エバン・ホプキンス

ケズイックと教会に対する比類ない賜物

フレッド・ミッチェル

「神と聖潔のために豊かな影響を及ぼした生涯」と、ハンドリー・モール司教はエバン・ヘンリー・ホプキンスについて、飾らずにさりげなく描写した――しかもモール司教は控え目な人であって、誇張した評を書くような人ではなかった。だから、そのような人が聖なる生活についてのこの古典的書物を記したのである。本書には専門的で複雑な話は何もないが、ケズイック大会の教科書と当然のように見なされてきた。ケズイック大会は、一八七五年以降、神の全教会に対する大きな祝福であった。

エバン・ヘンリー・ホプキンスは、南アメリカのニュー・グレナダにあるサンタ・アナの町で、一八三七年九月十六日に生まれた。当時、彼の両親はその町に住んでいた。彼の父親は土木技師としての義務を負っており、その町の近くの銀鉱山を調査・監督しなければならなかったからである。

この家族は一八四八年に南アメリカからイギリスに戻った。「霊の命にある自由の法則」の著者とその姉妹たちは、みな英語だけでなくスペイン語も話した。数年間、若いエバン・ヘンリー・ホプキンスはブリストルにある私立学校に通った。しかし彼が十四歳になった時、家族は再び引っ越した。今度はオーストラリアだった。その地で彼の学びはメルボルン・アカデミーで継続した。十八歳の時、彼はその都市の化学大学に入学し、その後、鉱山に関する政府の学校に進んだ。父親の科学上の経歴に明らかに倣うものだった。しかし、神には他の御計画があったのである。

最初、キリスト教は彼にあまり深い印象を与えなかったようである。彼はブロムフィールド司教から堅信礼を受け、マン島で科学調査をしている間、ある敬虔なメソジストと一緒に宿泊した。その人は彼に神の恵みについて語った。しかし一八五八年になってはじめて、彼がマン島から戻ってドーセットシャーに住み着いた時、光が彼の魂に臨んだ。イギリス南部の州で、彼が土地の管理と地質調査をしていた時のことである。ある素朴な沿岸警備隊員が伝道者になって、若いホプキンスに主を指し示した。この沿岸警備隊員は一日前に回心したばかりだったが、人々をすなどる漁師として早くも働き始めたのである――その新しい人生の二日目に何という魚をつかまえたことか!沿岸警備隊員のマーシャルセイは、前日彼が働いている時に主がどのように自分を救って下さったのかを、エバン・ホプキンスに告げた。彼はホプキンスに「御子イエス・キリストの血はすべての罪から清める」という御言葉を印象付けた。そして、この若い科学者は再生されたのである。その後、この年長者は、砂浜に跪くよう若い友人を招いた。その場所で彼は祈ろうとしたが祈れなかった。しかし帰宅途中、「自分はキリストのゆえに神に受け入れられた」という確信が与えられた。

エバン・ヘンリー・ホプキンスはキリストにある新しい人になった。そしてすぐに、その地区はこの事実を知り始めた。人生は感興に満ち、彼の将来は明るかった。しかし彼はすぐに、神の御手が自分の上にあって、英国教会の奉仕のために準備するよう自分を導いていることに気付いた。それで彼はロンドンのキングスカレッジに進んで神学を学んだ。そこで彼は、優れた教授であり学者であるエドワード・ハインズ・プランプターの足元に座す大きな特権にあずかった。彼はホプキンスを新約聖書研究の宝の中にもたらした。そこで彼の聖書知識の基礎が据えられたのであり、この基礎はその後大いに彼の役に立ったのである。

神学研究の年月の間、ホプキンスは伝道の働きに深く引き寄せられていった。当時、その働きはロンドンの生活に影響を与えていた。シルバータウンで、大工場の従業員たちの間に、彼は自分の奉仕場所を見い出した。そしてその場所で、叙任後、彼はビクトリア・ドックスの聖マルコ教会の牧師補として奉仕を続けた。

一八六五年六月、当時二十八歳だったエバン・ホプキンスは、ロンドンの司教だったテイト博士によって、聖パウロ大聖堂の助祭に任じられた。そしてその翌年、司祭としての叙任を受けた。

一八六八年二月、彼は西ロンドンに移って、ポートマン・チャペル――今はポートマン・スクエアの聖パウロ教会である――で牧師補になった。そこで彼は一人の素晴らしい同僚であり、真の福音信仰の導き手でもある人に出会った。この場所で彼はケアンズ卿やシャフツベリー卿のような礼拝者たちの仲間になり、彼らに受け入れてもらっただけでなく、すぐにこの高名な人々の助けになったのである。

教会におけるエバン・ホプキンスの偉大な永続的務めが始まったのは、彼がテムズ川畔のハンプトンでイザベラ・サラ・キッチンと結婚してからである。その時、彼はロンドンを離れてリッチモンドに行き、ホーリー・トリニティ教会の初代教区牧師になった。この教会は長きにわたって彼の名と関係していた。一八七〇年から一八九三年までリッチモンドは彼の郷里であり、彼の働きの中心だった。ここで彼は福音を宣べ伝え、聖書を講じ、神が罪人を救って聖徒を建て上げられるのを目にした。

一八七三年五月、ロンドンのメイフェアのカーゾン・チャペルで、ある転機が生じた。彼の心にとって、その転機は何年も前のドーセット海岸での彼の回心の次に重要なものだった。アメリカ人のクエーカーであるロバート・ピアサル・スミスが、イギリスでクリスチャン生活に関する聖書講読を行っていた。彼は、義認だけでなく聖別も信仰によること、そして、神の諸々の約束を理解する必要があり、そうするならクリスチャン生活が一変することを示した。数少ない出席者の中にはウィンブルドンのE.W.ムーアがいた。彼はその後長きにわたって、ケズイックやその他の場所で、エバン・ホプキンスの親しい同僚・友人であり続けた。エバン・ホプキンス夫人はその集会の結果を次のように描写している。

「自分が耳にして経験したことに深く感動しつつ夫が家に帰って来たときのことを、何とよく思い出せることでしょう!夫は私に、『自分は広大で美しい、乳と蜜の流れる地を見渡している人のようだ。これを手に入れなければならない』と言いました。それは夫のものになりました。夫がそれをすっかり描写し終えた時、夫が溢れ流れる祝福を受けたことを私は感じました。その祝福は私が知るいかなるものをも遥かに超えるものでした。まるで大きな隔たりが私たちの間に生じたかのようでした。私たちはその晩遅くまで起きていて、自分たちの前に聖書を置いて語り合いました。ああ、私はとても飢えていたのです。遂に、ごく単純に、しかし真摯に、私も御言葉通りに神を受け入れました。そして、キリストを私の内住の主また命として受け入れて、彼が私の心の中で王座につかれたと信じました」。

それゆえ、ブロードランズ大会が翌年開催された時(一八七四年)、エバン・ホプキンスがそこに出席して、聖なる生活についての明快な教えを与えたのも驚くにはあたらない。彼の科学的訓練と新約聖書研究は、神の栄光のためにすでに融合されていたのである。

ブロードランズ大会について多くのことを記すこともできよう―― 一八七四年のオックスフォード大会や一八七五年のブライトン大会についても同様である。しかし次のことを記すだけでいいだろう。すなわち、エバン・ホプキンスは祝福の流れのただ中に導かれつつあったのであり、その流れによって一八七五年の夏、今日まで続いている実り豊かなケズイック大会の第一回目が開催されたのである。

この草創期から一九一五年の彼の最後のケズイック大会まで、エバン・ホプキンスは指導的教師の一人であり、フランシス・リドリー・ハヴァガルの言葉を引用すると、「聖潔はイエスを信じる信仰によるのであって、自分自身の努力によるのではない」という大会の教えの主導者の一人だった。彼はこの真理をはっきりと理解しており、聖書に精通していた。会衆を治める能力と、約束に拠り頼むよう探求者を導く能力を持っていた。また、彼は集会後、単純ではあるが効果的に世話をした。これらすべてのことにより、彼はケズイックと神の教会に対する神の比類ない賜物であり続けている。ホプキンス氏は一九一八年に亡くなった。エバン・ヘンリー・ホプキンスの伝記で私に推薦できるのは、彼の親しい友人であるアレキサンダー・スメリーによるものと(ああ、長いこと絶版である)、いま出版中のスティーブン・バラバス博士による「こんなにも偉大な救い」という題名の、大会の新しい歴史についての本だけである。

エバン・ホプキンスの教えが、思慮深い読者の前に、彼のこの最大の書である「霊の命にある自由の法則」の中に示されている。今回の再発行は時期を得たものであり、励ましに満ちている。神の並外れて偉大な恵みをさらに親しく個人的に知りたいという深い切望がある。この書は間違いなく、魂を祝福の中にもたらすために用いられるだろう。

この素描を始めるにあたって、私は彼の友人であり、聖人の如きモール司教から短い引用をした。締めくくるにあたって、一種の要約として、この同じ熟練した執筆者から別の引用をしよう。「私は彼の多くの面を知ることを学んだ。彼の様々な豊かな知識、見事な水彩画の腕前、非の打ちどころのない魅力的な快活さ、ユーモア、広範な知恵を私は知った。彼は常に健全であり、常に彼の主の栄光と彼の信者仲間の益を一心に目指していた。また、私は彼のクリスチャン家庭の見事な光と甘美さを幾らか見た。彼は亡くなった。彼は神の御旨の中で自分の世代に麗しく立派に仕えて、眠りについた。そして私の生活は、数千の人々と同じく、彼の他界によって、前より侘しくなったように思われる。しかし、すべてが幻想ではない限り(確かにすべては幻想ではない)、キリストとその聖潔に関するエバン・ホプキンスの教理と証しは永遠に真実である」。

この書から明らかに分かるように、彼の教えが真実だからこそ、われわれは本書を勧めるのである。

フレッド・ミッチェル
中国内地宣教団・本部監督