたしは自分自身では何もしません」(ヨハ八・二八)。あるいは、「わたしは自分からは何もしていません」。「わたしは自分で(あるいは、自分から)話しているのではありません」(ヨハ十四・十)。彼は僕の立場――子の立場――を取られた。子たる身分の観念はまさに依存の観念を含む。「完全な子たる身分は、意志と行動が御父と完全に一つになることを含んでいる。(中略)『わたしのうちにおられる御父が御業を行っておられるのです』(ヨハ十四・十)。正しい読み方によると、わたしのうちに住んでおられる御父が御業を行っておられる、ということである」(カノン・ウェストコット)。

今や、信者はキリストが歩まれたように歩むよう命じられる。この完全な自己否定の思いは、それゆえ、維持すべき状態である。「この思いを持ちなさい」。彼が御父のうちに御父に基づいて生きたように、われわれもキリストのうちにキリストに基づいて生きるべきである。

われわれが正しい状態にある時、自己ではなくキリストがわれわれの存在の中心を占有される。その時、彼は内側で王として妨げられずに統治される。筆者は、そう遠くない昔のこと、長年にわたってクリスチャンだった人が、以下の言葉を述べるのを耳にした。「私は、キリストが王であることを聞いてきました。確かに、キリストは私の中で治めておられました。しかし、それは立憲君主としてにすぎませんでした。私が首相だったのです。私が自分でかなりの働きをしていました。その後、キリストが絶対君主でなければならないことを私は見いだしました。そして今では、キリストが絶対君主なのです」。この思想にはなんと多くの内容があることか!この状態になんと多くのことがかかっていることか!ある意味で、すべてがこれにかかっているのである。

至高の天よりも高く、
 深甚な海よりも深く、
主よ、あなたの愛はついに征服なさいました。
今、私の魂の願いをかなえてください、
 「自分からのものが何もなくなって、すべてがあなたからになりますように。」
セオドア・モノド牧師

もう一つの節は「しかし、わたしたちはキリストの思いを持っています」(一コリ二・十六)である。使徒は福音や啓示された諸々の真理のことを、神の知恵、御霊の事柄として述べている。これらの事柄は神の霊から離れては知りえない、と使徒は宣言する。しかし次に、彼は読者に次のことを思い出させる。すなわち、彼らは神の霊を受けたのであり、それは彼らがこれらの事柄を知ることができるようになるためである。天然の人、あるいは再生されていない人は、これらの事柄を理解できない。「キリストの思い」を持つことは、霊的な思いを持つことである。

しかし、再生された人でも非霊的になる可能性がある。「天然の人」だけでなく信者ですら、「キリストの思い」を持たないおそれがある。コリントのクリスチャンたちは「肉的」――ただの「赤子」――になってしまい、もはや霊的に識別することができない(一コリ三・一。付録の注記B参照)と使徒は宣言したが、信者もそうなるおそれがある。

「キリストの思い」は、すべての霊的知覚、すべての神を知る知識の成長のために欠かせない条件である。聖書の中でわれわれに啓示されている「計り知れないキリストの富」を理解する鍵がここにある。この心の状態を持たなくなる時、われわれは霊的知性を持たなくなるか、神の教えを受け入れなくなる。

日毎の導きという問題にも、これと同じことがあてはまる。人生の絶え間ない出来事の中で神の御旨を迅速に理解するには「キリストの思い」が必要である。

「自分の義務だと信じていることに関して、ほとんど瞬間的な即断を下すことが必要になる時が、われわれの人生の旅路の中には無数にある。その分かれ道では、おそらく、友人の所に行く余裕や、真理に関する神託を聞きに行く余裕はほとんどないかもしれないし、自分自身の胸中の問題を熟慮する余裕すらないかもしれない。そのような時、正しいことを瞬時に知覚する能力は無上の賜物である。

さて、聖なる事柄に親しんでいる人々は、徐々に、どんな主題についても何が神の思いや御旨であるのかがわかるようになる。これは驚くべきことである。それは第二の霊的感覚の一種である。その過程を説明することはほとんどできないが、それがもたらす結論は概ね正しいものであり、外面的検討や熟慮よりも遥かに良いことがしばしばである。(中略)最初の考えの方が二番目の考えよりも良い。なぜなら、最初の考えでは人からのものがより少なく、御霊からのものがより多いからである。

その最初の考えがこのように信頼に足る人々とは誰か?この人々は愛と知恵の泉である御方と絶え間なく長く交わってきたことにより、この御方の観点から物事を見、この御方の基準によってそれを評価し、この御方の愛情を感じるようになったのである。そのため、彼らは『私たちはキリストの思いを持っています』と言えるのである」(ブライトンのジェームズ・ボーハン師)。

だから、霊的な思いを持てるようになるには、再生――新しい性質の伝達――が必要であると主張する一方で、新創造となった人でもこの世的な状態の中に落ち込むおそれがあることを忘れないようにしようではないか。「肉的な思い」を持つ者になるかもしれないのである。再生の人にはなりえないが、落するかもしれない。御霊の事柄を思うのをやめて、肉的な事柄を思っているかもしれない(ロマ八・五~六)。キリスト・イエスにある新創造となっている人々とはまるで無関係であるかのように、ローマ八章のこれらの節を読むことがないようにしようではないか。これらの節が指し示している心と思いの状態は、悲しいことに、神の子供たちの多くが頻繁に陥るものなのである。その結果は何か?霊の自由と力をすっかり失ってしまうことである。自分の存在中の法則に従うとき、自由を見いだす。神の性質にあずかる者として、もし自由でありたければ、われわれは神の性質にふさわしい状態に絶えずとどまらなければならない。

もう一つの節はこうである、「キリストが肉体において私たちのために苦しまれたように、あなたたちも同じようにこの心構えで自分自身を武装しなさい。なぜなら、肉体において苦しみを受けた者は罪を断ち切ったからです。それは、肉体における残りの時を、人の欲望のためではなく神の御旨のために生きるためです」(一ペテ四・一~二)。

「この心構えで自分自身を武装しなさい」――これはすべての罪からの聖い分離の状態である。われわれは罪のために苦しまれ御方の思いを身に付けなければならない。ここで注意すべき点は、この思いは死にかけておられたときのキリストの思いというよりは、むしろ、「肉体において私たちのために苦しまれ」キリストの思いだということである。この句はキリストの生涯の苦しみを指している。その理由はこうである、「なぜなら、肉に関して苦しまれたこの御方は、罪から免れていたからである」(ランゲ、注解)。「それゆえ、キリストの思いを身に付けて、キリストとの交わりの中にある者は、今後、これ以上罪に仕えてはならない」(同上)。

「キリストの思い」はこのように、誘惑の力に対するわれわれの盾となる。

これはみな、次の点と緊密に関係している。

振る舞いである。義務がしばしばとても困難であるだけでなくとても退屈でもある理由は、すぐにわかるだろう。その困難さや不快さは正しい状態の欠如から生じることが多いのである。

「もしあなたたちが協力的であって従順であるなら」。この二つの事柄の順序に注意せよ。協力的であることは神の思いと一つである状態である。この調和がない時、交わりがやんで力がもはや流れていない時、振る舞いは駄目になる。

振る舞いとは行動する意志にほかならない。神をあがめて、われわれを神の微笑みの中に保つ歩みは、神の意志と一つである意志の働きである。

自由とは律法からの自由――許可証――ではなく、律法の中の自由である。

律法を伴わない自由なるものがある。これが真の自由に関する天然の人の理想かもしれない。しかし「不法」は、神の判断によると、まさに罪の本質である。

律法の下にある状態もある。しかし、これは束縛の状態、律法主義者の状態である。

律法に対して取りうる第三の幸いな関係は、律法を造り込まれて自分の内に律法を持つことである。心という肉の板の上に神の御霊によって記してもらうことである。

自由とは勝手に振る舞うことではないし、支配されることでもない。厳密には、自制している状態にあることでもない。それは神の支配の領域内にとどまって、自分の中及び周囲に命の霊を持つことである。

その性質を伝達してくださる聖霊は、この状態をも生み出してくださる。そして、この状態からこの振る舞いを生み出してくださる。「御霊の実」(ガラ五・二二)からこれがわかる。第一に、われわれは自分の内に生み出される心の状態を持つ。すなわち、「愛、喜び、平安」である。内的・意識的祝福のこの状態が、あらゆる外的な実際的従順の前に、まず生み出されなければならない。聖霊が嘆くことなく――非難する者というよりはむしろ慰め主として――住んでおられる所では、これが味わうことを許される聖霊の実の最初の部分である。信者は多かれ少なかれ、神の愛の中に住むこと、神の喜びで満たされること、神の平安の中にとどまることがどういうことなのかを知ることになる。

この状態が、他者に対する実際的振る舞いの中にもたらすのは、「寛容、親切、善意」である。そのような振る舞いが、性格の建て上げの中にもたらすのは、「誠実、柔和、自制」である。

この最初の三者の中にあるのは内的気質である。二番目の三者の中にあるのはその外的現われ、最後の三者の中にあるのは個人的性格である。これは、神の御子のかたちへのわれわれの段階的造り変えにおける四番目の最後の要素を考察するよう、われわれを導く。

性格である。性質は瞬間的に伝達されるものである一方で、性格は徐々に建て上げることしかできないものである。それは絶えず進行中のものである。

継続的行いが諸々の習慣を形造るように、諸々の習慣が合わさって性格を形造る。「性格は確立された習慣である」。真に従順な行いはみな、クリスチャン的性格の形成に実際に役立つ。しかし、ここでは真の従順を強調することにする。われわれはしばしば、行動を外面的見かけから判断する。しかし、ご存じのように、従順は必ず二つの部分から成っている――外面的行いと内面的動機である。行いの真の価値はその動機にある。

「あなたは自分の中で進行しているこの静かな働きが何か知っているだろうか?ああ建設者よ、これらの大いなる都の中で建て上げられつつあるこの構造物全体について、あなたはこれまで考えたことがあるか?あなたを対象とするこの構造物ほど、速やかに且つ多くの手で建て上げられているのものは他にない。(中略)あなたの中には、そこにある別々の能力と同じくらいの数の熟練工がいる。また、そこにある感情や意志の別々の働きと同じくらいの数の打撃が加えられつつある。この働きは絶え間なく進行している。毎日、これらの無数の力がひたすら建設を続けている。ここでは一点一点、階から階へと、ある偉大な構造物が建設されつつあるが、あなたはそれに気づかない。それは性格の建て上げである。それは持ちこたえなければならない建物である。霊感された御言葉はあなたに警告している。それをどのように建て上げるのか注意せよと。持ちこたえる基礎が据えられているかどうか注意せよ、その基礎の上に建造するとき、自分が生きている時のためではなく、出現の時、あの試練の時のために、必ず建造するようにせよと。その時、あなたのしてきたことが明るみに出されて、ありのままのあなたが露わになるのである。」