「聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力を受けます。」(使一・八、改定訳) 「彼らはみな聖霊で満たされた。」(使二・四) 「それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをこのように注ぎ出されました。今、あなたたちが見聞きしているとおりです。」(使二・三三) 「その日、わたしがわたしの父の中におり、あなたたちがわたしの中におり、そしてわたしがあなたたちの中にいることを、あなたたちは知ります。」(ヨハ十四・二〇) 「御霊に満たされなさい。」(エペ五・十八) 「どうか、平和の神ご自身があなたたちを全く聖めてくださいますように。また私は祈ります。どうか神があなたたちの霊・魂・体を完全に守って、私たちの主イエス・キリストの来臨の日に責められるところのないものにしてくださいますように。あなたたちを召す方は信実であり、この御方はそれもまた行ってくださいます。」(一テサ五・二三)
神の子供たちの多くは目を覚まして、奉仕のための力を求めている。聖霊だけがこの力を彼らに着せることができる。彼らは自分たちの経験によって、次のことを見いだした。彼らが回心した時に実現されたこの祝福は、彼らのためにキリストの中に貯えられている「富」を使い尽くすものでは決してなかったのである。また、彼らが最初に主に従い始めた時以降、彼らの道に生じた新たな必要は、「私たちは信仰によって義とされて、私たちの主イエス・キリストを通して神との平和を得ています」という事実によっては(この事実は幸いではあるものの)満たされえないのである。
しかし彼らは、エペソの回心者たちのように、これを理解していた。「彼の恵みの富にしたがって、彼の血による贖いと、罪の赦しとを得る」ことがどういうことか、彼らは理解していた。しかし依然として彼らのためのさらなる祝福があったのである。それを使徒はこの回心者たちのために次のような言葉で求めた。「どうか御父が、彼の栄光の富にしたがって、力をもって、彼の霊により、あなたたちを内なる人の中で強めてくださいますように。またキリストが、信仰を通してあなたたちの心の中に住んでくださいますように。またあなたたちが、愛の中に根ざし土台づけられて、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、深さ、高さの何たるかを理解し、そして、知識を超越したキリストの愛を知ることができますように。それは、あなたたちが神の全豊満をもって満たされるためです」(エペ三・十六~十九)。
とても多くの人が、しばしば「聖霊のバプテスマ」と称されている祝福について、多かれ少なかれ考えてきた。少なからぬ人が、聖霊のパースン・務め・御業に関する教理のまさに第一原理についてのささやかな教えに欠けているせいで、その霊的行程で実際に後退してはいないものの妨げられてきた、とわれわれは信じている。
最初に認識すべき点は、聖書の中に明確に示されているように、クリスチャンはみな聖霊を持っているという事実である。彼らは聖霊の影響下にもたらされただけでなく、聖霊ご自身を受けたのである。「もしだれでもキリストの霊を持っていないなら、その人はキリストのものではありません」(ロマ八・九)。「注目すべきことに」とゴデット教授は述べている「キリストの霊という句は、ここではその前に出てくる神の霊という句と等価なものとして用いられている。イエスの霊は神ご自身の霊であり、彼は神ご自身の霊をこの下界で完全にご自身に適用することにより、ご自身の個人的命に転換された。それは、その霊をご自分の民に伝達できるようになるためである。それ以降、教会における聖霊の働きはこの形による。魂とキリストとの間にこの命の絆がないなら、その魂はキリストとその救いに関してよそ者のままである」。同時に、われわれは次の事実を認識しなければならない。御霊を持つことと、御霊に満たされることとは全く別の問題なのである。ヨハネによる福音書(二〇・二二)に記録されていることからわかるように、昇天の前にもかかわらず、聖霊が実際に弟子たちに与えられたのであり、キリストは彼らに聖霊を息吹かれたのである。しかしペンテコステの日に、彼らは聖霊に満たされたのである。
御霊の満たしについて述べられていることを理解するために新約聖書を注意深く学ぶなら、人が聖霊で満たされる四つの異なる方法に気づく。
第一。待つ期間の後。これは使徒行伝の最初の章に記されている。弟子たちには信頼すべき確かな約束と、従うべき明確な指示があった。その約束は「あなたたちは間もなく聖霊でバプテスマされます」(使一・五)というものだった。その命令・指示は、弟子たちがエルサレムを離れずに「あなたたちがわたしから聞いていた父の約束を待っていなさい」(使一・四。またルカ二四・四九)というものだった。この待つ期間の後、満たされる時が来た。使徒行伝の二章に記されているとおりである。「彼らはみな聖霊で満たされた」(使二・一~四)。
第二。祈りの期間の後。「彼らが祈っていた時、彼らの集まっていた場所が揺れ動き、彼らはみな聖霊で満たされて、大胆に神の言葉を語った」(使四・三一)。ここで使われている言葉は使徒二・四に記されている言葉とまさしく同じであることを見落としてはならない。この句の繰り返しは、使徒たち自身ですら聖霊の絶えざる刷新を必要としていたことを、われわれに教えているように思われる。彼らは過去の経験に安んじていなかったし、ペンテコステの時に受けた備えを当てにしてもいなかった。その時彼らが受けた祝福により、彼らは「イエス・キリストの霊の供給」(ピリ一・十九)を求めて復活した主を見上げる姿勢に導かれた。この使徒行伝四章に記されていることは、ペンテコステの素晴らしい祝福は彼らを祈りに頼らないようにはしなかったことも、われわれに教える。
第三。手を置いた後。「それから彼らは彼らの上に手を置いた。すると、彼らは聖霊を受けた」(使八・十七)。また、「パウロが彼らの上に手を置いた時、聖霊が彼らの上に臨んだ。すると彼らは異言で語り、預言した」(使十九・六)。
第四。宣べ伝えの後、または福音を告げている間。「ペテロがこれらの言葉を語っている間に、その言葉を聞いていた人たち全員の上に聖霊が下った」(使十・四四)。「そして私が話し始めた時、聖霊が最初私たちの上に下ったのと同じように、彼らの上にも下りました」(使十一・十五)。斜体の箇所は原文にはないが、この言葉をわれわれは強調する。それは、この祝福が臨んだのは、御言葉が宣べ伝えられている間だったことを示すためである。
これらの事実から、人々は一つ以上の方法で御霊に満たされたことがわかる。また、この特別な目的のために一定期間待った後でなければ、ここで述べられている特別な祝福を受けることはできない、と結論を下すのは正しくないことがわかる。
使徒行伝に記録されている諸々の出来事に関して、注目するとためになるもう一つの点は、「満ちて(full)」いることと「満たされる(filled)」こととの間の区別である。前者は恒常的・習慣的状態を指し、後者は特別な霊感や流入――特別な時になされる、奉仕のための御霊の即時的活動や突発的行為――を指す。
これらの節に注意深く気を付けなければならない。
例えば、「ですから、兄弟たちよ。あなたたちの間から正直で聖霊と知恵に満ちている(full)七人の人々を選びなさい。(中略)そこで彼らは信仰と聖霊に満ちている人、ステパノを選んだ」(使六・三~五)云々と記されている。また、バルナバに触れて、「なぜなら彼は良い人であり、聖霊と信仰に満ちて(full)いたからである」と記されている。
これらの節の中の「満ちて(full)」という言葉は、恒常的性格を示している――この人々は聖霊で満たされて、習慣的に聖霊に満ちて(full)いる人々だったのである。
しかし特別な奉仕のためには――必要が生じた時や、特別な困難や試練の時には――これは十分ではなかった。このように満ちている人々に対して、追加の特別な供給が臨んだ。これにより彼らは満ち溢れた。言わば、内なる泉から湧き出たのである。ヨハネ四・十四とヨハネ七・三八を比較せよ。
だから、「するとペテロは聖霊で満たされた」(使四・八)云々と記されている。すでに満ちている人が即座に新たな満たしを受けたのである。また、「その時サウロ(別名パウロ)は聖霊で満たされた」云々と記されている。この箇所のこの言葉は、特別な時に突然臨んだ流入を示している。
今、信者が自分の特権であるものとして探し求めて要求すべきは、この習慣的状態――常に御霊に満ちていること――である。
これは必ずしも喜び、恍惚状態、力の感覚といった何らかの素晴らしい経験である必要はない。むしろ、主を近くに感じること、子供のような確信、主に常に全く頼ることである。これはわれわれに主が内住しておられるという感覚を与える。
もし「聖霊に満ちて」いるなら、特別な困難が生じる時、また奉仕への特別な召しがわれわれに臨む時、この「満たし」あるいは瞬間的供給が常に与えられることに、われわれは気づく。これによりわれわれは、どんな場合でも、御旨にしたがって、勝利し、証しし、奉仕し、実を結ぶことができる。われわれが満ち溢れるのは、これらの満たしが臨む時である。
御霊に満ちているこの恒久的状態が、どんな時でも、またどんな環境の中でも、神のすべての子供を特徴づけていなければならない。これは、恵まれた少数の人だけに属する特権ではないし、特定の機会や特別な環境の時しか期待できないものでもない。
信者の正常な状態を、縁まで水で満ちている器で描写することができる。この状態のおかげで信者はさらなる供給に頼らなくてすむようになるわけではないし、自己満足するわけでもない。反対に、このように「満ちて」いることは自分自身の不十分さと、支えて新しくしてくれる神の恵みの必要性とを毎瞬意識することである。「聖霊に満ちて」いる魂こそ、真に上を見上げて、子供のような単純さで絶え間ない供給を求めて信頼する人である。
これらの「満たし」が臨むのは、それらが必要であることを神がご覧になる時である。その時、魂は「生ける水の川々」で満ち溢れる。この「生ける水の川々」がペンテコステの日々の特徴でなければならない、とわれわれの主は宣言された。
しかし、神の子供たちの大多数の経験は、悲しいことにそうではないことがしばしばある。時々この充満を受けることがどういうことか、しばらくの間「聖霊に満ちて」いることがどういうことか、彼らは知っているかもしれない。しかし、霊的漏出があまりにも大きくてわかりにくいため、大抵の場合、間もなく彼らは空虚な状態に陥り、主の御用に相応しくなくなってしまう。特別な必要の時や、特別な奉仕の時に、彼らは特別な供給を受けるかもしれないが、そうした供給ではもはや満ち溢れないことに彼らは気づく。そして、その理由は明白である。彼らの霊の命の最高水位線が、言わば、彼ら自身の容量の水準よりも遥か下にあるのである。
さて、何が必要なのかは明らかである。第一に「満」たされること、次にその充満の中にとどまることである。この「満たし」は、われわれの必要に応じて、奉仕の道に臨む。その都度供給を受けることについて心配する必要はない。神は「ご自身の栄光の富にしたがってキリスト・イエスにより」われわれの必要をすべて完全に満たしてくださる。
「満」たされるこの祝福は、通常、三つのことと関連して実現される――待つこと、願うこと、受けることである。
待つこと。しばらく待った後でなければ御霊の充満を経験できない、とはわれわれは言わない。なぜなら、使徒行伝十・四四に「ペテロがまだこれらの言葉を語っている間に、その言葉を聞いている人たち全員の上に聖霊が下った」と記録されているからである。この特別な賜物が遅れることは全くなかったし、確かな期待感が呼び覚まされることもなかった。しかし突然、福音のメッセージを聞いている間に、彼らは聖霊を与えられたのである。この祝福は使徒たち自身がペンテコステの時に受けたのと同じであると聖ペテロは認識した。これは四七節からわかる。「誰が水をとどめて、この人たちがバプテスマされないようにすることができるでしょうか?彼らも私たちと同じように聖霊を受けたのです」。
それでも、われわれは知っている。われわれの霊的力の刷新のために神が定められた方法の一つは、主を待ち望むことである。
われわれは待たなければならない。それは、祝福する用意が神に整っていないからではなく――神は恵むことを待っておられる――神の祝福を受け取るための用意をわれわれが整えるためである。
すべての霊的進歩と力のために欠かせない一つの条件は魂の安息である。神の霊で満たされたければ、神の安息の中に入ることの何たるかを信者は知らなければならない。これが待つことの主たる目的の一つである。われわれは主に仕える――自分の客に仕える女中のように主の御旨に仕える――ただ主を待っているわけではない。そしてわれわれが待っている間、主はご自分が満たそうとしている器を整えられる。それは、その器を御前で静かな状態にもたらすことによってである。
それは、われわれのすべての心配を彼に委ねることによる安息である。もし、それらの心配を主に渡し、主に任せて、放置しておく代わりに、自分で担うなら、われわれは御霊に満たされる第一の条件に従うことに失敗する。しかしもし、主に仕えつつ、われわれの重荷を下ろしてすべての重しを捨てるなら、その時、われわれはこの祝福された結果へと導く最初の一歩を踏み出すのである。
それは自己を下ろすことによる安息である。これはわれわれをさらに深い静寂さの経験の中にもたらす。これが意味するのは、われわれの内なる存在が調整されることである。これはわれわれの力を交換することである。「主に仕える者たちは、その力を新しく(交換)する」(イザ四〇・三一)。主ご自身が、われわれの新しくされた性質の代わりに、われわれの活動の中心となられる。その時、われわれは自己否定の真の意味を知る。それは自分自身を無視することであり、自分の命の源としてキリスト以外の何ものも知らないことである。
それは、あらゆることで神に服することによる安息である。待つことによりわれわれは身を低くする。神の力強い御手の下にへりくだる。その力とその支配の下に服する。その時、われわれは陶器師の手の中にある粘土のようになる。その時、自己のエネルギー、熱心さ、不安はすべてやみ、全存在は無条件で神の御手の中に明け渡される。それは神がわれわれの中で「イエス・キリストを通して御目にかなうこと」を行えるようになるためである。
願うこと。「聖霊に満ちて」いることは使徒時代特有の祝福ではなく、現経綸のすべての信者の大きな特権であること、それはいま経験・実現できる祝福であること、そして、この「充満」なしに生きることはわれわれの真に正常な状態の水準よりも低い生活を送ることであることを、信仰は理解する。
これを見て感得せよ。そうするなら、直ちに一つの願いが魂の中に呼び覚まされる。それは祝福そのものの先駆者である。この願いがなければ、御霊の充満を求めるわれわれの祈りは冷たい、形式的な、非現実的なものになってしまう。満たされたいという願いは、時として、魂の不毛さを感じる痛ましい感覚によって生じる。詩篇六三・一のダビデの言葉のような表現は、神だけが与えうる命と新鮮さを求める魂の願いを正確に言い表わしたものである、と感じるのである。「私の身は、水の無い乾いた地にあるように、あなたを慕い求めます」。なんと多くのクリスチャンが、経験上、この「乾いた地」の中にあることか!このような状態の中にあるのは、実に悲しいことである。しかし、不毛で実を結ばない状態にあるにもかかわらず「谷川の水」に対する願いがないのは、さらに悲しいことである。これが今日の教会の弱さの隠れた原因ではないだろうか?――乾き、不毛で実を結んでいないにもかかわらず、「神の満ち満ちた豊かさで満たされ」たいという願いが実際のところ少ししかないか、あるいは全くないのである。
しかし、神が魂を満たそうとされる時、神は魂を「荒野」の中に誘われる(ホセ二・十四)。神は魂を導いて、自分の必要を見て感得するようにされる。「そこから」神は魂に「満ち満ちた祝福」を受けさせる。自分の干上がった不毛な状態を知るようにされることは、世的な妥協はすべて全く愚かなものであって罪であると見なすことであり、神に対する全き完全な明け渡しの必要性を見ることである。神のために「徹底的」になるという考えや、この世の富を大いに失うという考えから、われわれはもはや尻込みしなくなる。神と共に進み通すことをもはや恐れなくなる。神がわれわれに関してご自身の道を進まれることを、われわれは今や喜ぶようになる。
読者よ、あなたはこのような自己に対する絶望に導かれたことがあるだろうか?苦い経験により、二心な生活は遅かれ早かれわれわれを「水の無い乾いた地」に導くことを知るようにされただろうか?
もし今あなたの心からの言葉がダビデの言葉と同じなら、神に感謝せよ。「神よ、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は神に、生ける神に渇きます」(詩四二・一~二)。注意せよ。この願いはたんなる神の賜物に対するものではなく、神ご自身――「生ける神」――に対するものなのである。
主ご自身の臨在と充満を求める、この同じ強烈な魂の願いが、別の詩篇の中に表現されている。「私はあなたに向かって手を伸ばします。私の魂は乾いた地のようにあなたに渇きます」(詩一四三・六)。
今や、願い求めるこの霊に祝福が与えられることがわかる。われわれの主はそれに至福を与えてくださる。「幸いなるかな、義に飢え渇いている者たち。彼らは満たされるからである」。それでも、この願いで立ち止まらないようにしようではないか。この「渇き」は「満たし」のための備えにすぎない。これはわれわれを次の点に導く。
受けること。神の諸々の約束を求める一方で、その諸々の命令に従うことを忘れないようにしようではないか。「聖霊を受けよ」「御霊に満たされよ」は神の命令である。ペテロとヨハネがサマリヤにいるクリスチャンの回心者たちのもとに来た時、彼らは「彼らが聖霊を受けるよう、彼らのために祈った」(使八・十五)。パウロがエペソに来て、そこで弟子たちを見いだした時、彼は彼らに「あなたたちは信じた時、聖霊を受けましたか?」(使十九・二)というこの質問をした。この人々がどのような類の弟子だったのかに関する質問はさておき、次のことは明らかだと思われる。使徒は彼らがキリストの弟子――御名の中へとバプテスマされて、それゆえ聖霊から生まれた信者――であることを前提としてこの質問をしたのである。彼らは実際にはバプテスマのヨハネに従う者たちにすぎなかったことがわかる――キリスト教の経綸の中に個人的に入っていない弟子たちだったのである。しかし大事な点は、結局のところ、彼らの霊的状態がどうだったのかということではなく、使徒の意図は何だったのか、その質問の目的は何だったのかということである。
彼の質問は次の事実を示唆するのではないだろうか?すなわち、御霊から生まれた信者でも、使徒たちがペンテコステの日に聖霊を受けたのと同じような意味では、まだ聖霊を受けていない可能性があるという事実である。
それゆえ、この同じ使徒がガラテヤ人に「あなたたちが御霊を受けたのは律法の行いによるのですか、それとも、信仰を聞くことによってですか?」(ガラ三・二)と書き送っているのをわれわれは見いだす。信仰は働くことではなく受けることにある。
これをわれわれの主の御言葉と比較せよ。「それは真理の霊です。この御方をこの世は受けることができません。この御方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたたちはこの御方を知っています」(ヨハ十四・十七)等々。「この世については、視力に欠けているせいで持つことができない。弟子たちについては、この慰め主の個人的臨在が知識をもたらし、この知識により、いっそう完全に受ける力を持つようになる」(カノン・ウェストコット)。
願いに欠けているせいで多くの人が妨げられている一方で、受け取らないせいで妨げられている人がなんと多いことか!真に熱心な人々の問題はここにあるように思われる。求めは多いのに祝福が少ししかないか、あるいは全くない理由は、それに見合う形で受け取っていないからである。しかしこの扉――いま信じて受け取ること――を通して、御霊の充満だけでなく他のあらゆる祝福も実現されるのである。
この問題に関するわれわれの主の指示は明確・明快である。「ですから、わたしはあなたたちに言います。何でもあなたたちが祈り求めるものは、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります」(マコ十一・二四)。つまり、「祈り求めたものを、いつの日か、遅かれ早かれ受けるだろうと信じるのではなく、祈っている時に実際に受けたと信じるべきである」(「新約聖書注解」エリコット司教編)。
自分は受けたと信じることは、自分は願い求めていると信じる以上のことである。われわれの信仰が求める段階から受け取る段階に移る時、この満たしが臨むのである。
真に求めることは、キリストの御名の中で求めることである。このように祈る時、われわれは求めるだけでなく受けるのである。「今までは、あなたたちはわたしの名の中で何も求めたことがありませんでした。求めなさい、そうすれば受けます。それはあなたたちの喜びが満ちるためです」(ヨハ十六・二四)。
ここでわれわれの主は「求めなさい、そうすれば与えられます」とは述べておられないことに注意しようではないか。これは真実だが、彼がここで述べておられるのはもう一方の面――人の面、受け取る面――である。「求めなさい、そうすれば受けます」。真の願い求めには、必ず、その後にあるいはそれに伴って、実際現実に受けることが続く。
しかし、この満たしの性質を認識しそこなっているせいで、多くの人が困惑している。
聖霊をさらに得ようと求める代わりに、聖霊がわれわれをさらに得ることができるよう、われわれは自分自身を聖霊に委ねるべきである。
ここで単純な例証が助けになるだろう。
あなたがだれかを自分の家に迎え入れて、一つの部屋を与えたとする。その部屋はあなたの家で最高の部屋だが、まだその部屋しか与えていない、と仮定しよう。しばらくして、あなたはその人に別の部屋を与える。このようにあなたは続けていき、一つずつ部屋を与えて、ついには全家がその人のものになり、その人の支配下に入る。
さて、この場合、何が起きたのか?この人がますますあなたの家の中に入って来たということではなく、あなたの家がますますこの人のものになったということである。
だから、忘れないようにしようではないか。御霊に満たされることについて述べる時、その祝福は神からのたんなる影響や流出を受け取ることにあるのではない。御霊はひとりのパースンである。われわれは御霊を受けた。われわれが死から命に移った時、御霊はわれわれの心の中に入って来られた。信じてキリストに回心した時、われわれは個人的な聖霊を受けた。しかし、この祝福は次の点にある。すなわち、われわれはますます完全にその力と支配の下にもたらされたのである。御霊がさらに十分にわれわれを所有されたのである。
これが全く聖められることである。霊――われわれの存在の中心部分であり、ここから再生の御業が始まる――だけでなく「霊・魂・体がすべて」――言わば家の中のすべての部屋が――御霊に明け渡される時、その時、われわれは「聖霊に満ちる」のである。
しかし、一言注意を述べよう。この祝福を求めるとき、自分の安息を失わないように気をつけようではないか。もし信仰の安息の中にもたらされているなら、もし彼の安息の中に入っているなら、いかなる考えによってもそこからおびき出されないようにしようではないか。神を待ち望もうとするとき、安息しきっていることほど必要なことはない。しかし、多くの人は「御霊のバプテスマ」を求めるあまり、すっかり安息の中から抜け出してしまったのである。だから、われわれの熱心さが退化してせっかちな心配にならないように気をつけようではないか。
もう一つ警告が必要である。何があっても、キリストから目を放してはならない。また、自分が求めている祝福はキリストの外に、あるいはキリストとは別に存在する、と思ってはならない。「あらゆる豊かさ」――すなわち御霊の充満――は彼の中に宿っていることを覚えよ。
また、経験――何か異常な霊感――を得ることに自分の心を向けないように気をつけよ。進んで神の御旨の中に安息せよ。神に「あなたを所有してもらい、砕いてもらい、成就してもらいなさい」。そうするなら、神があなたを所有してくださる。
証拠について一言。「自分が聖霊に満ちていることが、どうすればわかりますか?」と尋ねる人が誰かいるだろうか?それを知ることにより、あなたはこれを確信するようになる。ヨハネ十四・十一と二〇の二つの御言葉を比較せよ。「わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを信じなさい」。「その日(御霊の充満があなたに臨む日)、わたしが父の中におり、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを、あなたたちは知るようになります」。「御霊の教えにより、信仰のみに立つべき時がいつなのか、あなたたちは知るようになります」。その日あなたたちは「この知識により、わたしとのあなたたちの交わりの豊かさを理解します」。御霊の充満はキリストをわれわれの意識に対して、現実の、内住する、すべてに十分な救い主とする。御霊はわれわれの注意をキリストから他の対象に決して逸らされない。御霊はキリストの栄光を表わす。御霊の充満を知れば知るほど、われわれはますますキリストをあがめ、ますますキリストで占有される。「御霊の分与はキリストの啓示である」(カノン・ウェストコット)。