第一章 カルバリと預言されていた十字架

ジェシー・ペン-ルイス

見よ、世の罪を担う神の小羊。
(ヨハネ一・二九欄外)

カルバリと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、彼を十字架につけた。
(ルカ二三・三三、欽定訳)

その時がきました!世の基が据えられた時からほふられていた小羊は、今まさに、世の目前でほふられようとしていました。「ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに集まって、あらかじめ起きるよう定められていたことを行いました」(使徒四・二七、二八)。

神は何世紀も前から、予表と預言者たちの声により、この恐ろしい時を予告してこられました。そして約二千年間、神はそれに立ち返るよう世に命じてこられました。

カルバリはまさに世界史の中心です。すべてカルバリ以前に起きたことはカルバリを指し示し、すべてカルバリ以後に起きたこともカルバリを指し示します。未来さえもカルバリにかかっています。なぜなら贖われた者たちは、「ほふられたばかりのように立っている」小羊を御座の中央に見る時、カルバリが天の中心であることを見いだすからです。

人なるキリスト・イエスがカルバリと呼ばれる所に導かれる七百年前、神から霊感を受けた一人の預言者が十字架を預言しました。その預言者は世の救い主を詳しく描写したため、彼が地上に来られた時――神が肉身をとって現われた時――盲目な心の人以外に、彼を認識できない人はいませんでした。

神の霊は、預言者イザヤを通してあふれるほどの光をカルバリに注ぎ、十字架への道、十字架の贖いの犠牲、十字架の苦難とその結果を描写されました。それゆえ、預言者たちの書を知っていた人はみな、栄光の主を十字架につけてしまった時、弁解することができませんでした。

イザヤの預言は、キリストが「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡された」こと(使徒二・二三)、神は「すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられた」こと(使徒三・十八)、カルバリで「不法者どもがいのちの君を十字架につけて殺した」時、「彼を罪に定める」ことによって、安息日ごとに読まれていた預言者たちの預言を、イスラエルの指導者たちが成就したことを明らかにします。

預言されていた神の小羊 イザヤ五三・一~四

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々から見捨てられ(欄外)、
悲しみの人で痛みを知っていた。
人が顔をそむける者のように、

「私たちの聞いたことを、誰が信じたか?」(イザヤ五三・一欄外)、「主の御腕は、誰に現れたのか?」と、神から聞いたことを告げた預言者は叫びます。そのメッセージ、知らせは、人の思いをはるかに越える、人の考えとは正反対のものでした。そのため、「その啓示は誰に与えられるのか?」と彼はいぶかります。なぜなら、いにしえの神の使者たちが「キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証しした」時(一ペテロ一・十一、十二)、彼らは十字架のメッセージを聞く後世の人たちに奉仕していたからです。使徒ペテロは、「預言者たちのうちにおられるキリストの霊が、キリストが地上で受ける苦難を前もって証しされたのです」と記しています。

イザヤは、七百年後に実現する驚くべき物語を神から聞かされました。そして、その物語を人々が聞く時、人々の心を満たすであろう疑問を予見します。御父の御前で「若枝のように、砂漠の地から出る根のように」育つキリストを描写する際、「誰が信じたか?」、「誰に」それは現れたのか?と彼は叫びます。その若枝は神にとってとても貴重なものであり、その枝は「実を結ぶ」(イザヤ十一・一)べきものでした。なぜなら、選ばれたぶどうの木であるイスラエル、主の喜ばれる枝(イザヤ五・七欄外)は天の農夫を失望させ、主が大事に栽培されたぶどう園は乾いた地になってしまったからです。しかしここに、イスラエルの一つの根株から出た新芽(イザヤ十一・一)がありました。その新芽は御父の欲する実を結びますが、人々の目には「見とれるような姿もなく、輝きもなく」、「慕う」ような見ばえもないように見えました。

御父にとって貴重な若枝だった方は、人々からさげすまれました。彼は「悲しみの人で痛みを知って」いました。そのため、人々は彼を拒絶し、見捨てました。苦しみや悲しみは人にとって好ましくないからです。

エホバに対して、義の僕は「高められ、上げられ」、「非常に高く」さえされました。しかし人々に対して、彼は人々が驚いて顔をそむける者のようでした。彼の容姿は「人の子らよりも」そこなわれたからです(イザヤ五二・十四)。

神の聖なる方の御顔は、茨の冠でどれほどそこなわれたことでしょう!彼の神々しい容姿は、兵士たちのむち打ちでどれほど引き裂かれたことでしょう!当時のむちは数百本の革ひもからできており、各々の先端にはごつごつした骨状のフックや角材が取り付けられていました(クルマッハー)。

「殺人者や反逆者の血で黒く染まった向こうの柱を見なさい。(中略)獲物をせわしく取り囲む乱暴な野蛮人たちを見なさい」。見よ、彼らは「彼の衣を引き裂き、両手を縛り、その尊い顔を屈辱の柱に押しつけ、身動きできないようにロープで」彼を縛りました。見よ!むち打ちは十五分間も続きます!むちは、すでにつけられた傷をさらに深く切り裂き、ほとんど骨髄まで貫きます。ついに、「彼の背中全体が巨大な傷のようになってしまいました」(クルマッハー)。それから彼らは、苦悶する受難者の体に緋の衣を着せ、長い棘の突き出た茨を冠状に編んで彼の頭にかぶせました(クルマッハー)。

こうして、彼の顔はそこなわれ、彼の姿は人の子らよりもそこなわれました。預言者イザヤは、悲しみの人が苦難の時に語る言葉をも預言しました。「わたしは逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者にわたしの背中をまかせ、ひげを抜く者にわたしの頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、わたしの顔を隠さなかった。なぜなら、神である主がわたしを助けてくださるからである。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした」(イザヤ五〇・五~七)。

人々は彼から顔をそむけました。改訂訳の欄外では、「いわば彼が私たちから顔をそむけられたのである」となっています。変貌の山で彼の顔が太陽のように輝くのを見た人たちは、あのそこなわれた姿を見て、その隠れた栄光を思い出したでしょうか?いいえ、彼らでさえ「彼を尊ばず」、彼の辱めの時に彼を見捨てたのです。

十字架の道を歩む悲しみの人。この方に対する神の評価と人の評価を、預言者はこのように完全に預言します。また聖霊は、彼の死の目的が身代わりであることを、あらかじめはっきりと告げておられます。

十字架の目的 四~六節

彼は私たちの痛みを負い、
私たちの悲しみをになった。
彼は私たちのそむきの罪のために傷つけられ、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

キリストの受難の目的と原因について、聖霊は全く疑問の余地を残しません。身代わりという言葉が実際に使われているわけではありませんが、その言葉使いはまぎれもなく明白です。顔をそこなわれたこの方は、他の人々の「痛み」と「悲しみ」をになわれました。彼の傷は人々のそむきの罪のためであり、彼の体の打ち傷は人々の咎のためでした。

「私たちはすべて、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を、彼に負わせた」(六節欄外)。

このように傷つけられ、打たれた方を見つめつつ(実際のところ、イザヤはどうしてか知りません)、預言者は全人類の代表者となって叫びます―――

私たちは彼の苦しみを見て思う。彼は「罰せられ、神に打たれ、苦しめられている」のだと。私たちは「さまよい」、「おのおの自分かってな道に」向かって行った。しかし主は、私たちの咎を、私たちすべての咎を、彼――私たちの神の聖なる御子――に負わせた。

これは、エデンにおける堕落の結果と、十字架の原因及び目的を簡潔に示しています。

神からの独立こそ、まさに罪の本質です。すべての人にとって、「自分かってな道」はそむきの罪と咎という結果に終わります。最初の「すべて」は、この世に生まれてくるすべての人を含みます。二番目の「すべて」は、罪の呪いの下にあるすべての人のためになされたキリストの贖いの犠牲を宣言します。

十字架上の死 七~九節

彼は低くなり、口を開かなかった。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている羊のように。
彼は生けるものの地から絶たれた。
彼らは彼の墓を悪者どもとともに設け、

イザヤは今、受難者の死に至るまでの従順を描写します。彼は毛を刈る者の前で黙って身を任せている羊のようであり、ほふり場に引かれて行く罪のない無力な小羊のようです。彼は神と等しい方なのに、それを固守すべきものとはみなさず、ご自身を空しくして人と同じ姿になられました。彼は人として低くなり、さらに、人々の手の中にあるいけにえとして「ほふり場に引かれて行く」ことに同意し、死にさえ至られました。福音書が示すように、預言は細部にいたるまですべて文字どおり成就しました。

キリストはピラトの前に立った時、「訴えられても何も答えませんでした」(マタイ二七・十二)。それには総督も非常に驚きました。彼は「しいたげとさばき」により、都の城壁の外のカルバリと呼ばれる所へ「連れて行かれ」ました。「彼の時代の者で」――彼と同国民、同時代の者で――自分たちの真っただ中で起きたその悲劇を「いったい誰が思った」でしょうか?

彼は人生の盛りに「生けるものの地から絶たれ」ました。それが彼の民のそむきの罪のためであったことを理解した人は、ほとんどいませんでした。その打撃は本来、彼の民の上に下されるべきものだったのです(イザヤ五三・八欄外)。

あの恐るべき時にエルサレムにいた人々のうち、預言者たちの書――自分たちが十字架につけた方をまさに描写している――を「思い出し」、熟慮した人は、いったい何人いたでしょうか?

しかし、悲しみの人は知っておられました!彼は、ご自身の道のすべての歩みは「わたしについて書かれているとおり」でなければならない、と言われました。御顔をエルサレムに向けて最後の旅を始める時、彼は言われました、「預言者たちを通して書かれたすべてのことが、人の子に成就されるのです。彼は引き渡され」、「あざけられ」、「はずかしめられ」、「つばきをかけられ」、「そして彼らは彼をむちで打ってから殺します」(ルカ十八・三一、三二)。

ユダが彼を裏切った時も、弟子たちが彼を見捨てた時も、「そう書かれている」と彼は言われました。そして再び、死人の中から復活した後、彼は弟子たちに思い出させました。彼がまだ彼らといっしょにいた頃、「わたしについて『モーセの律法と預言書と詩篇』に書かれていることは、『必ず全部成就されなければなりません』」(ルカ二四・四四)と告げて、彼らを彼の十字架に備えようとしていたことを。

イザヤはキリストの受難と死を預言しただけではありません。さらに、彼の埋葬の方法をも預言しました。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、人々からさげすまれ、拒絶された方は、「富む者と共に葬られ」ました。

これは文字どおり成就しました。その御計画を遂行するために神によって備えられた人は、「有力な議員であるアリマタヤのヨセフ」でした。彼は「神の国を待ち望んでいる」人であり(マルコ十五・四三)、主イエスのひそかな弟子だったと述べられています。

ヨセフは義なる方を罪に定めた議会に出席していましたが、「彼らの計画や行動には賛同しませんでした」。彼は総督と共に、神聖な受難者の驚くべき沈黙に驚嘆したにちがいありません。そして、「この人は死罪に当たることを何一つしていません」というピラトの判決が、彼の心の中にこだましたにちがいありません。

ヨセフは訴える者たちから被告を救えませんでした。そこで彼は、死の判決が実行されるとすぐに、自分にできることをしました。彼は大胆にピラトのところへ行き、主の体の下げ渡しを願い、自分のために用意してあった新しい墓に後で主の体を恭しく葬りました。

神が用意された小羊 十節

彼を砕くことは主のみこころであった。
主は彼を痛めつけられた。
罪過のためのささげものである、彼の魂(欄外)

アブラハムはモリヤ山でイサクに、「神ご自身が小羊を備えてくださるのだ」と言いました。そしてイザヤは、時満ちて現わされる、神ご自身によって用意される小羊を預言します。

人々からさげすまれ、拒絶され、傷つけられ、砕かれ、生ける者の地から絶たれた方、顔をそこなわれた方は、「罪過のためのささげもの」として、今はっきりと示されます。それは、神ご自身の命令により毎日イスラエルでささげられていた、すべての罪過のためのささげものの本体でした。

それまで、礼拝者たちはいけにえを持ってこなければなりませんでした。しかし、神が小羊を備えて、すべての咎をその上に置かれた以上、礼拝者がなすべきことはその備えを受け入れることだけです。

御父の御前で「若枝」のように成長した方は、エホバの格別なみこころによって「痛めつけ」られます。「彼を砕く」ことは、彼の至高のみこころでした。

この節で、私たちは御父の観点からカルバリを見ます。御父は世を愛し、ご自身の御子さえ惜しまずに、私たちすべてのために渡されました。前の段落で御子の自発的犠牲について述べましたが、まさにそのとおりに、「彼は低くなり」、「ほふり場に引かれて行く小羊」のように、毛を刈る者の手の中で口を開かない羊のように、ご自身を死に渡されました。

十字架の実 十、十一節

彼は自分の子孫を見、
自分の日を長くする。
彼は、自分の魂の苦しみを見て、満足する。

この御言葉は十字架の別の面を述べています。カルバリは今、神の法則――豊かに実を結ぶための犠牲の法則――と調和するものと見なされています。

キリストは、砕かれ、痛めつけられることで、そうして生み出される子孫を通して「自分の日を長く」します。また、ご自身のかたちにしたがった実を求めておられる「主のみこころ」が、彼の手により栄えます。

創造主はご自身のすがたにかたどって創造した者たちとの交わりを切望しておられます。創造主のこの願いは、エホバの御心と御性格を示す啓示の中で、もっとも偉大な神秘の一つです。美しい地球が彼の御言葉によって創造され、彼の御前に置かれた時、そこには彼の御心に応えるものが何もありませんでした。そこで三一の神は、「われわれのかたちに、われわれのすがたにかたどって、人を造ろう」と言われました(創世記一・二六)。

「彼は自分の子孫を見る」、「彼は、自分の魂の苦しみを見て、満足する」という御言葉は、神・人の同じ願いを啓示します。彼は、最初の創造の堕落を悲しんで、カルバリでそのいのちをささげられます。それは、さまよって「自分かってな道」に向かって行った人々を、新しい種族、再創造として生まれさせるためです。彼は人々の罪を担って死ぬことにより、「多くの人を義とし」ます。その死により、彼は自分の苦しみの実を見て、満足します。

彼の十字架のおかげで、最初のアダムの堕落した子孫たちは、新しく生まれることができるようになりました。主イエスご自身、地上における公生涯の開始にあたって、これを宣言しておられます。彼はニコデモに向かって、罪人は新しく生まれなければ「ならない」、人の子は彼らへの永遠のいのちの源となるために「上げられなければならない」と言われました(ヨハネ三・十四~十六)。

十字架の勝利 十二節

それゆえ、わたしは、大いなる者と共に彼に分け前を与える。
彼は強者と共に分捕り物を分かち取る。

ここでは、カルバリのさらに別の面が示されています。「強者」と呼ばれているもうひとりの者が言及されており、使われているその言い回しは戦いを暗示します。また、戦いで勝ち取った「分捕りもの」を分かち取ることについても述べられています。他の箇所でイザヤは、「恐ろしい者の餌食」について、また「義なる捕虜」の「強者」からの解放について語っています(イザヤ四九・二四、二五)。

さらに、悲しみの人に分捕り物が与えられるのは、「彼が自分の魂を死に至るまで注ぎだし」、「そむいた人たちとともに数えられた」からである、と述べられています。

カルバリで、キリストは私たちの咎を負って私たちをいやし、罪過のためのささげものとなって私たちを義とし、陣痛の苦しみを通して神の御子に似た新しい種族を生み出されました。しかし、カルバリの意義はこれだけではありません。キリストはカルバリで恐ろしい敵と戦って、敵の力の下に捕われていた者たちを解放してくださったのです。

これは他の聖書の箇所とも一致します。ダビデは幻の中で、昇天した主が「捕われた者をとりこにして」高き所にある聖所へ引いて行かれるのを見ました(詩篇六八・十八)。また、霊感を受けたヘブル人への手紙の著者は、キリストは「死を通して」悪魔を滅ぼし、「一生涯死の恐怖により奴隷となっていたすべての人を解放された」と述べています(ヘブル二・十五)。

彼が強者から分捕りものを取ったのは、彼が「そむいた人たちとともに数えられた」からである、と記されています。彼は御父のみこころに全く従い、苦難と死の杯を受け取って、それを飲み干されました!「罪を知らない方」が「そむいた人たちとともに数えられ」、「私たちの代わりに罪とされ」ました(二コリント五・二一)。それが彼にとっていったい何を意味したのか、私たちには見当もつきません。カルバリのこの展望は、キリストが恐るべき者に打ち勝った一つの理由を私たちに示します。悪魔は自分を高くして、いと高き方のようにさえなろうとしましたが、神の御子はご自身を低くして、もっとも低い者よりもさらに低くされることに同意されました。それゆえ、神は彼を高く上げて、あらゆる名にまさる名を彼にお与えになりました。なぜなら、地上で恥の極致のカルバリは、天では栄光だったからです。

天における十字架の効力 十二節

彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをした。

この短い節から、私たちは天を一瞥します。カルバリから凱旋した勝利者は、ご自身が贖ったすべての人のために、幕の内側、「神の御顔の御前」(ヘブル九・二四)におられます。

彼は「そむいた人たちとともに数えられた」ので、そむいた人たちのためにとりなすことができました。また、彼ご自身(罪を除いて)すべての点で彼らと同じように試みられ、人として地上を歩んだ時、「試みを受けて苦しんだ」(ヘブル二・十八、四・十五)ので、彼らの悲しみに「同情」されました。

* * * * * * * * * *

カルバリへ行き、イザヤの預言が投じる光の中で彼を見つめましょう。彼は、ご自身の前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせず、十字架を耐え忍ばれました。彼がこの世に来た目的を果たす時が来ました。神・人がこうべを垂れ、霊を御父の御手に渡す時、「完了した」と叫ばれるのを聞きなさい。今、彼こそ御父が用意された小羊であり、罪のための罪過のささげものであることがわかります。だれよりもそこなわれた姿を持つ方は、私たちの咎のために傷つけられ、砕かれました。彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。

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ペンテコステの日の少しあと、砂漠を行く馬車の中で、一人の高官がイザヤの預言を読んでいました。彼が「彼は羊のようにほふり場へ引いて行かれた」、「彼のいのちは地から取られる」という言葉に来た時、ピリポという名の一人の弟子が近づいて、馬車に同乗するよう聖霊に命じられました。彼は宦官の隣に座って、イザヤの預言から

イエス

を彼に宣べ伝えました。イザヤの預言は、御霊によって与えられた十字架の予表でした。今再びそれは、彼から教わった使者を通して、求める魂に対して、御霊によって与えられたメッセージになります(使徒八・二六~三五参照)。

このように聖霊は、イザヤは確かに神のキリストについて預言したこと、そして

「イザヤはイエスの栄光を見て、イエスについて語った」(ヨハネ十二・四一)

ことを証しされました。