十全なクリスチャン生活

F. J. ヒューゲル

勝利者誌 一九四四年 二五巻 四月号 掲載

イスラエル人は、死の型であるヨルダン川に下って、その湿った墓の中に十二の石を残さなければなりませんでした。それは十字架につけられた生活を象徴するものであり、そうしてはじめて約束の地に入れたのです。なにか容易な道を見つけられて、それを指摘できたなら、私は大喜びしたでしょう。しかし、そのような道は嘘っぱちです。新約聖書は、十字架に基づかない希望をすべて吹き飛ばします。主なるキリストは、他の門を通って来た者たちのことを盗人や強盗であると非難されました。カルバリが神の答えです。他の答えはありません。パウロのように、私たちはキリストと共に十字架につけられなければなりません。いっそう深いクリスチャン生活、キリストの霊に満ちた生活に対するいかなる約束も、もしそれがまず深い内なる磔殺を課すものでないなら、偽りです。ヤコブとヨハネが、救い主の王国で一人は右にもう一人は左に座す特権を求めた時、それに対する返答は、「あなたたちはわたしが飲む杯を飲むことができるか?」でした。彼の杯とは十字架でした。

これは、ある特定のものを断つことを意味しません。ある特定のものを断つ問題では全くありません。自分自身を否む問題なのです。私はキリストと共に十字架につけられなければなりません。生まれつき、私は高ぶっています――私は死ななければなりません。古い人は十字架に連れて行かれて、そこでキリストと共に釘づけられなければなりません。あなたはこれを自分の法的立場として認めなければなりません。神は御言葉の中で次の事実を宣言しておられます。すなわち、クリスチャンは、キリストと共に十字架につけられた者として、キリストと一体化されている、という事実です。私たちは信仰によってアーメンと言わなければなりません。自分の死亡証明書に署名しなければなりません。キリストが私たちのために死んでくださったことを信じた時と同じように――私たちは彼にあって死んだことを信じなければなりません。聖書では、経験が信仰に続きます。この世では、信念が経験に続きます。パウロが「私はキリストと共に十字架につけられています」と叫んだ時にそうしたように、私たちがキリストの死の中にある自分の立場に立つとき、神の霊は私たちの中で力強い刈り込みの御業を開始してくださいます。生活のあらゆる部分がそのナイフの下に服さなければなりません。第一に身体面に関して、次に霊的な面に関してです。偶像はすべてこぼたれ、無節操な愛情はすべて十字架につけられ、高ぶりの痕跡はすべて十字架にやられなければなりません。このナイフは私たちの存在の根幹にまで及びます。ヨブは剝ぎ取られなければなりませんでした、情け容赦なく剥ぎ取られなければなりませんでした、そうして初めて真に解放してもらえたのです。キリストが私たちを贖われるのは、私たちの内に新しい人を形造ることによってであり、古い人につぎあてをすることによってではありません。古い人は新しい人に道を譲らなければなりません。これは、古い自己の命に十字架をますます深く適用してもらうことによってのみ可能です。神の狙いを知って、それと足並みを揃えることが大事です。なぜなら、神聖な陶器師が土くれを形造られる時、もし私たちが彼の御旨と食い違っているなら、完成品すなわちキリストに似た性格に至る前に、ますます多くの苦難が必要になってしまうからです。

自己意志は、聖書の健全な教理によると、あらゆる罪の根です。それを人の性質の中から根絶するものは、キリストの十字架へのますます深い同形化しかありません。パウロがピリピ人への手紙で「キリストの復活の力と彼の苦難の交わりにより」と記しているように、私たちは彼の死に同形化されなければなりません。

しかし、カルバリの後に復活が臨みます。最も深いクリスチャン生活は、キリストの十字架にあずかることを意味するだけではありません。彼と共に私たちはよみがえらされるのです。私たちの贖い主と共に天上に座らされるのです。

この澄み渡った大気の中、天上の生活がクリスチャンにとって自然なものになります。役割や、あまりよく学んでこなかった道に関して、神経を尖らせなくなります。良くなろうとしなくなります。ただ生きるだけです。生きるのは栄光の望みである内なるキリストです。愛すること、赦すこと、仕えることが、自然なことになります。クリスチャンとしての役割に関して神経を尖らせているなら、あなたはまだキリストにあるあなたの所有に達していないのです。なぜなら、それに達する時、こうしたことをすべて容易なものにするクリスチャンの命が、あなたを通して洪水のように流れるようになるからです。そして、あなたはいかなる美点も探そうとしなくなります。なぜなら、その美点はあなたではないからです。あなたは自分が無であることを意識するようになります。その美点とはキリストです。彼はあなたの命であり、あなたの魂の魂であり――あなたのすべてのすべてなのです。

あなたがいま生きている信仰の高台では、妬みのようなものが近づくことはありません。もし近づくなら、あなたはこの怪物を十字架に釘付けます。キリストにあって膨大な実を結ぶこの幸いな生活には、嫉妬のようなもののための余地は全くありません。もしそれが現れるようなことがあれば(これはありえる話です。なぜなら、キリストとの交わりがなおざりにされる時はいつでも、肉の古い命が再び現れるおそれが常にあるからです)あなたはそれをしかるべく対処します――それを十字架につけます。ますます深く自己を否む必要のない地点に達することは決してありません。十字架の奥義にますますあずかるようになるにつれて、あなたはキリストの復活の力の中で、さらなる高嶺へと至り続けます。

最後に。いっそう深いクリスチャン生活は、御霊の豊かさ、安息と単純さ、キリストがすべてであって完全に支配しておられる生活、という特徴を帯びていますが、この生活は戦いから解放された生活であるとだれも思ってはなりません。実を言うと、ますます深く命がキリストと共に神の中に隠されるようになればなるほど、ますます反対が激しくなるのです。勝利の生活は、雄牛にとっての赤旗のようなものです。サタンがやって来て、それを打ち負かして粉砕しようとします。もっとも、そうするには彼は地獄全体を動員しなければなりません。主イエスが現れて公の務めをされた時、それが悪鬼の勢力に与えた影響を見てごらんなさい。エペソ人への手紙の啓示によると、教会はキリストの奥義的からだであり、まさにこれまで述べてきたように、天上にあるあらゆる霊の祝福を享受しています――しかし、エペソ人への手紙は、武具を身に着けよという要求と共に終わります。聖徒は、神のすべての武具を身に着けた兵士とならないかぎり、決して真の聖徒たりえません。なぜなら、聖徒が格闘しているのは、肉や血に対してではなく、主権者たちに対して、権力者たちに対して、この世の暗闇の支配者たちに対して、高き所にいる悪霊どもに対してだからです。しかし、恐れてはなりません。イエスは、「元気を出しなさい、わたしは世に打ち勝っているからです」と言われたからです。