第四章 自由

エバン・ホプキンス

「主の御霊が私の上におられる。貧しい人々に福音を宣べ伝えるように、私に油を塗られたからである。主は私を遣わされた。それは私が心の砕けた者を癒し、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力の回復を宣べ伝え、傷ついた者を解放し、主の受け入れる年を宣べ伝えるためである。」(ルカ四・一八~一九)

「主の霊がおられるところには自由があります。」(二コリ三・一七)

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします。」(ヨハ八・三二)

「完全な自由の律法」(ヤコ一・二五)。

「ですから、キリストが私たちを解放して下さったその自由の中に堅く立ちなさい。」(ガラ五・一)

「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い。」(マタ一一・三〇)

贖われた者たちはキリストとの交わりの中に召されているが、自由がこの交わりの生活の本質的特徴である。存在の本質は命である。幸福な存在の本質は、命の中の自由である。しかし、自由のない命もありうる。再生の御業がなされ、それゆえ新しい性質が存在していて、天から生じた願望がわれわれの生き返らされた霊から生じているかもしれないが、それでも、われわれの生活は決して自由ではないかもしれない。

キリストは命を分与するだけでなく、その解放――その展開と成長――のために必要なものをも与えて下さる。

奮闘は活力の真のしるしかもしれないが、しばしば束縛状態を証しするものでもある。自由になろうとする必死の努力は、われわれがもはや「咎と罪の中で死んで」いない証拠として捉えるべきである。しかし、そのような戦いを「信仰の良き戦い」と勘違いしてはならない。自由は目標ではなく、むしろクリスチャンの戦い――勝利するまことの戦争――の条件である。「抵抗する」ために戦って、「圧倒的な勝利者」となるには、われわれは「キリストが私たちを解放して下さったその自由の中に堅く立」(ガラ五・一)つことの何たるかを知らなければならない。

自由とは、命が妨げなく活動できることである。「その適性と全く合致して生き且つ動くことのできる存在、その能力を妨げや邪魔を受けずに行使できる存在、そのような存在だけが真に自由であると言える」(マルテンセン)。このためには、命――植物の命、動物の命、霊の命――はその適正な真の要素の中になければならない。そこでのみ、命は滋養と自由の両方を見い出すことができる。このように、植物には適切な土壌だけでなく、空気、湿気、陽光も必要である。周囲の環境が命を生じさせるわけではないが、それは命の拡大・成長に必要不可欠なものを与える。この妨げを受けない活動の中に自由が存するのである。

自然界においても、生き物はそれ自身の生来の要素の中で動き回れる時、自由である。鳥は大気の中で自由であり、魚は水の中で自由である。そのどちらかをその要素の中から取り出すと、自由はなくなってしまう。その要素の性格を変更・修正するなら、その生き物の命の自由を制限・破壊してしまう。

罪を通してわれわれは内なる命の原理を失った。また、その真の住まいである領域をも失った。回復とは、霊を生き返らされて、適切な環境の中にもたらされることである。「再生」されることは、このように生き返らされることであり、「キリストの中に」あることはその環境の中にあることである。それゆえ、霊的自由を知ることができるのは、命を持っていて、命の真の領域であるキリストの中に住んでいる人たちだけである。それゆえ、再生された人はみな、必然的に霊的に自由な状態の中にある、と当然視することはできない。回心がすべてではない。救いは、神聖な内なる生命原理を持つことを遥かに超えたことである。

真の自由に関するわれわれの経験に関連して、三重の解放があることがわかる。精神、良心、意志のための自由である。

精神のための自由。前述した自由の定義によると、人の知性や理解力にはそのための適切な環境が必要であることがわかる。自由であるためには、その真の領域の中になければならない。その領域とは真理である。創造された当初、人の精神は自由だった。人は真理の中に住んでいたからである。人を取り巻く道徳的・霊的環境の中には、人の精神と全く一致するものしかなかった。しかし、堕落以降、すべてが変わった。人の精神は、暗闇と無知と誤謬により、束縛の中にある。この状況にある人のことを使徒はこう描写している、「その理解力は暗くなり、その内なる無知と心の盲目さゆえに、神の命から遠く離れています」(エペ四・一八)。人はサタンの嘘を受け入れることによって堕落した。この行為により、人は真理を失った。真理を失ったので、人の精神は自由を失ったのである。

キリストはわれわれを回復して自由にして下さる。それは、われわれを真理の中にもたらすことによってである。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします」(ヨハ八・三二)。霊的に照らされる時、われわれはこのような自由を知り、理解する。それは夜明けのようである――光がわれわれの内なる存在に射し込み、われわれは自分が明るい領域の中にもたらされたことに気づく。自分の精神がその真の要素を見い出したことを、われわれは知覚する。大気が鳥に対して持つ関係、水が魚に対して持つ関係と同じ関係を、神の真理はわれわれの精神に対して持っている。鳥がその翼を広げるように、われわれの能力や器官も拡張する。そして、自由と拡大というこの新しい要素を見い出す。これはわれわれの魂を格別な喜びで満たす。

しかし真理について述べる時、この句はたんなる抽象的概念にすぎない、と理解してはならない。「私は真理である」と宣言された御方を思わなければならない。「その中に私たちは生き、動き、存在している」真理の生ける化身である御方を思わなければならない。救いをもたらす信仰はキリスト「の中へと信じ込む」ことを意味する。それは一つの領域から別の領域へ――暗闇から光へ――実際に移ることを意味する。それゆえ、われわれの精神の解放が実現されるのは、真理であるキリストにあってである。

良心のための自由。束縛は無知だけでなく罪からも生じる。良心にのしかかる咎のせいで、魂は自由をすっかり奪われてしまう。もし罪の咎と汚れが良心の上にのしかかっているなら、発言の自由、聖なる大胆さ、神の御前における自由を持つのは不可能である。「私たちの心をすすがれて、やましい良心から離れること」(ヘブ一〇・二二)が、「至聖所」の中に入るのに必要不可欠である。解放された良心は清められた良心である。これが実現される時、魂は平安な雰囲気の中に入る。良心がその自由を見い出すのは、この平安の中でである。しかし「キリストの十字架の血」によってのみ、これを知ることができる。キリストの死の意義を理解する時、われわれを神との和解関係の中にもたらしてくれるものとしてそれを受け入れる時、われわれは平安の意味を知る。次に、自分は平安の御業の上に立っているだけでなく、われわれの平安である御方の中にもたらされたことを、われわれは理解する。神の平安という雰囲気の中で、良心は自由を見い出す。

意志のための自由。ある思慮深い説教者は次のように述べている。「弱々しい人間的行動の原因を辿って行くと、感情が支配的であることに行き着く――感情があまりにも強すぎて、意志を押し流してしまうため、人の中にある統制力としての意志が損なわれてしまうのである」(カノン・ボイド・カーペンターの「ハルス講義」)。

人の意志は、生来、自由ではない。それは恐れや欲望の虜である。もしその情熱が悪いものなら、その人の意志は罪深い暴君の犠牲になる。自由なき光や知識もありうる。人はたとえ善を理解して悟ったとしても、苦しみや非難に対する恐れのゆえに、それを行うことから尻込みするかもしれない。これは束縛された状態である。人はたとえ悪を理解して、それを避けることが自分の義務であることを悟ったとしても、多かれ少なかれその中に含まれている悦楽のために、それに惹きつけられて屈服するかもしれない。このような状態からの自由はどのように実現されるのか?

意志が強められて、高尚な義務感により、自分の熱情の力に打ち勝てるようになったと仮定しよう。そのような人は真の自由の実例であろうか?確かにそうではない。

ある有能で活発な著者はこう述べている。「われわれは意志を用いることで、自分に何らかの行動をさせることができる。しかしこれは、進んでそのような行動をすることとは、まったく異なる」(カノン・モズリーの「大学説教集」)。意志にまず必要なのは、強められることではなく、解放されることである。意志はまず、その適切な環境の中にもたらされなければならない。そこで意志は自由を見い出す。それは弱いかもしれないが、意志の自由は決して些細な事柄ではない――そして自由にされたら、今こそ意志は強められることに備えなければならない。

その中で意志が自由を見い出す要素は、神の愛である。

自由に関する一般的定義――すなわち、「自分の好きなことをすること」――は、結局のところ、真理から遠くない。栄化された霊は自由であり、自分の好きなように振る舞う。しかし、その願望が聖いので、神が好まれることを行う。だから、人の愛情が清められて、神が喜ばれることを喜ぶようになるにつれて、その人はますます、自分の好きなことを行うことの中に自由を見い出すようになる。それゆえ、人の願望を清めるものは何であれ、人の意志を解放するのである。意志を自由にするには、意志は神の愛の雰囲気の中にもたらされなければならない。精神が真理である御方の中にその自由を見い出し、良心がわれわれの平安である御方の中に自由を見い出すように、意志は完全な愛の化身である御方の中に自由を見い出す。

「精神の最も高度で完全な道徳的状態は、良い行いをした時に喜ぶだけでなく、良い行いをすることを喜びとしている状態である。われわれは確かに、好むと好まざるとに関わらず、良い行いをしなければならない。そして、良心のために従わなければならない。渋々行ったとしても、それはまったく称賛に値する。そうするよう聖書は常にわれわれを促している。しかしそれは、善の側を好む性向と比べたら、依然として劣った道徳的状態である。というのは、この問題の真の性質を見るとき、そのような状態は隷属状態であると言わざるをえないからである。愛着がその働きに伴っておらず、くびきである義務に服しているにすぎない。その義務は上位の力や律法がその人に課したものだが、本来その律法はその人自身の良心を通して示されるべきものなのである」(モズリーの「大学説教集」)。

それゆえ、経験の二つの段階がある。両方ともクリスチャン生活の中に含まれる―― 一方は主に善の感覚によって、他方は愛の力によって生かされる。この二つの段階を二つの同心円で描写することができる――外側の円は義務の生活、内側の円は愛の生活を表わす。われわれは第一の円の中にいたとしても、第二の円の中にはいないかもしれない。しかし内側の円の中にいるなら、外側の円の中にいないことはありえない。同じように、もし「愛の中に住んでいる」なら、善を行うことがどういうことか、われわれは善自身のためだけではなく自分の性向からも分かるのである。この二つの状態のどちらが真に自由な生活なのかを見分けるのは難しくない。

「次の真実を認めなければならない。外見上、御霊の経綸に属している多くの人は、依然として内的に律法の下にある。それは、彼らは神の奉仕をまだ進んでしたがらない、という意味においてである。また、たとえ彼らが自分の義務をある程度行ったとしても、それは律法に従っているにすぎない、という意味においてである。罰に対する正しい適切な恐れからそうしているのであって、霊的な愛の原則に基づいているわけではないのである」(モズリー「大学説教集」)。

ゆえに、信仰がすべてを可能にする一方で、すべてを容易にするのは愛である。

しかし、愛が最も高度な類の自由の秘訣であるなら、愛とは何か?どこにわれわれはそれを探すべきか?どこからそれは来るのか?どうすればそれを知り、その中に住むことができるのか?

ある人は次のような見解を保持している。「愛の根源は人の心の奥底にある。それは神から受けたものであり、その上にのしかかる他の物の重圧を除きさえすれば、それは真に人の一部分として姿を現す」。われわれはこれに同意するだろうか?決して同意しない。

恐れを追い出してわれわれを自由にするこの愛は、人間的な愛ではない。この愛は、もともと人の中にあるものではないし、人の内側で休眠しているわけでも、ただ目を覚まして姿を現すのを待っているわけでもない。

「真空のように空っぽな体の上に、大気が重くのしかかっている。同じように神の律法と、律法によってご自身を啓示される神ご自身とが、内側に神を持たない人々の上に重荷のようにのしかかっている」(マルテンセン)。このような圧迫感は、彼らの内に神の家族としての愛が無い証拠である。

魂に必要なのは神の愛である。「神の愛」が「私たちの心の中に注がれ」なければならない(ロマ五・五。厳密には、「私たちの心の中の至る所に(throughout)」であって「私たちの心の中へと(into)」ではない―― en であって eis ではない。これは神の愛がわれわれの心の中に豊かに拡散することを示している。en はまた、この注ぎがなされる場所をも示している)。

「神の愛――これは、神に対するわれわれの愛でも、われわれに対する神の愛の感覚でもなく、われわれに対する神の愛そのものである」(ネール)。

フォーブス博士はこう述べている。「ここ(ロマ五・五)で述べられている愛は、われわれに対してたんに外面的に示される神の愛のことではなく、われわれの心の中に賜物として注がれている神の愛のことであり、他のキリスト教的恵み――忍耐と希望――と関連するものとして位置づけられている」(「ローマ人への手紙に関する分析的注解」)。

この神の愛は「神に対するわれわれの愛となる」(ランゲ)。神の愛をこのように心の中に注入する伝達手段は聖霊である。聖霊ご自身がまず魂の中に入り、次に、内側からわれわれに神の愛を知らせ、われわれの感情・目的・行動を形成する力としてそれを伝達して下さるのである(ビート)。

「注がれている」という表現は、伝達の豊かさを示している(ソラック)。この同じ御言葉についてピリピはこう述べている。「神の愛は露の滴のようにではなく、川のようにわれわれの上に下った。この川は魂全体に広がり、神の臨在と恵みの感覚で魂を満たしたのである」。

この同じ文脈の中で、もう一つのさらに素晴らしい節が聖ヨハネ福音書の一七章にある。主の執り成しの祈りの締めくくりにこう記されている。「そして私は彼らにあなたの御名を告げ知らせました。これからも告げ知らせましょう。それは、あなたが私を愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、また私も彼らのうちにあるためです」(ヨハ一七・二六)。ここでもまた、この愛は神ご自身の愛にほかならないことが述べられている。神の愛の内住という真理が告げられているのである。「われわれに対する神の愛が、われわれの内にあるようになる時、それは磁鉄鉱が磁針に与える効力に似ている。自ら北極の方を向くようになるのである」(ランゲ)。ウェストコット博士はこう述べている。「このような完成が可能なのは、御子ご自身が彼らの中におられる事実のおかげである」。「信者たちを照らす神の愛は、汚れたものを照らすことはない。なぜなら、それは実際には、イエスご自身、彼らの内に生きておられるイエス、キリストと一体化されてその聖なるかたちを反射している彼らを照らすからである」(ゴデット)。

同じように聖ヨハネの手紙の次の節も理解しなければならない。「見よ、何という愛を御父はわれわれに授けて下さったことか」(一ヨハ三・一)。「まるでこの意味が『見よ、何という愛を御父はわれわれに対して現わしてくださったことか』であるかのように、これらの節を読む人が何と多いことか。しかし、この御言葉が告げているのは、愛の提示を超えたことである。神の愛の完全な力は、それ自身をわれわれに分け与えて、われわれのものになったのである。これはわれわれに対する無代価の賜物である。神の愛の特別な現われだけでなく、この愛そのものがわれわれに与えられているのである」(ハウプト)。あるいは、ある人の言によると、「神はご自身の愛をわれわれの所有物として下さったのである」(マイヤー)。「神は愛を示されただけでなく、愛そのものを与えて、われわれ自身のものにして下さった。完全にそれをわれわれに与えて下さったので、神の愛は今やわれわれのものである」(ランゲ)。ウェストコット博士はこの御言葉について、その聖ヨハネの手紙の注解の中で、こう述べている。「この愛は信者たちに示されているだけでなく、彼らに分け与えられている。神の愛が、言わば、彼らの中に注入されているのである。それは、それが彼ら自身のものとなって、彼らの中で神の命の源となるためである(ロマ一三・一〇)。それゆえ、この賜物のおかげで、彼らは神の愛のような愛で鼓舞される。そしてこれにより彼らは、神の性質にあずかる神の子供としての身分を真に主張できるのである」。

次に、この同じ手紙の四章の素晴らしい御言葉がある(一ヨハ四・一六)。それについてウェストコット博士はこう述べている。「信者の性質は神の性質に同形化されなければならない。(中略)神の性質そのものから、必然的に次の結果が生じる。すなわち、自己をささげる生活が神との交わりの生活になるのである。(中略)『愛の中に住んでいる者』――この領域の中でその人の生活が完成される――は、『神の内に住み、神もまたその人の内に住まわれます』。このように愛の中に住んでいる者は、よみがえって天の位に達し(コロ三・三)、地上の働きを成し遂げるための、神との交わりの力を見い出したのである」。

霊的生活について深く学んだある人はこう述べている。「聖ヨハネがここで述べているのは、われわれの救いの方法ではないことを注意深く見分けなければならない。彼は手紙の受取人が救われていることを前提としている。その直前で何が述べられているのかに注意せよ。『イエスは神の御子であると告白する者は誰でも』――これは救いであり、この信仰の告白は救いである――『神はその人の内に住んでおられ、その人も神の内に住んでいます』――これは合一であり、信じて救われた結果である。この合一は御子との合一であり、御子による御父との合一である。(中略)『愛の中に住んでいる』というのは、とても力強い雄弁な言葉である。愛の住まいなのである。そして、この愛の住まいの約束はさらに素晴らしい――すなわち、神がわれわれの住まいとなって下さるのである。それから、さらに驚くべきことに――われわれは神の住まいとなるのである。愛の中に自分の住まいを築いた者は、神を自分の住まいとしたのであり、神もその人をご自分の住まいとされたのである」(ブライトンのジェームズ・ボーハン師)。

神の愛のこの住まいの中で意志は自由になる。その時、「神が人の意志の要素となる」(デリチェ)。われわれの住まいが神であることを見い出すことにより、外的制限という束縛は終わる。これはたんなる理想ではない。経験できるものである!これは「キリストの満ち満ちた祝福」であり、それをわれわれは今生の地上でも知ることができる。真理・平安・愛は、精神・良心・意志以上に現実なのである。

われわれの存在の各部分をその真の環境の中にもたらすことにより、御霊はその解放の御業を成就される。たんなる義務にすぎない生活は、こうして自由と喜びの生活に造り変えられる。願望を部分的にしか清められていない人の事例を考えよう。神との平和をこの人は知っており理解している。しかし、自由に欠けているせいで、悲しいことにこの平和は損なわれてしまう。絶え間ない戦いや失敗の繰り返しにより、生活から喜びがすっかりなくなってしまう。このような人は、戦いはクリスチャン生活の特徴の一つである、と教わる。彼はさらに、神の御言葉から、自分は「信仰の良き戦いを戦う」よう召されていることを学ぶ。そして、十字架の兵士となるために、「神のすべての武具を身に着け」なければならないことを学ぶ。それゆえ、戦いは生じてしかるべきものであることを、彼は聖書からはっきりと見る。

しかしこのような人は、自分が経験している戦いはキリスト者の戦いであると、あまりにも性急に結論付けることが何と多いことか!彼は戦いと反逆を区別していない。意志が完全には明け渡されていないかもしれないのである。意志が何らかの悪い願望の影響下にあるかもしれないのである。

このような状態にある魂には、真の平安や自由はない。意志が強くて、激情をうまく制御している事例も考えられる。あなたはどうだろうか?あなたは外面的には悪を避けて善に従っているが、喜びと自由のない生活を送っているのではないだろうか。ここに良心的に歩んでいる人がいる。それは確かである。しかしその人は、神の奉仕における真の喜びと自由を何も知らない。

良心の力と意志の力が、多くの場合、激情を抑えておけるほど十分に強いため、外的違反を犯すことは概ねないかもしれない。また、大いなる熱心さと活発さで神のために働いているかもしれない。しかし、ああ、内側では何という圧迫と絶え間ない束縛を感じていることか!キリストのくびきが絶えず圧迫しているように感じるのである。それは容易ではないし、キリストの荷は軽くもないことを見い出すのである。

さて、このような人がさらに豊かな深い聖霊の御業の力の下にもたらされたとしよう。神の真理がその人の精神を解放し、神の平安がその人の感情を解放したのと同じくらい、神の愛がその人の願望を聖めたとしよう。するとどうなるのか?彼の全生涯はすっかり変わってしまうのである。彼は善を愛し、その卓越性を知ることを喜び始める。それゆえ、それを行うのは容易であることを、彼は今や見い出す。彼は神が命じられることが好きになり始める。自分の好きなことを行うのは決して難しくない。その時、彼は自分の経験によって、「主の命令は苦痛ではありません」という御言葉の正しさを見い出す。

それゆえ、主の奉仕における自由と喜びの秘訣はここにある。

自分の魂を満たす神の愛としてのキリストを持つことができる、というこの輝かしい事実を理解するよう努めよ。石膏の箱が家の中にあるのに、その存在に誰も気づかないかもしれない。それと同じように、キリストは長いあいだ弟子たちの多くと共におられたが、彼らはキリストを知らなかった。すなわち、彼らはキリストの輝かしい豊かさについて比較的無知だったのである。しかし、その箱が壊されて、油が注がれるやいなや、その香りは家を満たした。同じように神の愛が聖霊によって注がれる時――キリストの内に蓄えられている神の愛の無限の宝が開かれて、われわれの内に啓示され、聖霊によってわれわれの心の中に注がれる時――その征服し、解放し、造り変える影響を、ただちに理解して感じるようになり始める。それがわれわれの思いや願望の上に働いて、それを清めて純粋にするのが分かるようになる。その時、われわれの祝された主が「幸いなるかな、心の清い者たち。彼らは神を見るからである」(マタ五・八)と仰せられた時に言わんとされたことを、われわれは学び始める。

しかし、「どうやってこの愛を得るのですか?」と尋ねる人もいるだろう。ある人はこう言った。「魂が直接自分に働きかけることによって愛を生み出すことはできない。人が船の中から船を押しても、船を動かすことはできない」。

努力や苦闘によって、この幸いな状態を生じさせることはできない。まさにこの目的のために、そしてこれを特別な目標・目的として目指しつつ、われわれ自身を真に神にささげることによるのである。その御前に静かに横たわれ。あなたの存在のすべての通路を開け。そして、神に中に入って来てもらって、すべての部屋を所有してもらえ。特に、あなたの心――あなたの願望の座、あなたの愛情の王座――を神に与えよ。すべてを神に明け渡せ。そうすれば、主が中に入って来て、ご自身と共にその恵みと栄光のすべての富をもたらし、あなたの義務の生活を自由と愛の生活に変えて下さる。