勝利者誌 一九四五年 二六巻 七月号 掲載
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます(中略)つまずきの石。」(一コリント一・二三)
十字架につけられた贖い主の周りに群がったユダヤ人たちは、嘲り、罵って、大声で叫びました、「もしイスラエルの王なら、今、十字架から降りて来い。そうすれば信じよう」。「彼と共に十字架につけられた強盗たちも同じように罵った」と記されています。
近年、この大昔の叫び声の反響である大きな叫びを、教会はあげています。キリストが十字架から降りようとしてくれさえすれば!という叫びです。私たちは山上のキリストを欲しています。癒しの務めを果たされるキリストを信じています。崇高な模範であるキリストを愛しています。社会的な福音のキリストを宣べ伝えています――しかし、十字架のキリストはつまずきです。「今、十字架から降りて来い。そうすれば信じよう」。
しかし、王は降りて来られませんでした。あの恐るべき時ほど、彼の王権が神聖だったことはありませんでした。この呪われた木から彼は統治しようとされました。ここで彼は贖いを成就されました。ここから彼が「成就した」と叫ばれた時、「岩が裂けて、墓が開かれ」ました。ここで彼が万人のために死を味わわれた時、宮の幕が裂けました。それは、神のすべての子供のために、神の御前に直接至る道が開かれたことを象徴していました。そのとき、神の時がキリスト教時代の幕開けを告げました。そのとき、虜とされていた人類の枷は打ち砕かれました。この恥ずべき木から、たとえ十字架のつまずきがどんなに苛立たしいものだったとしても、王は依然として統治されます。ただこの御座からのみ、彼はご自身の王国を確立されます。
今日の世界の騒乱は、灼熱の火山になぞらえられるかもしれません。「逃れる道」はないのでしょうか?希望はないのでしょうか?人の幸福のための確かな基礎はないのでしょうか?社会秩序の病に対する治療薬はないのでしょうか?
私たちはこれらの問いに対して正直になり、人間的見地から言って逃れる道はないことを認めた方がいいでしょう。事実に向き合うことを拒む愚かな楽観主義は、ますますひどい恥と痛みという結果になるだけです。それは炎上するローマをもてあそぶようなものです。イエスの道以外に逃れる道はありません。そして、イエスの道は十字架の道です。
遅かれ早かれ、経験から人はこの事実を学びます。十字架か、さもなければ、結果的にあらゆる悪を伴う高ぶりか、のいずれかです。戦争は何でしょう?民族対立は何でしょう?数百万の人が窮乏の中にあるというのに、この気ちがいじみた富の蓄積は何でしょう?あらゆる形を取って現れる闘争は何でしょう?地を嘆きうめかせている社会的不義は何でしょう?いわゆる人の高ぶりというこの呪われた木が必然的に結ぶ実にほかならないのではないでしょうか?どんな悪も、その根幹には何らかの形の高ぶりがあります。どんな悪も、その源は、人が神よりも「自己」を中心とすることにあります。
私たちのらい病のような社会秩序の傷を癒そうとするいかなる試みも、高ぶりという元凶を打つものでないかぎり、袋小路に陥ります。神の御子は、カルバリの十字架――これは高ぶりという木の根元に置かれた神の斧です――で死なれた時、人の「自己の命」に打撃を与えられましたが、この打撃は宇宙的でした。それは罪の宇宙を打破するのに十分でした。愚かさという海を一万個飲み尽くすのに十分でした。他の何ものも、人の高ぶりというリバイアサンをほふれません。しかし、私たちはゴルゴタの判決に喜んで服そうとしてきませんでした。罪と高ぶりという癌を十字架というラジウムに喜んで曝そうとしてきませんでした。私たちの十字架につけられた主が世に突きつけておられるこの問題を、私たちははぐらかしてきました。しかし教会は、「神の王国」と称しうる体制への黄金の鍵を、依然として持っているのです。
イエスが弟子たちに、自ら十字架上で苦しんで死ぬ必要性について話された時、ペテロは彼を説得しようとしました。イエスは振り返って、彼をきつく叱責されました。「わたしから退け、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。なぜなら、あなたは神のことを思わず、人のことを思っているからである」。今日のクリスチャンの奉仕、務め、メッセージのどれくらいが、このようにきついお叱りを受けることでしょう。それはつまずきです。「肉」の匂いがします。神からではありません。十字架が欠けています。十字架につけられた方――復活されたキリスト――との一つから発していません。カルバリがその中心ではありません。神はそれを是認できません。それは贖いません。