試みられても打ち負かされない

F. J. ヒューゲル

勝利者誌 一九四二年 二三巻 十月号 掲載

試練という言葉ほど、心に深く響く言葉はありません。私たちは始終試みられています。なんらかの試練を伴わない時はほとんどありません。聖書に記されている、人類史における最初の大きな経験は、神がご自身のかたちに人を造ってエデンの園に人を置かれた時に、人が受けた試練の物語です。人なる方が経験された最初の大きな経験は――この人は神が受肉された方でしたが、真実な完全な意味で、地上を歩んだ他のだれよりも人間らしい方でした――荒野での四十日間の試練でした。彼は私たちと同じようにあらゆる点で試みられましたが、罪を犯されませんでした。きっと、彼は私たちにはありえないほど多くの面で試みられたにちがいありません。イエスのように試みを受けるには、彼のように偉大でなければなりません。救い主の巨大な力を授けてもらわなければなりません。なぜなら、彼の最大の試練の原因は、彼の贖いの務めと超自然的な力だったからです。豊かであればあるほど、試練は大きくなります。

この決して終わることのない試練の連続という事実に人の恥辱と苦痛が存する、と私たちに信じさせようとする人々――その中には高名な哲学者たちもいます――がいます。ここに人の惨めさと悲惨さが存する、というのです。しかし、そうではありません。反対に、ここに人の偉大さが存するのです。ここに人の幸いさが見いだされます。もしそうでなければ、人は被造物の冠ではなかったでしょう。もしそうでなければ、他のあらゆる生命形体を無限に上回っていなかったでしょう。もしそうでなければ、贖い主の十字架という代価、無限の代価で贖われていなかったでしょう。人が試みを受けることができるのは、自らの上に神のかたちを帯びているからなのです。もし人が、動物と同じように、理性・感情・自己決定力を有する存在でなければ、人は試みを受けることができなかったでしょう。試練こそ、人を人たらしめる能力を働かせて、神との交わりのための能力を人に賦与するものなのです。

なぜ神は無数の試練が私たちの道を取り巻く世界に私たちを置かれたのか、という問いがしばしば発せられます。なぜ神は人が試みられるのを許されたのでしょう?神は人を完全に造ることはできなかったのでしょうか?その答えはこうです。もし神が試みを受けえない者に人を造っておられたなら、それは人ではなかったでしょう。試みの原因は、人は自由な道徳的主体であるという事実にあります。人には選択力という至高の賜物があり、神に従うか従わないか選ぶことができます。もし試みを受けることが人にできなかったなら、人は自由な道徳的主体ではなかったでしょう――まさに人ではなかったでしょう。選択の自由と試みは、一つの同じものなのです。善か悪か、神を喜ばせるものか神を喜ばせないものか、選ばなければならない立場に立ったことが一度もなかったなら、人は人たりえなかったでしょう。人の道徳的性質に何の価値があったでしょう?人が真に人たらんとするなら、人は試みを受けなければなりません――道徳的性質は試みを前提とします。クリスチャンの性格はきわめて激しい試練というるつぼの中で鍛え上げられます。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。なぜなら、試される時、命の冠を受けるからです」――こう神の聖なる御言葉に記されています。

しかし、これはクリスチャンの働き人たちのための主題ではない!と言う人もいるかもしれません。私の意見は異なります。おそらく、私たちは酔っ払いや盗人のようには試みられないでしょうが、自分は試されることはない、と言うのは愚かなことでしょう。もしそうだったら、なんと悲惨だったことでしょう。実のところ、クリスチャンの働き人だけが受ける、ある特定の性質を帯びた試みがあるのです。兵士ならではの試みを兵士が受けるように、商人ならではの試みを商人が受けるように、政治家ならではの試みを政治家が受けるように、芸術家ならではの試練を芸術家が受けるように、宣教士やクリスチャンの働き人も、その性格がいかなるものであれ、いと高き方の僕ならではの試みを受けるのです。宣教者が受ける試みは特別な種類のものであり、宣教者しか知りえないようなものです。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。サタンはその最も鋭い最も激しい矢をクリスチャンの働き人を目がけて放ちます。なぜなら、働き人が倒れるなら、多くの人が倒れることになるからです。正直になろうではありませんか。宣教士が受ける試みは粗野で派手なものではないかもしれません。おそらく、宣教士はこの世、肉、悪魔に打ち勝っているかもしれませんし、そうでないかもしれません。いずれにせよ、クリスチャン生活に進めば進むほど、私たちの試みはますますとらえにくくなります。私たちの主であるキリストが、試みられて血の汗を流されたのは、彼の務めの終わりになってからでした――彼が頂点に至ってからでした。私たちは酔っ払いが試みられるようには試みられないかもしれませんが、宣教士が試みられるように試みられるかもしれません。

(1)私たちは、自分より金持ちの人々を妬むようにではなく、贖い主のぶどう園でより多くの力を持っている人々を妬むよう、試みられます。パリサイ人は当時の宗教的指導者でしたが、妬み深い人々でした。彼らは長い祈りをしましたが、妬みによって損なわれていました。神の御言葉を彼らほど几帳面に守る人はだれもいませんでしたが、妬みが彼らの命をむしばんでいました。神の宇宙に妬みほど忌まわしいものはありません。こう言うのは悲しいことですが、クリスチャンの働き人たちの間に多くの妬みがあります。パウロは妬みを、肉の働きの一つとして、殺人や泥酔と同じ範疇に入れています。

(2)私たちは、厳格な宗派的立場を過度に強調するよう試みられます。先日、ある人が私に言いました、「自分の宗派こそ群を抜いて一番素晴らしい、と思っているクリスチャンを、私は尊敬しない」と。私たちは、まるで自分の宗派が山上の垂訓、キリストの十字架、空の墓と同じ教団に属しているかのように前進するよう試みられます。前世紀の偉大な説教者の一人は、宗派主義を「教会の恥」と呼びました。あなたはそれに寄与しているでしょうか?人々が私たちの中に最初に見るのは、私たちの宗派でしょうか、それともキリストでしょうか?

(3)私たちは、救い主のために働きすぎるあまり、救い主ご自身をおろそかにするよう試みられます。働きは、たとえクリスチャンの働きであっても、偶像になるおそれがあります。もしあなたがあまりにも忙しくて霊的活動に必要不可欠な静かな時をおろそかにしているなら、確かにあなたは忙しすぎます。救い主があなたの生活の中で第一位を得られるようになるには、あなたは多くの余計な荷物を下ろさなければなりません。私の働きはおびただしい霊的高ぶりの源になりかねません。ここで破船したクリスチャンの働き人は一人だけではありません。

(4)私たちは、自分のお気に入りの理論を聖書の中に読み込むよう試みられます。「私の教会(宗派)の始祖たちは、その意味はこうこうである、と言っている」というようにです。「聖書を理解するよう」使徒たちの理解力を開かれたのはキリストご自身でした。もし先入観を抱いて神の働きに取りかかるなら、私たちは自分自身を欺くことになります――真理を求めているのではなく、自分自身を求めているのです。私たちが喜んでキリストと共に十字架につけられないかぎり、神は、ご自身が望むような豊かな方法で、私たちに語ることは決してできません。自己は依然として私たちの最大の敵です。聖書の学びにおいてもです。「自己」は事の真相を決して見抜いたことがありませんし――これからも決してないでしょう。

(5)私たちは、優越感に浸るよう試みられます。なんと厳しく試みられることでしょう。これに関してクリスチャンの働き人ほど試みられる人はいません。私たちは地上で最も高貴な働き(キリストに仕えること)をしています。ですから、自分はアダムの子らとは異なる特殊な人間である、と夢想しないようにしましょう。私たちもまた恵みによって救われた罪人であることを忘れないようにしましょう。私は、絞首台への途上にある犯罪者を見てジョン・ウェスレーが言った言葉が好きです、「あそこを行くのは、神の恵みがなかったときのジョン・ウェスレーだ」。

(6)私たちは、敬虔ぶるよう試みられます。神は私たちを偽善――形式主義者の唯一の頼みの綱――から救ってくださいます。酔っ払いを飲酒から救う救い主だけが、私をごまかしや見せ掛けから救える方です。後者の方が前者よりも救い主にとってずっと難しいかもしれないかどうかは、だれにもわかりません!キリストの霊は敬虔さを自然で自発的・容易なものにされますが、もし私がキリストの霊を真に持っていないなら、私は大衆を欺くためにふりをするよう試みられるでしょう。

(7)私たちは落胆するよう試みられます。バプテスマのヨハネは牢獄の中にいた時、主イエスがどうしてなにもしてくれないのかわかりませんでした。「あなたは本当にキリストなのでしょうか、それとも、私たちは他の方を待つべきでしょうか?」と主に尋ねさせるために彼は使者たちを遣わしました。重大な危機の時、私たちは、エリヤがえにしだの木の下で死ぬことを願った時に経験した落胆の沼の中に、しばしば落ち込みます。しかし、落胆は疑いの別名にほかなりません。人の苦痛という星なき暗夜でも信仰は歌います。パウロはピリピにいた時、歌いました。鞭で多く打たれて背中からは血を流し、両足はつながれ、独房は真っ暗で、時は真夜中だったにもかかわらずです。それで主は彼の信仰を称賛されました。暗闇の時、嵐が荒れ狂っている時、私たちの救いの将を霊の中で一瞥することだけが、私たちの帆船を停泊させるのに必要なことです。

(8)最後に、私たちは人の称賛を求めるよう試みられます。これが、クリスチャンの働き人の小径を常に取り巻いている罠です。それはいたって無害に思われるかもしれませんが、それにもかかわらず、その名は欲望です。もし、クリスチャンの働き人として、私たちが人々の称賛を常に必要としていて、この刺激剤がなければ「進んで行け」ないようなら、確かに、私たちのクリスチャン経験は依然として赤子の産着を身にまとっているのです。成熟したクリスチャンなら、キリストの是認の笑みで十分であり、もしそれに欠けるなら、千の楽団が奏でる音や群衆の拍手喝采も、おもちゃの風船の破裂音のように空しい無意味なものにすぎません。主は、人々の称賛を求めていたパリサイ人たちに、とても厳しいことを言わざるをえませんでした。

勝利の五つの法則

最後に、勝利について述べます。「試みられても打ち負かされない」が私たちの主題です。五つの法則を示すことにします。

第一に――私たちは喜んで事実に直面して、罪を罪と呼ばなければなりません。私たちの立派な伝道上の小さな罪といえどもです。偉大な医者なる方のメスが最後の潰瘍に達するのを、私たちが喜んで受け入れないかぎり、完治はありえません。宗教的恐れは私たちの苦痛を長引かせるだけです。このうえない罪人、遊女、酔っ払いが立つべき立場に、私たちは自己義認をすべて捨てて立たなければなりません。つまり、救い主の足元にひれ伏して、すべての哀れな罪人と同じように、自分の必要を認めなければなりません。さもないと、救い主は私たちのためになにもできません。

第二に――勝利のために私たちが払う代価は、常に警戒していることです。誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。救い主はいやおうなく自分を守ってくださる、つまり、自分の協力がなくてもそうしてくださる、と期待するなら、あなたは寒さの中に取り残されるかもしれません。「神から生まれた者は自分を守るので、悪しき者が触れることはありません」と使徒ヨハネは記しています。試みの中には、それが完全に始まる前に対処しないなら、私たちを必ず打ち負かすものもあります。

第三に――勝利のクリスチャン生活は、キリストとの絶対的一体化という基礎に基づいてのみ可能です。ローマ六章がその道を示しています。私たちの古い人は「キリストと共に十字架につけられた」とあります。自分は、私たちの主イエス・キリストを通して、罪に対して死に、神に対して生きている、と認めるよう、私たちは勧告されています。それが本当かどうか見るために、私たちは自分の感覚に諮りません。単純に神の御言葉の命令に従って、「自分」は罪に対して死に、神に対して生きていると「認め」ます。私たちの贖い主との、その死と復活による徹底的一体化により、私たちは代々にわたる激しい戦いで無限に有利な立場に置かれます――これだけが私たちをこの世、肉、悪魔から解放します。使徒が、しかもすべての使徒の中で最も偉大な使徒が、こう叫んでいるのを忘れてはなりません、「ああ、私はなんと惨めな人でしょう。誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?」。しかも、彼が自分自身を新たな方法でキリストに委ねた時、イエス・キリストにある命の御霊の法則が罪と死の法則から彼を解放したのです。粗野な形の罪から解放された後でも、依然として私たちは自分自身から解放される必要があります。そして、それは私たちがパウロと共にこう言う時、はじめて可能になります、「私はキリストと共に十字架につけられました。それにもかかわらず私は生きています。私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」。

第四に――この戦いに休暇はないことを私たちは心に留めておかなければなりません。目に見えない暗闇の勢力との大きな戦いに、クリスチャンの働き人は耐えなければなりません。その鎧のどこかに弱点があるなら、敵はその弱点を突きます。天然の領域では休暇は結構なものですが、私たちはキリストの兵士として自分の鎧を脇にやるようなことはあえてしません――霊の領域で五分間不注意でいるなら、苦い敗北を喫して、苦しんで泣く羽目になりかねません。偉大な詩篇作者が恥と罪のどん底に引きずり降ろされるのを見なさい。「あなたたちはどうして眠っているのですか、誘惑に陥らないよう、起きて祈りなさい」。

最後に、キリストにあって勝利の生活を送りたければ、祈りがまさに私たちの命の息とならなければなりません。偉大な説教者がこれをこう述べました、「あなたはキリストを吸い込み、自己を吐き出さなければなりません」。私たちは息をするのと同じ自然さと容易さで絶えず祈らなければなりません。キリストが生活のまさに中心と周辺にならなければなりません。私たちの夢の初めとならなければなりません。私たちの存在のアルファとなりオメガとならなければなりません。私たちは絶えず彼に触れなければなりません。路上でも、祈りの中で彼の聖なる御名を呼吸しなければなりません――他のなにものも私たちの生活の流れの中から空虚さと愚かさを取り除いてはくれません。他のなにものもこの世の欲と罪という毒ガスに対して私たちを無敵にはしてくれません。他のなにものも私たちをクリスチャンの奉仕に相応しいものとはしてくれないのです。