第五章 聖化

エバン・ホプキンス

「しかし私たちはみな、覆いのない顔で、鏡のように主の栄光を見つめつつ、主と同じかたちに、栄光から栄光へと変えられていきます(変えられつつあります)。それはまさに主の霊によります。」(二コリ三・一八)

「聖める方と聖められる者たち(聖められつつある者たち)は、みなひとりの方から出ています。」(ヘブ二・一一)

「なぜなら、彼は一つのささげ物によって、聖められた者たち(聖められつつある者たち)を永遠に完成されたからです。」(ヘブ一〇・一四)

「私はあなたたちの神、主である。それゆえ、あなたたちは自分自身を聖別し、聖とならなければならない。私は聖だからである。」(レビ一一・四四)

「肉と霊のすべての汚れから自分自身を清め、神を畏れて聖潔を完成しようではありませんか。」(二コリ七・一)

「自分自身を神にささげなさい。」(ロマ六・一三)

「あなたたちの体を生きたいけにえとしてささげなさい。」(ロマ一二・一)

「このイエスは、神から私たちに与えられた(中略)聖別となられました。」(一コリ一・三〇)

「彼らのために私は自分自身を聖別します。それは彼らもまた真理を通して聖別されるためです。」(ヨハ一七・一九)

この重要な主題に関して、賢明な信者の思いの中にさえたびたび生じる混乱を避けるために、聖書の中で考察されている聖化の異なる時制を区別しなければならない。われわれは思い切ってこう考える。すなわち、この問題が困難な一つの理由は、同じ真理の異なる面がたびたび混同されていることなのである。われわれはこの区別をはっきりと認識しなければならない。例えば、過程としての聖化、献身の行い又は姿勢としての聖化、賜物としての聖化という三つの事柄をはっきりと認識しなければならない。この第一の聖化について考えることにしよう。これは時間的に最初のものではないが、最もよく理解されているからである。

一.聖化は一つの過程であると考えられる。つまり、再生の後、聖霊によって信者の魂の中でなされる一つの御業であると考えられる。再生と更新の両方とも、聖霊がその創始者である。しかし、この二つは同じではない。再生は、神の命が瞬間的に魂に伝達されることである。これは段階的ではありえない。信者の間で再生の度合いが異なる、ということはない。「しかしこの聖化の御業は漸進的であって、異なる段階がある。ある人は、たとえ全く聖められているわけでも、全く聖いわけでもなくても、別の人よりも聖められていて、より聖いかもしれない」(オーエン「聖霊の御業について」)。

しかし、聖霊がどのように御業を遂行されるのかを調べるつもりはわれわれにはない。われわれの今の目的は、この御業の主な特徴を聖書から解明することである。

例えば、二コリント三・一八のような節から、これは段階的・漸進的であることがわかる。この御言葉の記述によると、われわれの霊的造り変えは依然として進行中である。「私たちは主と同じかたちに、栄光から栄光へと変えられていきます(変えられつつあります)。それはまさに主の霊によります」。ここで記述されているこの変化は、キリストへの段階的同形化であり、この今の人生の間に起きる。これはたんなる性格の再形成以上のものであり、たんなる道徳的修養や訓練よりも高いものによって生じる。それは変容である。この言葉は四つの箇所に現れる(マタ一七・二、マコ九・二、ロマ一二・二、二コリ三・一八)。この変化の性質が、われわれの主の変容の時に起きたことの中に示されている。「この光は外側から主を照らしたのではなく、主の内側から発したように思われる」。主は天の栄光でことごとく照らされた。それゆえ、信者が段階的に聖化されていくときに生じるこの変化は、内側から働く神の力の美徳による。「自分の時代の型や様相によって自分の思いを発達させられる代わりに、信者は自分自身の中に新しい命の源を受ける。(中略)内側からであって、外側からではない。思いからであって、この世からではない。新しいものの誕生によるのであって、古いものの成長によってではない。こうして人間性のすべての面が造り変えられるのである」(ワース)――内側から働く命の力によって、芽が花に、花が実に、ドングリがオークに造り変えられるのと同じである。この力は元々人の中にはない。それは、これまで抑えられてきて、解放しさえすれば、この造り変えを生じさせる、という力ではない。この変化の創始者は聖霊なる神である。内住する神の霊だけが、堕落した人を神のかたちに回復して、神の性質にあずかる者とするのである(二ペテ一・四)。

聖化は、この観点から考えると、一つの過程であることがわかる。これはまた、すべての霊的発達・成長の性質でもある――信者の内側から新創造が漸進的・段階的に発達するのである。

さて、次のことは明らかである。この意味におけるわれわれの聖化は、今生でさらなる発達がありえなくなる点に達することは決してない。それゆえ、それは決して完全であるとは言えない。神のかたちがさらに豊かに現わされる余地がある限り、この働きが完成されたとは言えないのである。

二.しかし、聖化を別の観点から見ることもできる――姿勢として見ることができる。われわれ自身の個人的状態や行動との関係において見ることができる――それは一方において、自分が知るすべての罪から個人的に離れることであり、他方において、神に自分をささげることである。聖さの根本思想は分離である。邪悪で不純なものから自分自身を分離する時、人は自分自身を聖める。「私はあなたたちの神、主である。それゆえ、あなたたちは自分自身を聖別し、聖とならなければならない。私は聖だからである」(レビ一一・四四)。それゆえ新約聖書にも、すでに神へと分離されている者たちへの勧めがある。「肉と霊のすべての汚れから自分自身を清め、神を畏れて聖潔を完成しようではありませんか」(二コリ七・一)。

聖化のこの面は、神に対して献身する個人的な決定的行為と見なすことができる。この最初の行為に続いて、服従の習慣・姿勢が形成される。そして、前進するにつれて、神への献身の徹底性が深まり増し加わる。

われわれは「服従」という言葉を、このような個人的献身を含むこの主要な観念を表わす言葉として用いることができる。それはわれわれの前に、聖化の教理の人間的な面と称しうるものを示す。

ローマ人への手紙の一二章の中で、使徒はすでにクリスチャンである者たちに「あなたたちの体を生きたいけにえとしてささげなさい」と懇願している。使徒は何を言わんとしていたのか?「ささげる」ことは「服従する」ことである。この同じ言葉が六章一三、一六、一九節にも現れる。さて、服従するとはどういうことか?それは抵抗するのをやめることである。御霊によって生かされている人たちの中にも、神の御旨に対する抵抗が存在するおそれがあることを、自分自身の心を少しでも知っている信者なら否定できない。この抵抗は、信仰の行使を邪魔する主な障害物の一つである。ペニエルにおけるヤコブがそうだった。「その場所でひとりの人が夜明けまで彼と格闘した」。ヤコブに立ち向かった者、ヤコブが抵抗した者は誰だったのか?それは主ご自身だったのであり、主が御手をヤコブの上に置かれたのである。

神はヤコブを見捨てたことはなかったが、ヤコブはパダン・アラムに滞在している間、もっぱら自分の意志に従っていた。二十年前、彼は素晴らしい幻を受ける恵みにあずかった。その幻の中で、神は彼に、祈りによってご自身に近づく方法、神からの祝福を人にもたらす方法を啓示された。仮にヤコブがベテルで何も学ばなかったとしても、彼は少なくとも自分の保護者・供給者・案内者である神を見た。そしてこの幻に促されて彼は一つの誓いを立てた。「神が私と共におられ、私の行くこの道で私を守り、食べるパンと着る着物を与え、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、私は主を私の神とします」(創二八・二〇~二一)。しかし、この二十年間、彼はどうだったか?彼はラバンと共に滞在して、以前自分の兄や父と共に従った道――卑しい偽りの道――をそこでも辿ったのである。神は諸々の試練を彼に送り、この年月のあいだ彼と争って、彼の道の邪悪さをその記憶と良心に呼び覚ましておられた。しかし、ヤコブは依然として同じヤコブのままだった――押しのける者のままだった――ヘリくだることも砕かれることもなく、肉的な方針や自己追及に満ちていた。

しかし、今や転機が訪れた。ヤコブの意志は砕かれなければならない。この争いにおいて、格闘するヤコブをすがりつくヤコブと混同してはならない。彼が格闘している限り――すなわち、抵抗している限り――この争いは続いた。しかし遂に抵抗は止んだ。

「ヤコブに勝てないのを彼(主)がご覧になった時、彼はヤコブのもものつがいにさわった。すると、ヤコブのもものつがいが、彼がヤコブと格闘している間に外れた」(創三二・二五)。抵抗する力は今やすっかりなくなった。

ヤコブの人生のこの一コマは、多くの神の子供の人生にもあてはまる。彼らに対する神の取り扱いの中に、何と多くの同様の転機を辿れることか!

抵抗する力――それは自己の意志である――は砕かれ、すがりつく力――それは信仰である――が今や生じる。それゆえ、もものつがいが外れた瞬間、ヤコブはもはや格闘しないですがりつくのがわかる――もはや敵に抵抗する敵対者ではなく、「あなたが私を祝福して下さらない限り、私はあなたを去らせません」と熱心に乞う嘆願者となったのである。

ヤコブが勝ったのはこの力によってだった。信仰の象徴としての、このすがりつく行為について、ホセアはこう言及している、「彼は力を尽くして神と争った。まことに、彼は御使いと争って勝ったが、泣いて彼に嘆願した」(ホセ一二・三)。

これによりわれわれは次のことを学ぶ。勝利の信仰によってすがりつくことを願うなら、まず全き従順の霊の中で服従しなければならないのである。抵抗するのをやめない限り、すがりつくことはできない。

しかし、服従することは保留するのをやめることをも意味する。「わが子よ、あなたの心を私に与えよ」。言い換えると、霊と魂だけでなくあなたのすべての肉体の力をも、神に完全に所有してもらえ、ということである。すべての肢体を神に明け渡せ。「人の本質的状態は三つの同心円からなる。内側の最も深い部分である霊、内なる魂、外なる体である」(デリチェ)。もしこれを認めるなら、神への実際的献身がどのように進むのかがわかる。服従することは、何も保留しないことである。生かされた霊は魂だけでなく体をも主にささげる。「ですから、兄弟たちよ、あなたたちに懇願します。(中略)あなたたちのをささげなさい」。思いと体のすべての力を主の奉仕にささげて、主の守りに委ねるのである。

「この節(ロマ一二・一)は内なる人を祭司と見なしている。この祭司は祭壇の上に死んだ羊の体ではなく、自分自身の生きた体を置く。(中略)われわれの体は今や、ユダヤ人の考えによると、青銅の祭壇の上に置かれた動物に関連する聖なるものである。(中略)神にささげることにより、いけにえの動物と同じように、われわれの体はとなる(出二九・三七)。これ以降、体はただ神の御旨を成し遂げるためだけに存在する」(ビート)。

さらにまた、服従することはもがくのをやめることをも意味する。もはや自分自身を維持しようとはしない――沈まないように精力的に努めようとはしない――むしろ、われわれを倒れないように守ることのできる御方にすべてを委ねるのである。

しかしこの服従は、反対もあるかもしれないが、確かに一度きりの行為ではない。この行為がどれほど明確で真実なものだったとしても、これは絶えず繰り返す必要があるのだろうか?仮に後退してしまった場合――自分自身をささげておきながら、後でこの贈り物を反故にしてしまった場合――われわれの答えは、もちろん、繰り返しが必要である、というものである。しかしこれは確かに、われわれが召されている生活ではない。自分自身、霊、魂、体を彼にささげた以上、われわれが今なすべきは、日毎にこの行為を承認・確認することである。こうして、かつて決定的に成し遂げられたこの行為は、常に維持された姿勢となるのである。

ある有能な注解者(デイビッド・ブラウン博士)がこの献身の行為について述べていることは興味深い。「ここで(ロマ六・一三)一つの時制から別の時制へと、意義深い移行がなされていることがわかる。最初の節『あなたたちの肢体を不義の道具としてささげてはなりません』では現在時制が使われており(paristanete)、これは人々の昔の習慣的行いを表わしている。次の節『しかし自分自身を神にささげなさい』ではアオリストであり(paristesate)、これは自分を明け渡す一度きりの行為を示唆している。この明け渡しを、刷新された信者は、死から命に移るとき直ちに実行する。そして、この行為を信者はその後の全生涯にわたって絶えず承認し続けるだけでよいのである」(「批判的・経験的注解」。付録の注記Dを見よ)。

しかし、この重要な注釈に対しては、次のような問いをするだけで十分である。「ローマのこのクリスチャンたちは回心のとき直ちに自分自身を神に明け渡した、ともし使徒が確信していたなら、どうして、この明確な献身を彼らに対してこれほど熱心に勧める必要がある、と彼は思ったのだろうか?」。実際には、このクリスチャンの回心者たちはみな、神に対する実際的献身の状態の中を真に歩んでいる、と使徒は見なしていなかったし、当然視してもいなかったのである。

この主題のこの面を見る時、われわれは極めて重大な意義を持つ二つの点に気づく。一つ目の点は意志の状態であり、二つ目の点はわれわれの信仰の姿勢である。まったく主のものになること――自分の意志を去らせて、それ以降、キリストが私を導き、私のために計画を立て、私に対してあらゆることでご自分の道を進んでもらうようになること――は、われわれが生来とても執拗にしがみついている多くの道や物事から切り離される覚悟をすることである。それは、キリストに心を丸ごと所有してもらって、そこで至高の支配者となってもらうことである。もしわれわれが何かを保留しているなら、意志は実際には明け渡されていない。もしわれわれの小船を浜辺につなぎとめている綱が一本でもあるなら、われわれは自分の停泊地をまだ手放していない。われわれは自分を陸につなぎとめている多くの係留索を「ほどいた」かもしれないが、もし綱が一本でも残っているなら、われわれは依然として堅く縛り付けられている。実際的献身という意味では、われわれはまだ完全には主のものになっていないのである。

しかし、これがなされて、光によって見えるようにされた範囲内で、すべてが祭壇の上に置かれたとしてみよう。この時、信仰の問題が生じる。

自分の信仰に対するあなたの姿勢はいかなるものか?義認に関しては、あなたはもはや求めておらず、安息している。義認に関して、もはや心配そうに祈ってはいない。むしろ、感謝に満ちて主を賛美することができる。この必要はすでに満たされている。

それでは、主は聖化に関するあなたの必要も満たせるのではないだろうか?この点に関するあなたの今の絶えざる必要は、今の絶えざる備えだけが満たせる。この備えはキリストの中にある。求めるようわれわれに命じている御方は、受け取るようわれわれに命じてもおられる。信頼の姿勢の中にあることは受容的であることであり、受容的であるとき、われわれには不足しているものが何もないことがわかる。なぜなら、キリストはわれわれの聖別だからである。しかしこれは、この主題に関する考察で次に考えるべき点である。

三.最後に、聖化は、その最も完全な意味によると、一つの賜物である。

神の臨在の中にとどまるために、聖さ以上に必要なものは何もない。われわれに必要なのは、諸々の罪の赦しだけではない。平安だけでは不十分である。われわれのために福音の中に備えられているのは、われわれを神に受け入れられる立場に置いてくれる完全な義だけではない。神の似姿……心の同形化……性質の合一もなければならない。

しかし神は、ご自分が要求されるものを、まず備えて下さる。「すべては神からです」――これが恵みの主要な特徴の一つである。そして、信者の成長の各段階を、恵みが特徴づけている。罪からの救いが可能なのは、われわれが自分で何とかするよう放置されていないからにほかならない――われわれの功績、われわれ自身の努力、われわれ自身の能力で何とかするよう放置されていないからにほかならない。彼は「あらゆる恵みの神」である。神の諸々の要求に自分自身で応じなければならないかのように振る舞う瞬間、われわれは恵みの立場を捨てるのである。

救いは恵みによる。なぜなら、それは賜物だからである。それはみなキリストの中に含まれている。

さて、聖くなければ誰も主を見ることはできないことをわれわれは知っている(ヘブ一二・一四)。しかし、キリストは罪人を、その人が地上にいる最後の瞬間でも救えると、われわれは信じている。聖さを聖霊によってわれわれの内になされる一つの過程・御業としてのみ考えると、それとは別の結論に導かれる。合理的に次のように問うことができるだろう。「もし聖くなければ誰も主を見ることができないなら、あの悔い改めた盗人のように、十一時にキリストのもとに来た人たちはどうなるのですか?」。彼らには聖さにおいて成長・発達するための時間や機会はなかったのである。

しかし、この困難は「聖書における聖さの意味は何か?」と問うよう人を導く。それが聖霊によってわれわれの内になされる御業を指すことがしばしばあるのを、皆が認めなければならない。しかし、キリストご自身が神によって私たちに対する義だけでなく聖別ともされたことを、神の子供たちの多くが理解しそこなっている。神の最大の賜物の一つ――それは神の「言い尽くせない賜物」と関係している――は聖さの賜物である。

しかし、聖さとは何か?聖さの意味を神はどのようにわれわれに教えておられるのか?神はわれわれに抽象的な定義――たんなる言葉の意味――を与えておられるのだろうか?否、神は御子をわれわれに送って下さるのである。神はわれわれの前にひとりのパースン、生ける化身、聖さに関する神ご自身の理想を据えて下さるのである。

イエスは完全な人に関する神の観念である。その地上生涯は、神聖な聖さに関する神の理想が真の人間性において出現・発現するのを、われわれの前に示す。

神が御子を送られたのは、すべての義を成就してご自分の義なる律法の要求を満たす「義なる者」とするためだけではない。神が御子を送られたのは、御父の心の願いをことごとく満足させる「聖なる者」――御父が絶えず喜ぶことのできる者――とするためでもあった。

しかし、どのようにキリストはわれわれに対する聖別となられたのか?キリストご自身が「彼らのために私は自分自身を聖別します。それは、彼らもまた真理を通して聖別されるためです」(ヨハ一七・一九)と宣言しておられる。あるいは、聖別を可能にするために、キリストはご自身を聖別されるのである。キリストはここでわれわれの前に、ご自身の聖別の漸進的な面を示しておられる。すでに彼は御父によって聖別されていた。「父が聖別された者のことを、あなたたちはどう言うのか」云々(ヨハ一〇・三六)。しかし彼がいま述べておられるのは、御父の御旨に対するご自身の個人的献身のことであって、これによってご自分を信じる者たちの聖別が確保されるのである。

ご自身との生ける合一の中にもたらされるべき人々の中に続けて展開・発達させたいものを、キリストはまずご自身の中で実現される。彼らの聖さは、彼ご自身の中で成就されつつあった聖さと、本質的に同じでなければならない。

ここで次の点を心に留めることが重要である。「聖別することは、清めることと同義ではない。自分自身を清めることは、その人が汚れていることを意味する。自分自身を聖別することは、魂と体の天然的な能力を、それらが生じたら直ちにささげることにほかならない」(ゴデット)。

最初から絶対的に聖なる者だった御方が、われわれの聖さとなって下さった。最初から絶対的に完全だった御方が、完成された者になられた。キリストは、試練と苦難を通して、われわれの中で後にそうなることを願うものに自らなられた。つまり、聖別となられたのである。キリストを信じる者たちの聖さは、彼ご自身の内住の結果・産物であるべきである。

それゆえ、こう記されている。「彼は受けた苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブ五・八)。これが意味するのは不従順から従順への移行ではなく、現実の人間生活の諸々の試練や苦難に関して、彼ご自身のパースンと経験において、神への全き献身の原則が発達したということである。これによって彼はわれわれの救いの君となられたのである。「彼は完成されたので、永遠の救いの源となられました」(ヘブ五・九)。イエスが「救いの指揮官」として歴史的に「完成」されたのは、そのパースンにおいてであり、次のような方法によってである。すなわち、人の試練と苦難の道を実際にくぐり抜けることによってだったのである(付録の注記Eを見よ)。

彼は信仰の全領域を横断された。はしごの最も低い段から最も高い段まで登られた。全行程を通り抜けられた。彼は信仰の指揮者であり完成者である(ヘブ一二・二)。彼は信者全員に先立って行かれた。彼は信仰の人生の王者的指導者である。彼は信仰の真の理想を成就するために来られた。彼はそれを教訓によって教え、たとえ話によって描写し、奇跡によってそれを奨励しただけでなく、ご自身の生活でその模範を示されたのである。

彼は完全な信仰を示す者となられた。試練がなければ、信仰を示すことはできない。試練が臨まなければならない。「あなたたちの知っている通り、信仰が試されることによって、忍耐が生み出されます。そして忍耐を完全に働かせなさい。それは、あなたたちが欠けたものの何もない、完全な、成就された人となるためです」(ヤコ一・三~四)。

それゆえ、模範・見本であるキリストが「救いの源」ともなられたのは、外側の源としてだけでなく、内住の命としてでもあったのである――この内住の命はわれわれの個人的造り変えの活力である。そして彼は「ご自分に従う」すべての人に対して、この内住の命となって下さる。彼ご自身が目標に達したからこそ、彼は彼らの聖別の源・起源となって下さるのである。

これから次のことがわかる。聖となるには、われわれは「聖なる方」を得なければならない。それはわれわれの内におられるキリストでなければならない。この聖さ無しに「誰も主を見ることはできない」。歩みの聖さは聖なる方から流れ出る。行いにおける神の御旨への同形化は、心と精神における神の御旨への同形化の結果である。そしてこれは、キリストを主としてわれわれの心の中に祀ることによってのみ、実現されうる(一ペテ三・一五)。つまり、「あなたの存在の最も内奥の部屋の中でキリストを崇拝するのである。彼は崇拝にふさわしい御方であり、あなたの所有者・主となることを求めておられる」(ビート)。この源を得よ。そうすれば流れを得る。これこそ「それが無ければ誰も主を見ることのできない聖さ」である。

しかし、この賜物を信者はみな贈り物として持っているにもかかわらず、自分がキリストにあって実際に何を持っているのかを理解しそこなっている人々が何と多いことか!地所の所有者になることと、そこにあるものを知ることとは、別の問題である。土地を実際に所有することと、その土地の地下にある莫大な財宝を知ることとは、別の問題である。それゆえ、たとえ主であるキリスト・イエスを自分の心の中に受け入れていたとしても、キリストの内に蓄えられている恵みと栄光の富を、日々の経験のために、依然として比較的少ししか理解していないおそれがあるのである。

それゆえ、キリストはわれわれのものだが――われわれはキリストを贈り物として持っているのだが――なおも従い続けて彼をもっと完全に知らなければならない。キリストを日毎に慕い求めなければならない。「従いなさい(中略)この聖さがなければ、誰も主を見ることはできません」。これは活動、熱心さ、勤勉さ、熱意を意味する。ある対象に従うことは、それを常に自分の前に置くことである。それを見失わないことである。それがあなたの思いの中に住み着いて、まさにあなたの命の一部となる。それはあなたの行いの中に入り込み、あなたの性格に印を押す。あなたの願望の対象、あなたの力の目標であるものは、あなたの生活を造り変える効力があるのである。

しかしこれは、「われわれがキリストに似た者となるのは、ただイエス・キリストに倣った結果にほかならない」と言うのとは大違いである。キリストがわれわれの聖別であることには、キリストがわれわれの模範であることよりも、遥かに高度な意味がある。キリストがわれわれの聖であるのは、彼がわれわれの中に住んでいて、われわれの道徳的存在全体を支配し、われわれの生活全体を造り変え、われわれの中でわれわれのすべての思い・言葉・行動の源となって下さるからである。

しかし、聖に関する神の理想を示すものとしての、キリストの地上の歩みの人間的側面を考えるとき、われわれはキリストの本質的神性と、それゆえ、われわれの聖別にはこの神性が必要であることを、一瞬たりとも見失ってはならない。そこで、才能ある著者による貴重な見解をここで追記することにする。この著者とはゴデット教授のことであり、彼の著作をすでに度々引用してきた。

「キリストの本質的・個人的神性から何かを差し引くとき、あなたは自分の輝かしい未来を構成しているこの聖の現実からそれを差し引くのである。私はこの節(ガラ二・二〇)の二つの表現と、それらの示唆に富んだつながりに感銘を受けた。その二つの表現とは『私を愛して下さった神の御子』と『キリストが私の内に生きておられます』である。人は別の人の中に住むことはできない。人は自分の記憶、模範、教えをわれわれに残すことはできるが、われわれの内で再び生きることはできない。もしイエスがただの聖なる人にすぎないなら、完全かつ正常なクリスチャンの聖別は、必然的に、彼に従って彼の真似をする真摯な努力によるものになっていただろう。そして教会は、善を志す人々――彼らは善を行うために団結する一方で、自分たちの模範であるイエス・キリストについて学ぶ――の団体にすぎなくなっていただろう。ひとたびキリストの頭から神性という冠が奪い取られるなら、最も高く最も輝かしい福音の思想でさえ、ただちにこのような水準に落ち込んでしまう」。

「しかし、聖書と経験の両方がわれわれに教えているように、真のクリスチャンの聖さは人の努力や渇望を超えたものである。それは神から人に伝達されるものである。それは、聖霊によってわれわれに臨んで、われわれの内に住まわれるキリストご自身である。それゆえ、聖パウロはキリストのことをわれわれの義と呼んでいるだけでなく、われわれの聖別とも呼んでいるのである。また、聖ヨハネの福音書の中で、イエスはご自身のことを次のように表現された。『私はあなたたちを慰めのないままにはしておきません。私はあなたたちのところに戻ってきます』。『その日には』――これは聖霊来臨の日のことである――『私が私の父の中におり、あなたたちが私の中におり、私があなたたちの中にいることを、あなたたちは知るでしょう』。『私を愛する者は私の父に愛されます。そして(中略)私たちはその人のところに来て、その人と共に私たちの住まいを造ります』。『私が生きるので、あなたたちも生きます』。聖霊によってわれわれのところに来て、われわれの内に住むだけでなく、その内住が同時に御父の内住でもあるこの御方はいったい誰だろう?『私が共にいなければ』あるいは『私の外では』『あなたたちは何もすることができません』とイエスは続けて言われた。『私はぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です。私の中に住んでおり、私もその中に住んでいる人は、多くの実を結びます』。御霊は『私の栄光を現わします』」。

「この神の御霊は一人の人を別の人々に伝達される、とは決して言えない。神の御霊は一人の人の栄光を他の人々の心と生活の中に現わすのではない。神の御霊は神聖な方である御子の栄光を現わすのであり、次に御子は御父の栄光を現わされる。この真理はバプテスマの形でも表わされる。この真理はそれと同時に、クリスチャンの聖別の秘訣でもある。なぜなら、聖さとはキリストであり、キリストにあって聖霊によりわれわれの中に住まわれる神だからである。では、教会とは何か?教会は心底キリストに倣う者たちの自発的団体であるだけでなく、キリストのからだであり、キリストがその中をご自身の豊かさで満たしている生ける器官なのである」(ゴデット)。

それゆえ、ご自身の教会の中で、キリストは依然として地上で、「見よ、私は世の終わりまで常にあなたたちと共にいます」という輝かしい宣言を遂行しておられるのである。キリストをわれわれの聖別として理解することは、われわれの聖め主である聖霊に帰すべき栄誉を少しも損なうものではない。この事実は二つとも、極めて完全な調和の内にあるだけでなく、互いに必要なものでもあるのである。

「おそらく、こう尋ねる人がいるだろう」とゴデット教授は記している。「私たちの聖別を聖霊に帰している節と、私たちの内に生きておられるキリストご自身に帰している節には、どのようなつながりがあるのですか?(ガラ二・二〇)」。

「その答えは容易である。実際には、この二種類の表現は一つの同じ事実について述べているのである。聖霊の御業とは何か?それはキリストを――キリストであるところのすべてのものと共に――われわれに分与して、キリストがわれわれの中で再び生きるようにすることである――これは麦粒が地に落ちて死に、自然の力によって甦り、穂の中の穀粒となるのに似ている。他方、キリストがわれわれの内に生きておられる、とはどういう意味か?これは聖霊の働きによる。信者たちの内で、この神聖な使者の力により、イエス・キリストの奇跡的降誕をもたらしたのと同じような効力を生じさせるのである。『私の小さな子供たちよ』と聖パウロは言った。『キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています』」(ガラ四・一九)。