第六章 キリストの死への同形化

エバン・ホプキンス

「あなたたちが実を豊かに結ぶこと、これにより私の父は栄光をお受けになります。」(ヨハ一五・八)

「あらゆる良いわざで実を結び」(コロ一・一〇)

「あなたの実は私から得られる。」(ホセ一四・八)

「いつもこの体に主イエスの死を負っていますが、それはイエスの命もまた私たちの体に現わされるためです。」(二コリ四・一〇)

「それは私がキリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されるためです。」(ピリ三・一〇)

「私はキリストと共に十字架につけられています。それにもかかわらず、私は生きています。私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラ二・二〇)。

「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清めます。」(一ヨハ一・七)

実際的聖さが、聖書の中でという絵図の下で、われわれの前に示されている。しかし、実とは何か?それは樹液の蓄積である。木のすべての内的活動の最終的結果であり――隠れた命の産物である。この命は根から始まり、幹を通って枝に至り、最終的につぼみ・花・実となって現れる。この実が形成されて熟す時、木の活動と成長の大いなる目的が達せられる。命はその循環を全うしたのである。

それゆえ実は、他者の益のために犠牲になる霊の命の側面を示す。実は「枝によって生み出されるものであり、これにより人々は元気と養いを得る。実は枝のためではなく、それを持ち去る人々のためである。実が熟すやいなや、枝は実を切り離す――そしてその施しの働きを新たに開始して、次の季節のためにその実を用意する。実を結ぶ木が生きているのは、自分自身のためではなく、ただその実が元気と命を与える者のためである。それゆえ、枝は全く実のためだけに存在する。農夫を喜ばせるのは、その目標、その安全、その栄光である」(アンドリュー・マーレー師)。「あなたたちが実を豊かに結ぶこと、これにより私の父は栄光をお受けになります」(ヨハ一五・八)。

それゆえ、実際的聖さは、製造されるべきものではない。人が神の御子のかたちに同形化されるには、完全な模範以上の何かが必要である。なぜなら、聖さはたんなる模倣の問題ではないからである。

「キリストの命は、神の性質の中に植えられた神聖な種から現れた。この種は花のように自然に芽から成長した。この花を模倣することは可能かもしれないが、それが造花であることを人は常に見破ることができる。ロウで人の姿を複製することはできるが、それでも本物との違いを察知しそこなうことは決してありえない。これこそまさに、クリスチャン原理の自然な成長とその道徳的複製との間の違いである。一方は自然だが、他方は機械的である。一方は成長だが、他方は堆積である。さて、現代の生物学によると、これが生きているものと生きていないもの、有機体と結晶の根本的違いである。生きている有機体は成長するが、死んでいる結晶は量が増す。前者は内側から活き活きと成長するが、後者は外側から新たな粒子を加える。これがクリスチャンと倫理学者の大きな違いである。クリスチャンは中心から働くが、倫理学者は周辺から働く。一方は有機体であり、その中心には生ける神によって生ける種が植えられている。他方は結晶であり、とても美しいかもしれないが、ただの結晶にすぎない。生き生きとした成長原理に欠けるのである」(ドラモンド教授)。

それゆえ、義務を遂行して良い働きを行い、それを実と呼ぶおそれがある。「半ダースのぶどうを古傘に結び付けても、それはぶどうの木にはならない。とても慎重に結び付けても、そのぶどうは成長しない。しかしこれこそまさに、多くの人々がしようとしていることなのである」(カノン・ウィルバーフォース)。

実際的聖さは行うことによって始まるものではなく、成ることによって始まるものである。それは、家を建てるように、ブロックを積み重ねることによって、建て上げられるべきものではない。それは「道徳規範のモザイクや、功徳の積み重ねや、行為の継続ではない。それは成長である」(ハニントン司教)。

実に良いものではあるが、それでも決して「実」ではない外面的活動による働きがかなりあるかもしれない。使徒がコロサイの回心者たちに望んだのは、彼らが「あらゆる良いわざで実を結ぶ」ことだった(コロ一・一〇)。言い換えると、彼らの奉仕は神聖な、内住する、生命原理の直接的結果でなければならない、ということである。良いわざに熱心かつ積極的で、忙しくしていたとしても、それでも実を結ばないままのおそれがあるのである。真の実があるところには、中心から周辺に向かって流れる行動の流れがあるものである。

それでは、すべての実際的聖さの源は何か?それには源があるにちがいない。どの川にも源がある。どの実も、根と生き生きと結合していなければならない。それでは、われわれが実を結ぶための源は何か?われわれの新しくされた性質ではない。「御霊から生まれるものは霊です」(ヨハ三・六)。聖霊なる神の働きにより、霊的性質が分与された。しかし、「実」はわれわれの新しい性質の産物ではない。これは、ぶどうの実が枝の産物ではないのと同じである。枝が実をつけるが、根がそれを生み出す。それは「御霊の実」である――聖霊なのである。悪い木は良い実を結べない。その実が良いものとなるには、再生が必要不可欠である。しかし、新しい性質はその源ではない。それはキリストご自身である。すべての聖なる生活の源はただ一つしかない。聖なる生活はただ一つである。「あなたの実は私から得られる」(ホセ一四・八)。「私は命です」。キリストが命であるのは、彼が完全な生活の模範であるからではないし、命の賜物の与え主であるからでもない。また、キリストは生命原理そのものであるからでもない。キリストは源そのものなのである。「命の泉はあなたと共にあります」(詩三六・九)。

それはわれわれの内に生きておられるキリストである。使徒は贖われていたが、「生きているのは私ではない」と言った。彼は再生されて永遠の命を持っていたが、「生きているのは私ではない」と言った。「私は生きています。しかし私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)。

聖ヨハネ福音書の四章でキリストが約束されたのはこれだった。「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がります」(ヨハ四・一四)。われわれがキリストを命として受け取るのは一度きりである。しかし、この事実をわれわれが心で知るのは漸進的である。われわれはまず命の源を見る(ヨハ一・四)。次に、命の授与(ヨハネ三・一六)、命の内住(ヨハ四・一四)、実際に流れ出る命(ヨハ七・三八)を見る。この最終段階で、われわれは内住のキリストの産物である「実」を持つ。

それゆえ、ここにあらゆる実際的聖さの源がある。「生きている」というこの単語を強調することが重要である。「キリストが私の内に生きておられます」。

では、この内住の命が神に対して豊かに実を結ぶには、何が必要なのか?

この神の命は、その活力を増大させるのに、人からの何物も必要とすることはありえない。これは明らかである。それを生かすためにわれわれの努力は必要ない。キリストがわれわれの内におられる以上、われわれが実際に何を持っているのかを考えてみよ。「キリストが私の内に生きておられるのです」と使徒が宣言した時、それはたんなる言葉のあやではなかった。そして、彼に言えたことは、同じようにわれわれにも言える。では、われわれは何を持っているのか?われわれはキリストを持っているのである。キリストの中に命の全き豊かさが実際に宿っており、無限の資源がわれわれの用のために蓄えられている。継続的成長、永続的新鮮さ、豊かに実を結ぶために必要なものは、すべて彼の中に見い出される。力、純粋さ、豊かさはみな――あらゆる恵みがわれわれに向かって流れ、われわれを満たし、われわれを通して流れるようになるのに必要なものは何でも――われわれの内に真に住んでおられるキリストの内に蓄えられているのである。

これがそうである以上、何が必要だというのか?キリストがわれわれの内に住む手助けをしようと努めなければならないのか?キリストがさらに生きるよう努めなければならないのか?ご自身の力をわれわれの内に示すよう、彼を助けなければならないのか?言い換えると、成長して――実を産出するよう努めなければならないのか?決してそんなことはない。しかし、これこそ多くの人が犯している大きな間違いではではないだろうか?しかし、何かがなされなければならない。われわれの霊の命を深めるために何かが必要である。クリスチャンはみなキリストを持っている。それゆえ、霊的力と豊かに実を結ぶための資源をすべて所有している。しかし、すべてのクリスチャンが神に対して豊かに実を結んでいるわけではない。この理由は何か?

その理由はこれである。すなわち、われわれはキリストがさらに生きるようにすることはできないし、命と純粋さと力の無限の豊かさをキリストに加えることもできないが、この命の現われを妨げているかもしれないのである。

最も深刻な妨げの一つは不信仰である。他のすべての妨げの根幹はこれである。しかし、キリストはこの妨げを克服する力を持っておられる、キリストはこの障害を打ち破ることができる、という意見もあるかもしれない。もちろん、キリストにはできること、キリストは人の不信仰という障壁を一掃できることを、われわれは知っている。しかし、このような方法でキリストは働かれるのだろうか?これが人々に対するキリストの取り扱いの法則なのだろうか?

イエスが郷里の村に入られた時のことである。そこには貧しくて欠乏している人々の群れがいた。彼には彼らを祝福する用意があった。きっと病人や障害者が群衆の中でその足下に連れて来られたことだろう。しかし、何と書かれているか?「そこでは、彼らの不信仰のせいで、彼は多くの力あるわざをすることができなかった」(マタ一三・五八)。そこには御力の現われがまったく無かったわけではない。「彼は数人の病人の上に手を置いて癒された」。しかし、「彼はそこでは力あるわざを何もすることができなかった」(マコ六・五)。彼の力は全能だった。しかし、無限の力がこの世界で常にそうであるように、彼の力は条件付きだったのである。そしてこの制限は、道徳的・霊的力としての彼の力を低めるのではなく、かえってその栄光を現わしたのである。

しかしこの出来事は、われわれ自身の霊的経験の多くの道の上に光を投げかける。われわれが経験してきた弱さや失敗は、われわれをご自身の住まいとされた方に力が無いから生じたのではなく、彼が常にわれわれに要求しておられる彼に対する信頼と確信に欠けているせいで生じたのである。

われわれは自分たちの不信仰によって聖なる方を制限してきたのである。彼の勝利と解放の力、守りと救いの力を、われわれはある水準以下に制限してきたのである。

したがって、われわれの霊の命を深めるために必要なのは、あらゆる妨げを取り除くことである。そして不信仰を取り除くことから始めるとき、われわれは他のすべての妨げの根元に斧を当てるのである。

しかし、困難はまさにここにある。次のように応じる人もいるだろう。「それは努力の問題ではなく信仰の問題であることを示したとしても、それでこの困難がなくなったわけではありません。それはただこの問題を別の舞台に移したにすぎません。私はどうすればもっと信じられるようになるのでしょう?私の失敗は私の不信仰のせいであることを私は知っています。しかし、どうすればもっと多くの信仰を得られるのでしょう?」。

これはわれわれをこの章の要点に導く。実は、われわれには二つの力が必要なのである。妨げを取り除く力と、実を結ぶ力である。われわれを悪から分離する力と、われわれを善なる者に造り変える力である。

この二重の力はキリストの中に見い出される。そこに彼の死の力と彼の命の力がある。われわれは二番目のものの中に生きるようにされたからといって、一番目のものに別れを告げるわけではない。否、キリストの復活の力を知る条件は、「その死に同形化されること」なのである(ピリ三・一〇)。

罪に打ち勝ち、「実を産出するのをやめない」まことの命は、死の中から生じる命である。

最初見る時、われわれはその意味を理解しそこなってしまうのだが、「いつもこの体に主イエスの死を負っています」という使徒の言葉には深い霊的意義がある。この御言葉の中の「死」という言葉は「死に渡すこと(nekrosin)」とも訳される。「それはイエスの命もまた私たちの体に現わされるためです」(二コリ四・一〇)。

ここでは、死が命の条件としてわれわれの前に示されている。命の継続的現われは、死への継続的同形化による。

死は分離を意味し、命は合一を意味する。罪に対するキリストの死と同調すればするほど、ますますわれわれは罪の働きと汚れから徹底的に分離されるようになる。それは罪を犯すことからの分離であるだけでなく、古い自己の命からの分離でもある。キリストの命の現われに対する大きな妨げは、自己の命の存在と活動である。これは終わらされて取り除かれなければならない。「主イエス・キリストの死に渡すこと」以外の何ものもこれを成し遂げられない。彼の死への同形化は、心と思いにおいて古い命の活動・動機・目的の昔の源から分離されることを意味する。

この「同形化」は神の命が現れるための条件である。すでに見てきたように、「イエスの命」はそれをさらに生きたものとするためにわれわれの力や努力を必要としない。神が要求されるのはただ、この妨げを取り除くために必要不可欠なこれらの条件にわれわれが同意することだけである。これらの条件に従うなら、ただちに命が自然に、しかも軋轢や努力なしに湧き出る。自分自身の直接的努力でこれを生み出すことや強めることはできないが、神が定められた諸々の条件に従うことによってその現われを間接的に増すことはできるのである。

われわれのなすべき分は、キリストの死の中に下ることである。キリストのなすべき分は、泉から水が湧き出るように、われわれの中でご自身の命を生かし出すことである。その時、使徒が「キリストが私の中に生きておられます」と述べた時に彼が何を言わんとしていたのかを、われわれは知る。このようにキリストが住んで妨げられずに活動している所には、絶えざる成長、恒久的新鮮さ、実り豊かさが生じる。そして、命が容易かつ自然に現れるようになる。それが自然なことになるからである。

これから、キリストの死の意義を理解する重要性は、どんなに強調しても強調しきれないことがわかる。キリストは「罪のために」死なれただけでなく、「罪に対して」死なれたことを、われわれは理解しなければならない。この二つの意味の最初のものについては、キリストはひとりで死なれた。われわれは彼と共に死ぬことはできなかった。彼だけがわれわれの諸々の罪のための宥めとなられた。しかし、二番目については、われわれは彼と共に死んだのである。罪に対する彼の死の中で彼との調和の中にもたらされることの何たるかを、われわれは知らなければならない。この意味におけるキリストとの一つが、罪深い欲望からだけでなく古い自己の命からも実際的に分離されるようになる手段である。死につつあるキリストへのこの同化は、一度きりの行為ではなく、絶えず維持してますます深めるべき心構えである。「この同じ思いで自分自身を武装しなさい。なぜなら、肉において苦しんだ者は、罪からのがれたからです」(一ペテ四・一)。

キリストの死との一体化は、主の晩餐の中でわれわれが学ぶ偉大な真理である。裂かれたパンと注ぎ出されたぶどう酒は、彼の死の象徴以外の何だというのか?この秘跡の中でわれわれが特に熟慮・強調するものは何か?「彼が来られるまで、あなたたちは彼のを示すのです」。そしてこれらの要素にあずかることによって、われわれはこの死の中で彼と一体化されるのである。彼の死の中に入り込むにつれて、心と思いにおいて彼の死に同形化されるにつれて、われわれは彼の命に実際にあずかる者となる。

聖書の中でキリストの血について述べられている所ではどこでも、それは流された彼の血を常に意味する。この「血」は命であることが、旧約聖書(レビ一七・一〇~一一)からわかる。「なぜなら、肉の命は血の中にあるからである」。このような性格を持つため、血を食べてはならなかった。血は「あなたたちの魂のために祭壇の上で贖いをなすために」取っておかれなければならなかった。「魂のために贖いをなすのは血だからである」という句は、もっと正確には、「魂という手段によって血は贖いをなすからである」と訳すことができる。つまり、血は動物の命の入れ物なのである。血はその命を表わす。それが流される時――注ぎ出される時――それはその命がいけにえになったことを表わす。言い換えると、その動物の死を表わす。流された血はいけにえの死の象徴である。

さて、われわれが「キリストの血」について話す時、それは注ぎ出されて犠牲になった命を意味する。すなわち、彼のを意味する。

彼の死の中にはわれわれを罪から分離する力がある。清めはすべて分離することである。衣が清められる時、それはそれを汚すものから分離される。

それゆえ「すべての罪から」「キリストの血は清める」――つまり、キリストの血は分離する。さらに徹底的にこの死と一つになればなるほど、われわれは「あらゆる不義から清め」られることがどういうことかをますますよくわかるようになる。

アロンとその子らの聖別の中に、われわれはこれらの偉大な原則が素晴らしく明確に予表されているのを見る。

神はモーセに命じられた。「そしてあなたはその雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶとにつけ、また彼らの右の手の親指と、右の足の親指とにつけ、その血を祭壇の上と周囲の側面に振りかけなければならない。また祭壇の上の血から、また塗り油から取って、それをアロンとその衣に、また彼と共にいる彼の子らとその衣に振りかけなければならない。彼とその衣、および彼と共にいる彼の子らとその衣は聖別される」(出二九・二〇~二一)。

われわれはここに、神の子たちの経験にもあてはまるものの予型を見る。耳、手、足はみな、神に対して聖別されなければならない。キリストの死への同形化――血との接触――がこの聖別を実際のものとする。なぜなら、われわれの心がこの死との一つの中にもたらされる時、われわれは神へと分離されるだけでなく、あらゆる妨げからも分離されて、神の御声を聞き、神の働きを行い、神の御旨の中を歩めるようになるからである。これらの「肢体」(ロマ六・一三)は神の奉仕のためにささげられ、明け渡されるだけでなく、この血が実現するこの分離のゆえに、汚れから「清め」られ、また、命の霊である油で油塗られる。これらの肢体は「主の御用に適う」ものとなる。このとこのを振りかけることは、われわれの前にの両方を示す。すでに見たように、われわれの地上の歩みの全行程で、この二つが必要である。

それゆえ、われわれにはキリストの復活の命の力だけでなく、キリストの死の力も毎日必要であることがわかる。

キリストの死の中へと降りて行かずに、その命にあずかろうとすることがないように注意しようではないか。過去にわれわれが犯した過ちや、われわれが霊的活力に欠けているのは、聖別の問題における十字架の力を見ることに失敗したせいで生じたのではないだろうか?おそらく、死はわれわれの義認にしか効力を発揮せず、われわれの聖別はまったく彼の命による、とわれわれは考えるようけしかけられてきたのである。そしてこれは、多かれ少なかれ多くの人の思いの中で優勢な次のような考えに導いてきたのである。すなわち、十字架に付けられたキリストのもとに来て、十字架の贖いと義認の面を見たので、われわれは今やそれを通り越し、それを後にしたのである、なぜならわれわれは復活したキリストとの生ける合一の中に入ったからである、という考えである。

しかし、もしわれわれが自分の意図を理に適うものにすることに成功するなら、今や次のことがわかるようになる。すなわち、この「主イエスの死に渡すこと」――彼の十字架の本質、という表現を使うことができるだろう――は、恒常的な心構えとして、われわれが常に自分自身の内に持つべきものなのである。なぜならわれわれは、われわれの古い自己の命からの分離を常に維持する必要があるからである。これは一度で実現されることではない。

それゆえ、罪に対する彼の死は、われわれの実際的聖さと極めて重要で密接な関係がある。それゆえ、すべての真の成長の条件は、この死に同形化されることである。キリストと共に罪に対して喜んで死ぬことは、キリストの命に満たされたいという願いよりも、魂の成長を示すより真実な証拠である。

こうして初めて、われわれはバプテスマと主の晩餐の真の意義を理解するようになる。前者において、われわれは一度限り永遠にキリストと共に死の中へと葬られる。後者において、われわれはますますこの死と同化する――十字架に付けられたキリストの心とのより親しい交わりの中にもたらされる。

それゆえ、キリストの十字架はわれわれが新しい命を見い出す場所であるだけでなく、われわれの古い命を失う場所でもある。「主イエスの死に渡すこと」は「肉にしたがった」この命を終わらせることだった。なぜなら、「私たちの古い人」――すなわち、私たちの古い回心していない自己――は「キリストと共に十字架に付けられた」からである。この死との一つの中にもたらされること、それと大いに一体化されるあまり、言わば、それを常に負うようになることは、自己の命からの継続的解放の条件の中を歩むことであり、イエスの命がわれわれの日々の歩みの中で現わされるのを経験することである。

霊的特権はみな条件付きである。「豊かな命」の条件は、罪に対して死なれた方の思いにあずかる者となって、その心構えで武装することである。これは単独の経験、一度きりの行為ではなく、心構えである――つまり、絶えず維持して、ますます深めて行くべき霊的条件である。

それゆえ、われわれは生きるために、あるいは自分の力を増すために、力を費やしてはならない。われわれの内におられる生けるキリストが、ご自身の力を示し、ご自身の命を現わして下さる。そこに活力の不足はない。しかし、われわれがなすべきは、自発的に死に服することである――そしてこれは、自分自身の直接的努力によるのではなく、かつて罪に対して死んだが今や神に対して生きている御方の心にわれわれがあずかることによる。

キリストが十字架の上で罪に対して死なれた時、われわれはキリストと一体化された。この事実を理解するとき、しばしば、信者の経験と実際の歩みの中に極めて突発的な決定的結果が生じる。それは以前の人生の行路から、突然われわれを切り離す。そしてわれわれは、罪の力と働きからの輝かしい解放を見い出す。しかし、この効力は突然の瞬間的なものではあるが、漸進的・継続的働きが後に続く。キリストと共なる信者の死とその諸々の結果の最初の理解の後、今や心と思いを十字架に付けられたキリストと同化する深い働きが続く。罪に対する彼の死の中で彼との調和の中にさらに完全にもたらす働きが続く。

そしてこの働きが深まるにつれて、死に行くキリストとの一つをますます現実に経験するにつれて――生ける、復活した主はご自分の力を現わして、魂をご自分の豊かさで満たされる。信者の真の命――すなわち、信者の内におられるキリストの命――は、その時、死の中から絶えず湧き上がる命である。「私は日毎に死んでいます」は、使徒がこの言葉をいかなる意味で用いたにせよ、深い意味を持つ宣言である。

われわれがキリストの死の中で実際にキリストと一体化されるとき、彼の命の現われを妨げるものはすべて取り除かれる。他のいかなる方法も、これを取り除けない。われわれ自身の努力ではこれを成就できない。われわれがいくら決意しても、それを発効させることはまったくできないし、われわれは絶望の中に残されるだろう。

しかし神は、妨げを取り除くことのできる力を、われわれに与えて下さった。この力はキリストの死である。この死の恩恵にあずかるには、われわれは服従してこの死に同形化され、罪に対して死なれた御方との実際的調和の中にもたらされなければならない。十字架においてのみ、われわれを暗闇の権威から解放して神の愛する御子の王国の中にもたらす力を、われわれは見い出す。それゆえ、この死の中にわれわれは、われわれを自己の命から分離して解放された状態に保つ力をも持つ。

「キリストの血」はキリストの死と、分離する死の効力と同義である。この「キリストの血」を取るとき、血がすべての罪からわれわれを常に清めるのはいかなる方法によるのか、われわれは理解できるようになる。神が光の中におられるように光の中を歩むことが、罪からのこの継続的分離に必要だが、その必要性をますます深く絶えず感じるようになる。しかし、この必要は神の供えによって満たされる。そして、あらゆる種類の罪から分離するこの死の力を、われわれはますます意識するようになる。そしてそれゆえ、信者と神との間の交わりは維持されて、経験の中でますます大きな現実となっていくのである。

これは霊の命の中にある「自由の法則」の別の面をわれわれに示す。