十字架だけを誇る

F. J. ヒューゲル

勝利者誌 一九四二年 二三巻 四月号 掲載

人々は自分たちの富を誇り、戦士は自分の武器を、貴族は自分の血統や名を、科学者は自分の科学を、女性は自分の美しさを、そして、芸術家は自分の芸術を誇ります。それと同じように、使徒パウロはキリストの十字架を誇りました。「断じてあってはなりません」と聖なる情熱をもって彼は叫びました。「私が私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るようなことは」。彼は十字架を誇っただけでなく、競合するなにものも許しませんでした。彼は十字架以外になにも誇ろうとしませんでした。それは彼に、絶対的な二心なき献身を要求しました。

十字架がパウロの心と生活の上に及ぼした力は、いくら強調しても強調しきれません。彼にとって、それは彼の生活の中心であり、彼の存在の基礎であり、彼の神学の精神であり、彼の希望・願望のアルファでありオメガでした。それは彼の信仰の北極星であり、彼が自分の霊感をそこからすべて引き出した基礎でした。十字架につけられたイエス・キリスト以外になにも知るまい、と彼は決意しました。パウロがキリストとその十字架を愛したように、乙女を愛した男は一人もいませんでした。

バード提督が数年前に、科学調査のために南極点の近くで冬を過ごした時のことです。ある晩、彼は小屋を離れて、新鮮な空気の中を散歩しました。突然、彼は振り返って戦慄しました。自分の小屋の影も形も見えなかったのです。方向感覚を与えてくれるものは、彼の周りに全くなにもありませんでした。雪と寒さと南極の荒野が彼を取り巻いていました。彼は悟りました、もし進んで行って、最初の試行で小屋の位置を特定することにしくじれば、自分は迷ってしまうだろうことを。方向感覚がすっかりなくなってしまうでしょう。空しく探索する羽目になって、最終的には凍え死んでしまうでしょう。彼は長い棒を持っていたので、それを氷に突き立てました。「ここが中心です。小屋が見つからなくても、ここに戻って来ることができます」。三回、彼は小屋を探しに出かけました。毎回、彼は小屋を見つけることに失敗して、この中心に戻ってきました。これがなければ、諺にある「干し草の中の針」のように失われていたでしょう。四回目の試行で彼は自分の小屋に出くわして救われたのです。

クリスチャンとして、私たちは常に、私たちの中心である十字架に戻らなければなりません。そうしそこなうなら、バード提督を取り巻いていたよりも暗い夜の中に、私たちは飲み尽くされるでしょう。

(a)私たちは絶えず新たに清めてもらうために十字架に戻らなければなりません。清めの血をもはや必要としなくなる地点に達することは決してありえません。「洗われた者は、足以外に洗う必要はありません」。私たちのクリスチャンの歩みでどんなに注意していたとしても、この世との接触によって汚されてしまいます。確かに、クリスチャンは故意に罪を犯すことはありませんが、なんらかのきっかけでつまずいて、衣にずっと土がついてしまうかもしれません。光の中を歩んで、贖い主との絶えざる交わりの中を歩むことを願うなら、必要が生じるたびに、直ちに十字架に戻って、自分の衣を小羊の血で新たに洗うことを学ばなければなりません。

(b)私たちは絶えず新たに「自己の命」を取り除いてもらうために十字架の力を取らなければなりません。確かに、私たちは死と復活によりキリストと一体化されたという法理的立場にあり、それを聖霊の力の中で一度受け入れるなら、それは不可侵な基礎となります。私たちはそれを感覚にかかわらず事実と見なします。神が御言葉の中で断言しておられることを真実と見なします。しかし、罪に対して死なれたキリストと一つである、と見なすよう私たちは命じられていますが(ローマ六・十一)、これは圧倒的な勝利者になることを願うクリスチャンが永遠に経験の中に保持すべきものです。無防備な瞬間は、「天然の車輪を回す」きっかけになりかねません。私は自分の中心に戻って、十字架のほふる力を新たに取り、「自己」を否まなければなりません。さもないと、天然の古い命が密かに戻ってきてしまいます。

(c)私たちは永遠に十字架に戻り続けなければなりません。さもないと、「自分の死すべき肉体においてイエスの命を現わすために、自分をイエスのために死に渡す」という摂理が、神の全き御旨を成し遂げることはきっとないでしょう。死から発する以外に命はありません。これが永遠に十字架に戻り続けなければならない理由です。神は豊かな実を獲得されるでしょうが、麦粒は地に落ちて死ななければなりません。さもないと、一粒のままです。私たちが他の人々に伝える命の豊かさは常に、私たちがキリストにあってあずかる死の深さによります。神のための新たな働きの前には必ず、私たちを死に連れ下る逆境が先立たなければなりません(主は必ずそれを備えられます)。豊かに実を結ぶには他の道はありません。

(d)私たちは決して十字架を見失ってはなりません。十字架はクリスチャンたちのための神の鋳型である以上、霊の中で絶えず十字架に戻り続けなければなりません。私たちは一つの型にしたがって形造られつつあります。性格にしたがって、神聖な陶器師は各々を別の形に形造っておられるわけではありません。私たちは「御子のかたちに同形化されるよう予め定められ」ているのです。これは、私たちは彼の死に同形化されつつあることを意味します(ピリピ三・十参照)。パウロのように、私たちがキリストと共に十字架につけられるときはじめて、天の陶器師は彼の魂の苦しみを見て満足されます。私たちは、常に主イエスの死を身に負っていることを自覚しつつ、すべてを十字架の光に照らして解釈しなければなりません。これによってのみ私たちは、困難の中にある時に落胆することから、困惑している時に絶望することから、迫害される時に自暴自棄になることから、打ち倒される時に滅びることから守られます。

(e)私たちは、「彼」のことを思いつつ、永遠に十字架を見続けなければなりません。この方は、「ご自身に対する罪人たちの反抗を耐え忍んだ」方です。「それは私たちが弱り果てて、気落ちすることがないためです」。らい病人の間で働いていた時、ダミアン神父を支えたのはこの十字架でした。この十字架がなければ、彼は彼らの間で生活して、彼らに福音を宣べ伝えることは決してできなかったでしょう。最終的に、彼自身もらい病になって亡くなりました。メアリー・スレッサーは、キリストの十字架のおかげで、無限の苦痛を伴う仕事を、アフリカの真ん中で忠実に果たせた、と証ししました。今日の戦いはとても厳しいものであり、カルバリを私たちの唯一の中心としつつ、インマヌエルなる方の脇腹から流れ出る泉からますます深く汲み上げないかぎり、きっと私たちは気落ちして、弱り果て、引き返してしまうでしょう。

(f)最後に、私たちは永遠に十字架に向かい続けなければなりません、なぜなら、他のどこにも、悪魔――「この世の君」――を征服するための適切な武器は見つからないからです。十字架上で、贖い主は主権者たちや権力者たちを剥ぎ取り、彼らを公然とさらし者にして、ご自身において彼らに勝ち誇られました。私たちが十字架につけられた命を生きるときはじめて、私たちの戦いの武器は肉のものではなくなり、神を通してサタンの要塞を崩すほどに強くなります。敵が、自分の時が短いことを知って、大いに怒って下って来る時が来たように思われます。これまで以上に、カルバリの勝利という基礎に基づいて「強い人を縛る」必要があります。「悪魔に抵抗しなさい」という聖書の命令を、今ほど聞くべき時はありません。贖い主が成就された贖いの御業を十分に行使してそうするなら、勝利は私たちのものです。どれほど敵が攻撃し、どれほど悪鬼どもが増し加わったとしても。そうです、地獄がこぞって私たちに立ち向かったとしてもです。

キリストの十字架以外のものを誇ることは罪であり、自分自身の空想上の義を誇ることは罪であり、自分の宗派を誇ることは罪であり、クリスチャン経験を誇ることは罪であり、自分自身の美徳や賜物を誇ることは罪であり、宣べ伝える人が自分の雄弁さを誇るのは罪であることを、私たちが学ぼうとしさえすれば。古い命、天然の命を徹底的・完全に死に渡して、キリストとその十字架だけを誇ろうとしさえすれば。そうすれば、私たちはパウロのように圧倒的な勝利者になるでしょう。なにが来ようとも、私たちはキリストと共に天上に座して統治するでしょう。