勝利者誌 一九一四年 六巻 三月号 掲載
祈りは新創造の呼吸です。祈りを窒息させることは、霊の呼吸をすべて窒息させることであり、窒息させられると、まもなく、行動は損なわれて停止してしまいます。クリスチャンが怠慢になるときは必ず、それは真っ先に、祈りの力の喪失となって表れます。密室の祈りで強いなら、私たちは公衆の面前でも強いです。祈りで強いなら、私たちは人生の道でも強いです。
祈りは神との私たちの合一の重要な表われです。神との交わりほど差し迫った務めはありません。それは私たちが行うあらゆることの源であり、それゆえ、神の御言葉は祈りを強調しています。「絶えず祈りなさい」「目を覚まして祈りなさい」。初期の教会の回心者たちに祈りを求めた使徒パウロの強い要請に注目してください。
ユダヤ人の歴史のどの転機においても、神の力の復興はみな、祈りの中で形成されました。ヒゼキヤは王座にあるとき祈りへと促されました。そして、祈りがその都中に広がりました。宮は清められ、礼拝は回復され、人々は悔い改めへと促されました。これはみな、祈る王の心の中で始まりました。その歴史は「それは突然なされたからである」という言葉と共に閉じますが、祝福が注ぎ出される遥か前に、覆う神の霊の働きが進行していました。祈りの可能性は想像もつきません。ダニエルは目に見えない霊の勢力を大いに動かしたので、彼の必要に応じるために大天使が自分の場所を離れたほどでした。彼が地上で祈ったからです。
なぜ私たちは祈るべきなのでしょう?祈りはすべての問題に答えを与えます。それは厳しい、消耗する生活です。人々は、肉体的に消耗するまで、祈りへと促されてきました。肉的・魂的な祈りの領域もありますが、人を消耗させる祈りの霊の領域もあります。私たちの主が奇跡を行われた時、力が彼から出て行きました。祈る人々になりたければ、祈るために備えなければなりません。ルターは、祈りは科学の中の科学である、と言いました。
なぜ祈りはこんなにも難しいのでしょうか?この世の雰囲気は神の願いを抑え込んで、祈りの霊とは反対だからです。有害な大気の中で生き、動くとき、私たちの霊の命は毒されます。弟子たちは主のもとに来て、祈ることを教えてください、と彼に求めました。イエスは、「中に入って(中略)扉を閉じなさい」と言われました。神と共に歩むことを願っている人でも、神と親しく交わらないかぎり、自分の役目を果たせません。偶像に向かっておじぎすることと、神の御前でおじぎすることは両立できません。人々が劇場に行くのは祈る方法を学ぶためではありません。彼らは神にまみえることを期待して、この世の働きに参加するわけではありません。扉を閉じて防壁を設けるべきです。心と霊を神の中に閉じ込めるのです。僧侶の独房で鍵を回すのではなく、霊の中でこの世への扉の鍵を回して、この世の原理によって動かされるのを拒むのです。
祈るのが難しいのは、自分の頭脳を用いなければならないからであり、思いは悪魔の最後の要塞だからです。「あなたたちの思いの霊の中で新しくされなさい」(エペソ四・二三)。私たちは「キリストの思い」を欲しています。私たちは祈りのとき自分の思いを用いなければなりません。祈りのときに思いが明瞭になるように祈りなさい。多くの人は祈るとき、何を求めるか全く考えていません。熟考・黙想が十分ではありません。天使たちですら顔を覆わずに神の御前に出られないのだとすると、私たちはなおさら、整っていない思いと共に神の御前に駆け込んではならないのではないでしょうか?この世を動かしてきたのは、内なる部屋で沈黙している偉人たちでした。天の王国の中で高くなりたければ、神の御前で低くならなければなりません。
祈らない生活は表現に欠ける生活です。祈りは霊の最も深遠な表現である証拠がほしければ、それは、祈りは最も困難なものであるという事実の中に見いだされます。生来、人は祈りを嫌がります。祈ること、意志と気持ちを祈りに向かわせることは、なんと困難なことか。
祈りへと導く二つの力があります。一方は駆り立て、他方は引き寄せます。一方は強制的であり、他方は自発的です。一方は恐れであり、他方は愛です。地獄で生じた恐れにより、私たちの始祖は隠れました。高き所からの御声だけが響き渡る所で隠れたのです。恐れは人を祈りに駆り立てますが、愛は私たちを促します。愛は引き寄せます。カルバリの絆には引き寄せる力があります。人々が祈りへと促される時、それは聖霊の導く力の証拠です。
私たちは何を求めるべきかわかりません。祈る方法を知らないからです。祈るために祈りに一時間費やしなさい。祈りは祈りへと導きます。聖霊は私たちの弱さを助けてくださいます。自分の部屋の扉を閉めて、神の御前でひれ伏す気はあるでしょうか?聖霊のさいわいなそよ風は、どこにあるでしょう?私たちの魂は乾いており、かたくなで、無感覚であり、祈るのは不可能だと私たちは感じます。
祈るのが難しいのは、祈りは戦いだからです。今、自分の状態を嘆く代わりに、祈りが干上がっていて死んでいることを祈りに転じて、祈れないことを主に告げましょう。これを言い表す時、暗闇の勢力に立ち向かうことになります。そして、神にすがりつく時、私たちは敵対勢力を徐々に打ち破っていって、そうする学課を学ぶことになります。今は、目を覚まして祈るべき時です。
ひざまずいている時に天が青銅のようなら、それは、私たちが霊の領域に入っていること、そして、戦わなければならないことを示しています。私たちが天を裂いてその領域に至る必要はありません。私たちはすでに天上でキリストと共に座しています。しかし、祈る時、私たちは自分の手に武器を握ります。私たちは受動的であるべきでしょうか?いいえ!戦い抜くのです。神を待ち望むことは、受動的であり続けることではなく、期待することです――駅で待っている時に列車を期待するようにです。あの息子のためにあなたは祈ってきましたが、彼はまだ回心していません!あなたの祈りに関する聖霊の見解を求めて、母親としての愛情で祈ってきただけではないかどうか確かめなさい。人間的愛情では不十分です。神の促し、神の動きがなければなりません。これらの不毛な祈りを調べる時、私たちは神の光を求めなければなりません。
祈り続けることは容易かもしれませんが、冷静に座ってそれらの祈りを調べることは困難です。あなたの祈りのためにもっと祈りなさい。どこに利己的な関心があるのか調べなさい。自分がどれだけ不適切な祈りをしてきたのか調べなさい(ヤコブ四・三)。自己が祈りの中に所を得てはなりません。私たちの愛は、それが有用なものになるには、まず聖別されなければなりません。
祈るのが難しいのは、私たちの思いと頭脳を従わせるのが難しいからです。祈ることができるのは、私たちが世人の必要を見て、キリストが持っておられた世人に対する愛の霊を持っている時だけです。私たちは王なる祭司です。とりなし手になれるのは、私たちがその必要を見る時だけです――そして、その必要を見ることができるのは、私たちが神と接触している時だけです。
警戒していることが祈りと同じように重要です。祈りは霊的警戒の結果であり、警戒は霊的生活の結果です。意識のない人は自分の周囲に気づきません。生きていますが無意識です。神の力と臨在の意識を決して失ってはなりません。ですから、祈りなさい、気絶してはいけません。聖霊のそよ風が今日下るかもしれません。あなたは用意を整えて警戒しているでしょうか?かりにそよ風が吹いても、帆が上がっておらず、船員たちが眠っているなら、彼らはこの好機を失うでしょう。宣教士は奮闘しているかもしれません。ある兄弟が悲しみと絶望の中にあるかもしれません。そして、神は祈る用意が整っている人を探しておられるかもしれません。とりなし手を探しておられるかもしれません。私たちは用意できているでしょうか?祈りなさい。
肉の中で祈るおそれがあります。肉にしたがって歩くおそれがあるからには、肉にしたがって祈るおそれもあります。そして、肉にしたがった祈りはとても疲れます。主イエスは大いなる力で祈られたので、驚いた弟子たちは群れを成して立ち尽くして驚嘆しました。そして彼が祈り終えられた時、それは実に魅力的だったので、この人々がやって来て、「主よ、私たちに祈ることを教えてください」と言ったほどでした。どうすればこのように祈れるのでしょう?彼が最初に話された言葉は、「父よ」でした。ペテロ、ヤコブ、ヨハネよ、あなたたちは父を知らなければなりません。聖霊の中で祈ることができるのは、イエス・キリストを通して、父に近づく時だけなのです。
御霊の中で祈ることは、三位一体を意識しつつ祈ることです。教会に必要なのは父を知ることです。それが聖霊が与えられた理由です。
天然的誕生の最初の表現は叫びです。祈りは叫びです。「見よ、彼は祈っている」がその証拠であり、神のすべての子供の特権です。子たる身分の御霊によって、私たちは「アバ、父よ」と叫びます。神に叫ぶことは大きな益です。ただしそれは、窮地にあるとき、自分の心を上に向かってあげて、「父よ」と言えるならばの話です。それは言葉ではなく、霊の躍動であり、神に信頼して安息することです。
数年前の集会のことです。一人の年配のウェールズ人が立ち上がって祈りました。彼は英語で祈ろうとしました――ちらほら言葉を発しましたが、その圧迫はとても大きく、あふれる思いのはけ口はありませんでした。涙がどっとあふれて、自分の母国語で、「ああ、私の父よ!」と叫んで座りました。他方、大勢の聴衆は感動して涙しました。聖霊からの衝撃的流出により、祈りは御父によってかなえられました。そして、人々の心は柔らかくされました。神だけが心を柔らかくすることができるからです。
私たちは祈りにどれくらい時間を費やしているでしょう?ルカ一・七~十に、大祭司に関する一枚の絵図があります。大祭司が内庭に入って、香炉を持ち上げると、香のかおりが神に立ち上りました。その間、背後にある遠くの外庭では、人々が彼のとりなしの奉仕に加わって、自分たちの個人的必要を持ち出して、彼を律法にしたがって仲保者として用いていました。教会の祈りの生活のなんという型、絵図でしょう。幕の内側におられるイエスは、御父に聞こえる所に座しておられます。その身に戦いの印を帯びていて、その両手は刺し貫かれている、このイエスは、常に生きていてとりなしておられます。そして、下界には大勢の祈る人々がいます。
私たちの祈りが生きている理由は、彼のおかげです。もし私たちの隠れた祈りに力があるとするなら、それは彼が彼処におられるからです。彼の御業はカルバリで成就されましたが、彼は常に生きていてとりなしておられます。そして、私たちの実は彼の中にあります。彼処に座してから後、彼は一瞬たりとも無駄にされたことはありません。彼の生活は私たちのために祈ることです。
教会が祈りに打ち込むとき、それは救われていない哀れな、失われた、無数の群衆にとって何を意味するのでしょう?神は天を裂いて下って来られるでしょう。
自分の祈りに注意してください。注意しなければ、悪魔はそれをあなたの思いの中から奪うでしょう。ご自分を待ち望んでいる人に対する神の御思いが何か、私たちには全くわかりません。彼はご自分の宝物庫の鍵を私たちの手に与えてくださっています。「神を待ち望みなさい」。