第九章 戦い

エバン・ホプキンス

「信仰の良い戦いを戦いなさい。」(一テモ六・一二)

「しかるに、神に感謝すべきかな。神はいつも私たちをキリストにあって勝利させて下さいます(あるいは、神は常に私たちをキリストにあって勝利に導いて下さいます)。」(二コリ二・一四)

「これらすべての事柄において、私たちを愛して下さった方を通して、私たちは勝ち得て余りがあります。」(ロマ八・三七)

「神に感謝すべきかな。神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えて下さいます。」(一コリ一五・五七)

「最後に、私の兄弟たちよ、主にあって、またその偉大な力によって、強くなりなさい。神のすべての武具を身に着けなさい。それはあなたたちが悪魔の策略に対して立つことができるためです。」(エペ六・一〇~一一)

「御霊の中を歩みなさい。そうすれば、あなたたちは決して肉の欲を満たすことはありません。」(ガラ五・一六)

キリストにあって永遠の命を持つことの何たるかを信者が悟った後、ほとんどその直後に、信者は戦いに直面するようになる。この戦いの諸々の原則を信者がはっきりと理解することが極めて重要である。また、ただ戦うだけでなく、戦って勝利を得るためには、どんな本質的条件を維持しなければならないのかを、はっきりと理解することが重要である。

この重要な主題に関する聖書の主要な節の一つが、エペソ人への手紙の第六章である。

最初に注目すべきは、戦いのための備えである。これは一〇節の中に示されている。「主にあって、またその偉大な力によって、強くなりなさい」。使徒が競争の絵図の下でわれわれにクリスチャン生活を示した時、賞を得るように走るにはどんな条件が必要なのかを、彼はわれわれに示した。今、彼はこの戦いについて述べているが、われわれが勝利者になるために必要な前提条件を彼は命じている。主にあって強められることがどういうことか、われわれは知らなければならない。

使徒は、キリストにある自分たちの法的立場をすでに理解している人たちに向かって話している。彼が述べているのは、今や救いの問題ではなく、経験的・実際的に強められることである。使徒はこれをキリスト者の戦いに絶対に欠かせないものとして彼らに突き付ける。

しかし、どのようにこの勧めに従えばいいのか?主にあって強くされることは、この戦いで成功をおさめられる、ただ一つしかない特定の立場につくことである。そうするには、主イエス・キリストがご自身の民のために獲得された勝利の性質を、まずはっきりと見なければならない。

彼は神と人との間の仲保者であるだけでなく、われわれの霊的大敵の征服者でもある。彼はご自分の功績によってわれわれの罪のために贖いを成しただけでなく、その全能の力によってわれわれの敵を征服された。彼の死を通して、彼は死の力を持つ者すなわち悪魔を征服された。彼は、われわれを攻撃するおそれのあるすべての敵に対して勝利された。神がキリストを死者の中からよみがえらせて、ご自分の右に置かれた時、キリストは「すべての支配、権力、力、主権、そして、この世だけでなく来たるべき世においても唱えられるあらゆる名を超えて、遥かに高くされた。そして、神は万物をキリストの足の下に置かれた」(エペ一・二一~二二)。主にあって強められるために、われわれはまず征服者であるキリストを見なければならない。勝利の地位についておられるキリストを見なければならない。

しばしば述べられてきたように、新約聖書の中のエペソ人への手紙は旧約聖書の中のヨシュア記に対応している。ヨシュア記の中で主は戦士として現れる。出エジプト記では主は贖い主としてご自身を啓示される。しかし、イスラエルの子らが約束の地の境界内に立つ時はじめて、エホバは征服者として彼らに対して現れる。「主の軍勢の将として、私はきたのです」。これは同じ神聖な方だったが、新しい啓示だった。同じ主だったが、新たな顕現だった。彼らは真の戦場に足を踏み入れたばかりだった。彼らを前に導いて戦いにもたらすために、そして彼らに勝利の真の秘訣を教えるために、彼は今こられたのである。

この将の全貌を見て、彼がすでに獲得しておられる完全な勝利をはっきりと理解することが、主にあって、またその偉大な力によって、強くなることの第一歩である。

しかし、次の段階はわれわれが彼の勝利の中で彼と一つになることである。ヨシュアは自分の戦士の将たちに何を要求したか?彼が五人の王を征服して洞窟の中に置いた事実を受け入れることだけでなく、この勝利の中で彼らが彼と一つになることである。イスラエルの宿営の代表者として、彼らはこの王たちの首に足をかけることを要求されたのである。

同じようにわれわれのヨシュアは、ご自分の信じる従者たちに、彼が敵に対して勝利している事実を悟らせるだけでなく、彼が彼らのために定めた勝利の地位に信仰によって立たせる。彼はわれわれをご自分の勝利に、ご自分の征服の成果にあずからせる――ご自分の義の中に立たせるだけでなく、われわれのすべての敵に対するこの勝利の地位を信仰によって要求してこの地位につくようにさせる。これが主にあって、またその偉大な力によって強くされることである。

さて、次のことをはっきりと理解しようではないか。戦いの備えとしてこの勝利の地位につくことは、漸進的に達成する問題ではなく、信仰によってただちに受け入れるべき事柄である。戦いを始める前に、われわれはこれを受け入れる。なぜなら、この地位を受け入れない限り、戦いのための備えは整わないからである。

それは敵の地位よりも優った地位である。敵が山頂を占領しているので、キリストは信者を谷間に導かれる、ということはない。この戦いは、キリストの助けにより勝利を得て、敵を有利な立場から退かせることではない。この戦いの性格は全く異なる。キリストがその勝利によって成し遂げられたことを見ることは、敵はすでに征服されて要塞から追放されていることを見ることである。また、われわれの戦いは勝利のこの地位のために戦うことではなく、この地位に立って戦うことであることを見ることである。この戦いの本質は登って行って占領することではなく、占領者の立場に立つことである。われわれがキリストにあって立つ瞬間、われわれは占領する。したがって、次にわれわれがなすべきことは、われわれの領地を保持することである。マルチン・ルターが述べたように、われわれは「自分の畑を保」たなければならない。だから使徒は次の表現を用いている。「それはあなたたちが抵抗することができ(中略)またすべてのことを成し遂げて立つことができるためです」(エペ六・一三)。

「神のすべての武具を身に着けなさい」。ここでもまた、この御言葉をわれわれの法的立場について述べているものと理解してはならない――なぜなら、これは勧めの問題ではありえないからである――これはわれわれの実際の振る舞いの問題である。使徒が述べているのは、必ず実行すべきことである。この武具の意義の詳細の中に入り込まなくても、ざっと見ただけで、われわれは次のことを指摘できる。ここで述べられていることは、この同じ使徒がローマ人への手紙の中で与えている「主イエス・キリストを着なさい」(ロマ一三・一四)という指示と同じなのである。われわれはこれをこう要約できるだろう。キリストを着ることは、彼の主権に全く服することであり、完全に彼の支配下に来ることなのである。これは、他の章で見たように、彼の力を得る秘訣である。これが実際になされない限り、われわれは戦いに従事する用意が整わない。

次の箇所では、遭遇する敵について見る。エペソ人への手紙の第六章で特に述べられているこの敵は、この世、肉、悪魔ではない。「なぜならわれわれが格闘しているのは肉や血に対してではなく、主権者たちに対して、権力者たちに対して、この暗闇の世の支配者たちに対して、高きところ(または天上)にいる悪の霊に対してだからです」。つまり、われわれは人類と戦っているのではないのである。われわれの戦いは人という手先に対するものではなく、この手先を利用しているサタン自身に対するものなのである。この現実の敵はわれわれの外側の目には見えない。サタンは目に見えないが強力な敵である。可視的・人間的・物理的なすべてのものの背後や下にサタンがいる。それゆえ、ここで検討されている敵は内側ではなく外側の敵である。

ここで、「肉」は敵ではないのですか?「肉」がわれわれの内側にないのですか?という反対があるかもしれない。その通りである。しかし、次のことを見落とさないようにしようではないか。もし戦いのための備えが実際になされているなら、もはや肉が自由にわれわれを妨げることはないのである。最後までわれわれに付きまとい続けるこの悪への傾向性は、もはや力を持つことは無いし、キリストの主権に服するようになるのである。

この戦いは内なる戦いではない。そうだったなら反乱だっただろう。信者は実際には自分自身を征服することができない。キリストに王座を与えることにより、ただキリストの条件に従うことにより、自己は征服されるのである――肉は活動停止に保たれ、死の立場に保たれるのである――それは信者が自由に主の敵と戦うためである。

われわれは反乱と真のキリスト者の戦いとを、とても用心深く区別しなければならない。もしわれわれが自分に関して神にご自身の道を進んでもらうことを望んでいないなら、もし神の御旨に逆らって自分の意志を立てているなら、これは確かに争いである。しかし、それはキリスト者の戦いではなく、「信仰の良き戦い」でもない。まるで次のような兵士のようである。その兵士は祖国の敵と戦うために出かけて行ったのだが、ある時は行軍中に敵の側面に出くわして自分の部隊の中で自分の祖国に対して戦い、またある時は自分自身の軍隊の部隊に対して戦ったのである。われわれが真に主の側に付かない限り、主に対して真に忠実でない限り、われわれはこの手紙に描写されている戦いに従事することは無い。

エペソ人への手紙のこの六章の一〇節以降で要求されている諸々の条件を真に満たしている信者は、グルナルが述べているように、「キリストにかくまわれている人」である。サタンはこの意味をわれわれよりもよく知っている。サタンは非常に経験に富んだ将軍なので、難攻不落であることが分かっている壁に向かって自分の力を浪費したりはしない。別の手段を用いる。それゆえ、われわれがこのように強固な守りの中にある時、サタンは自分の力でわれわれに立ち向かって来ない。彼は、われわれをわれわれの要塞からおびき出すために、われわれに対して「策略」――巧妙な、秩序だった計画――を巡らす。使徒はそれらを「悪魔の策略」と述べている。その狙いは信者に信仰の立場を放棄させることである。もし信者に疑わせることができさえするなら、あるいは落胆に耽らせることができさえするなら――なぜなら落胆はすべて悪魔から来るからである――サタンの計略は成功する。なぜなら、信者が信仰の立場を放棄する瞬間、信者はサタンの力の下に陥るからである。したがって、この戦いは「良い戦い」(良いというのは、それが常に勝利の戦いだからである)であるだけでなく、「信仰の良き戦い」でもある。なぜならそれは本質的に、信頼の姿勢を維持して信仰の立場にとどまる問題だからである。

次のことを思い出すなら、最も弱い信者でも勇気づけられるはずである。この難攻不落な要塞の中にいる「キリストにある赤子」は、同じ立場を取っている「キリストにある父親」と同じくらい安全なのである。しかし、最も進んだ聖徒といえども、この要塞の中にとどまってキリストに自分自身と敵との間に立ってもらうのをやめる瞬間、水のように弱く無力になる。

武具のいくつかが挙げられている順序は、ローマの兵士が実際に武具を身に着けた順序である。武具を身にまとったら、兵士が次になすべきはただ剣や槍を取ることだけである。ここで、聖パウロがを省いているのは興味深い。しかし、この装備こそまさに、要塞の中で警護している時、兵士が身に着けそうにないものなのである。

最後に、この戦いで期待される結果について見よ。この節には注意すべき三つの「できる」がある。一つ目は一一節の「あなたたちが悪魔の策略に対して立つことができるためです」である。この武具によるわれわれのための備えは、われわれを十分に立たせることができる。最も弱い聖徒といえどもサタンに征服されるべき理由は何もない。われわれが勝利することが神の御旨である。敗北ではなく勝利を期待しようではないか。失敗を予期しつつ戦いの中に入って行ったせいで、われわれはどれほど打ち負かされてきたことか!

次の「できる」は一三節にある。しかし、まず一六節の「できる」に注意せよ。「その上に、信仰の盾を取りなさい。それにより、悪しき者の火矢をすべて消すことができます」。「すべて」というささやかな言葉を見落とさないようにしようではないか。これらの火矢と、それらがもたらす苦難について、われわれは幾らか知っている。不信仰な思い、落胆させる、辛く、忌まわしい思い――われわれの最も悪い激情を燃え上がらせて、われわれを最暗黒の暗闇の中に投げ込む思いである。解放されることをわれわれはどれほど望んでいることか!われわれが確信をもって期待できる神の保証がここにある。救済策はどこにあるのか?信仰の盾にある。この盾を常にわれわれと敵との間に置いて、一本たりとも矢がわれわれの魂に届かないようにしようではないか。「悪しき者が放つ火矢はすべて」消されるのである。

キリストこそ信仰がとらえる盾である。キリストにあなたと敵の間に立ってもらえ。そうするなら、いかなる悪も恐れる必要はない。この目に見えない貫通できない盾は、あなたの四方を囲み、すべての攻撃からあなたを守る。

一三節にこう記されている。「それは、あなたたちが悪しき日にあって抵抗することができ、またすべてを成し遂げて立つことができるためです」。「抵抗する」というこの表現は、ヤコブの手紙の中にも現れる。「悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、彼はあなたたちから逃げ去ります」(ヤコ四・七)。また、ペテロの第一の手紙にも現れる。「この悪魔に、堅く信仰にあって、抵抗しなさい」(一ペテ五・九)。欽定訳はおそらく次のような思想にわれわれを導くかもしれない。すなわち、信者の義務は出て行って敵と遭遇し、自分自身の抵抗力によって敵を征服することである、という思想である。しかし、この言葉が実際には「抵抗する」であることを心に留めるなら、サタンに首尾よくあたることのできる唯一の方法は、われわれがキリストの中にかくまわれていることをサタンが見い出すようにすることであることがただちにわかる。サタンに「抵抗」できる唯一の方法は、われわれの要塞であるキリストの中に立って、われわれの防護壁であるキリストと共に敵の攻撃にあたることである。ペテロ第一の手紙のこの節はこのように理解するべきである。われわれは、堅く信仰の中にあることにより、サタンに「抵抗する」べきである。すなわち、信仰の勝利の立場に堅く立つことによってである。

これらすべての節により、この戦いは確かに信仰の戦いであることを、われわれははっきりと見ることができる。また、われわれの過去の失敗の理由を洞察することができる。この信頼の姿勢の必要不可欠性を、われわれは見ていなかったのである。おそらく、自分自身の努力、自分自身の決意、自分自身の祈りに、われわれは信頼してきたのである。義認は信仰によることを信じてきた一方で、戦って勝利することもまた信仰を通して実現されることを、われわれは実際には信じてこなかったのである。しかし、これが神が定められた手段である。他の方法を用いて実験しないようにしようではないか。

「この自由の法則」がわれわれの霊的成功のために必要となる最大の場面は、この戦いの問題においてである。もしわれわれが自分自身から真に自由でないなら、われわれは戦って「抵抗する」ことはできない。それゆえ、一〇節以降をどれほど強調しても強調しすぎることはない。ここに、敵の力に対する継続的勝利の生活の秘訣がある。

この章に示されている偉大な真理にダビデがどれほど期待していたのか、詩篇一八篇の中で彼が述べていることからわかる。

主は私の岩、私のとりで、私の解放者。私の神、私の力、この御方に私は信頼します。私の盾、私の救いの角、私の高きやぐら。(中略)
神は私に力を帯びさせ、私の道を完全にして下さいます。
彼は私の足を雌鹿の足のようにし、私を高い所に置いて下さいます。
彼は私の手に戦いを教えて下さるので、私の腕は鉄の弓を打ち砕きます。
あなたはまた、あなたの救いの盾を私に与えて下さいました。あなたの右手は私を支え、あなたの優しさは私を大きくして下さいました。(中略)
あなたは戦いのために私に力を帯びさせて下さったからです。あなたは、私に立ち向かった者たちを、私の下に従わせて下さいました。
あなたはまた、私の敵どもの首を私に与えて下さいました。(中略)
それゆえ、おお、主よ、私は諸国民の間であなたに感謝をささげ、あなたの御名に賛美を歌います。

しかし、戦いについてのこの主題に関するある重要な節にまだ触れていない。それはガラテヤ人への手紙の中で使徒がわれわれに与えている有名な宣言である。「しかし、私は言います。御霊によって歩きなさい。そうすれば、あなたたちは肉の欲を満たすことはありません。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、肉は御霊に反するからです。これらのものは互いに相さからい、その結果、あなたたちは自分の欲することを行うことができなくなります。しかし、あなたたちは御霊によって導かれるなら、律法の下にはいません」(ガラ五・一六~一八、改定訳)。

この御言葉の意味を理解するために、ここで使徒が「御霊」という言葉でわれわれにはっきりと示そうとしたことを理解するのは、極めて重要である。ここで描写されているのは、肉と霊という二つの性質の間の戦いであるかのように、この御言葉を読むクリスチャンが大勢いる。この御言葉に関するこのような思想を、一度限り永遠に退けようではないか。この節が教えているのはそのようなことではない。使徒はここの「御霊」という言葉で、各人の構成の一部である人の霊について述べているのではない。また、「御霊から生まれた」新しい性質について述べているのでもない。アルフォードがこの御言葉について述べているように、ここの御霊は「人の霊的部分のことではなく、(五節にあるように)神の聖霊のことである」。同様のことを別の有名な注解者が述べている。「ここの御霊は間違いなく聖霊である。それは肉に打ち勝つものである。聖霊は、確かに、信者の心の中に入って来られる。そして、その働きはただ、信者の歩みを促進・決定することによる。それは、信者の中に住んでいる者としてである。しかしそれでも(ここの)『御霊』は、御霊によって聖められた信者自身の新しい気質と、この理由のゆえに同等ではない。むしろ、人の霊を超越した神として、個々の人の霊とは常に異なるものであり続ける」(ランゲ)。

これはさらに文脈から明らかである。「御霊の中を歩む」ことは、聖霊の中を歩むことである。「御霊の実」(二二節)は聖霊の実であって、われわれの新しい性質の実ではない。だからここで使徒が告げているのは肉と聖霊の間の対立である――ここでは聖霊のことを、外側から信者に対して働いているだけでなく、内住する力としても働いておられると見なしている。

ここで使徒が告げているのは次のことである。すなわち、「聖霊の中を歩むこと」は、「肉の欲」に対する継続的勝利のうちに、あるいは、それから解放された状態のうちに生きる手段である、ということである。

いま特に使徒の視野の中にある敵はサタンではない――それに関する戦いについては、エペソ書六章ですでに考察した――ここでの敵は肉である。しかし、「肉」という言葉で使徒は何を言わんとしているのか?と、われわれは問わなければならない。この用語が聖書の中で人類全般を示すのに使われていることをわれわれは知っている。「すべての肉は草のようだ」。それはまた、われわれの肉体的性質、われわれの身体組織についても使われている。「私がいま肉体の中で生きているその命」。しかし、この言葉は別の意味でも使われている。特に使徒パウロによってである。肉は罪の座として述べられている。「この表現は魂よりも身体器官について述べている、と考える正当な権利はわれわれにはない」(ランゲ)。この言葉をわれわれの物質的・肉体的性質と等価なものとして受け取ってはならない。「肉という観念の本質的要素は、神を拒否すること、自分自身に向かうこと、自己を求めること、利己的要素である。これはもっぱら神に関するものである。しかし、他の人々に関しても人は自分自身、自分の享受や自分の益を追い求めるものである、という事実とも直接関係している。それゆえ、なぜ御霊の第一の効力が、利己主義に逆らう気質や行為である愛なのか、その理由は容易にわかる」(ランゲの注解で引用された、ミュラーの「罪に関するキリスト教の教理」から)。

利己主義が「肉」と称されているこの原理の本質である。肉は自己への、あるいは再生された人の中にすら存在する罪へのこの傾向性である。アダムが創造された時、もともとこの悪い傾向性はなかった。ただし、罪を犯す可能性はあった。しかし、罪に対する傾向性と罪を犯す可能性との間の区別を見落としてはならない。水に浮かんでいる木片には、沈む傾向性は無い。それは沈む可能性はある。外力によって沈められるかもしれないからである。しかし、安全ベルトで水に浮かんでいる鉛片は、実際に沈んではいないものの、沈もうとする自分自身の傾向性を有する。

今、われわれはこう信じる。「肉」は、それをどう定義しようと、霊に向かうことが不可能なものなのである。また、聖書は次のようにわれわれに教えていると、われわれはさらに信じる。すなわち、肉は罪への傾向性として最後まで信者の中に存在し続けるのである。つまり実際には、それは今生では根絶されないのである。それゆえ、われわれが生来持っている力よりも大きな力、恵みによってわれわれ自身の内にある力よりも大きな力、すなわち聖霊ご自身が、われわれには必要である。それは、この傾向性を対処してもらって、われわれをそれから継続的に解放してもらうためである。「私たちを堕落から守ることのできる」この神聖な力を絶えず揮ってもらうことが必要である。そして、われわれは常にそうしてもらえるのである。そのおかげで、たとえ沈もうとする傾向性は取り除かれなくても、効果的に抑制されるようになるのである。

この二つの原理は正反対である。しかし、ランゲが述べているように、この節(ガラ五・一六~一八)が描写している「この対比」を「果てしなく続くものと決して考えてはならない。文脈が示しているように、それとは反対に、自分自身を完全に明け渡すことをクリスチャンは求められている。それは、一つの原理である御霊によって促されて、肉の欲に道を譲ることを拒否するようになるためである」。

それでは、勝利の生活を送るために、信者の側に何が必要なのか?肉と戦ってそれを征服することではない。実際、罪を征服する力は信者にはない。むしろ、自由に肉か御霊かどちらかを選べる。一方か他方に服することができる。そして、自分の意志を絶えず聖霊に明け渡すことにより、自分の中にはない神の力、肉を完全に征服して肉の欲からの解放の道を絶えず与えてくれる力を、信者はただちに見い出す。それゆえその結果、もし聖霊がわれわれの内におられなければ必然的にしていたに違いない悪行をわれわれはしなくなる。しかし、この章の最後で使徒が述べていることに注目せよ。「キリスト・イエスのものである者たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」。

「この意味は確かに、クリスチャンになった者たちには今やその情と欲を伴う肉はもはや存在しないということではない」。ここの磔殺は「キリストの十字架を自然に彷彿とさせる。そして、キリストとの交わりには肉の磔殺が含まれる。それは十字架上のキリストのとの交わりだからである」。それゆえ、十字架上のキリストの死を信仰の中で自分自身に適用した者たちは「その座が『肉』にある罪との致命的な交わりをすべて捨てたのである。それは、キリストが客観的に十字架に付けられたように、われわれも、十字架上のキリストの死の交わりの中に入ることにより、信仰の道徳的意識の中で肉を主観的に十字架に付けるためである」。これは肉を「われわれがその中に移った新しい生命要素である信仰を通して無効化することである。この箇所のように理想化されたクリスチャンたちにとって、肉をこのように道徳的に屠ることはすでに起きたことである。しかし現実には、それは今も起きていて継続していることなのである」(ランゲ)。

「キリストの死への同形化」という主題に関して別の章ですでに述べたことが、この点と関係している。罪に対するキリストの死との一体化と、この死の中で彼の思いと心と一つになることにより、肉は十字架に渡されるだけでなく、そこに保たれるのである。肉を死の場所の中に保つことが、継続的解放の道を歩む唯一の方法である。

だから、このように肉を抑制すること、あるいは肉を死に渡すことを成し遂げるのは、御霊の中でであり、御霊を通してであり、御霊によってである(ロマ八・一三)。そして、これはただ十字架のみによる。

それゆえ、ガラテヤ人への手紙のこの章がわれわれに示しているのは、多くのクリスチャンが真のキリスト者の戦いと誤解している、二つの性質の間のあの戦いの描写ではなく、戦いに勝利するのを妨げる最も深刻な障害から解放される道なのである。この章がわれわれに示しているのは、聖霊の力によって悩ましい「肉の欲」の影響から自由な立場に立つことのできる方法である――この自由は、われわれがこの戦いに従事し、競争を走り、働きにおいて労苦し、神の恵みによって召された交わりの中にとどまるために、必要不可欠なものなのである。