第二章 昇天したキリストによって解き明かされた十字架

ジェシー・ペン-ルイス

真理の霊はわたしの栄光を現わします。
わたしのものを受けてあなたがたに知らせるからです。
(ヨハネ十六・十三、十四)

私が宣べ伝えた福音は、人によるものではありません。
私はそれを人からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。
ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
(ガラテヤ一・十一、十二)

私たちはすでに、「預言者たちのうちにおられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証しされたのです」という使徒ペテロの言葉を見ました。

この証しは神の御子を啓示しました。それによると、神の御子は定められた時に十字架上で死なれるだけでなく、世の初めからご自身に関する預言の霊でもあります。彼は聖霊により、世に現れる前の数世紀の間、来るべきご自身の十字架について霊感をお与えになりました。彼の受難以前にそうだったのですから、彼の死と昇天の後も、十字架の解き明かしや宣べ伝えが全く人の知恵に委ねられることはありません。

使徒たちは彼の受難の目撃証人でした。しかし彼らは、十字架の意義に関する自分の考えを宣べ伝えるよう放っておかれたわけではありません。なぜなら、ペンテコステの日に二階の部屋で、祝福された三位一体の第三格位――御父から出る真理の霊――が選ばれた証人たちの群れに臨んで、彼らを働きのために整えられたからです。

御父は、地上にいる贖われた者たちのために、御子に聖霊の賜物をお与えになりました。聖霊は来臨して、十字架につけられた方を証しし、彼の弟子たちを通して彼の死と復活を証しされます。

「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります」と復活した主は言われました。そして今、選ばれた証人たちは聖霊によって強められ、主イエスの死と復活を証しします。

「あなたがたは十字架につけて殺しました」、しかし「神はこの方をよみがえらせました」(使徒二・二三、二四)。「神が主またキリストとされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒二・三六)。「あなたがたは、聖い、正しい方を拒んで、人殺しを赦免するよう要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせました」(使徒三・十四、十五)。「あなたがたが十字架につけた方を、神はよみがえらせました」。

これがメッセージの中心的内容でした。このメッセージは、「聖霊の分け与え」によって証しされ、十字架にかかって復活した神の御子の御名を通してなされたしるしと不思議によって証しされました。

ステパノは特に、「恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざやしるしを行なって」いました。彼はユダヤの議会の前で、十字架につけられたイエスを証ししました。そして、自分のために死んでくださった方にいのちをささげて、その証しの最後を飾りました。

ステパノの死を通して、十字架の実が顕著に現わされました。彼の死から、神の御子の犠牲の完全な意義を大いなる力で宣べ伝えることになる人が起こされたのです。

ステパノの死と、それに起因するパリサイ人サウロの回心は、十字架のメッセージが神の力である道の実物教材です。十字架のメッセージは、使者に与えられる十字架の霊と共に、聖霊によって語られる十字架の言葉ですから、他の人々のうちに十字架の実を結びます。

主は十字架上で、ご自身を十字架につけた者たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。それと同じように、ステパノは死ぬ間際、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。パリサイ人サウロは、この祈りを聞いた時、殉教者ステパノに主イエスの受難を見たと言えるでしょう。

あの日、悔悟の矢がサウロの心を貫いたことでしょう。ダマスコへの途上、復活した主に突然出会い、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」という主の語りかけを聞いた時、サウロは自分が殉教者ステパノにキリストの霊を見ていたことを知りました。こうして、「選びの器」が主の足下に勝ち取られました。

預言者イザヤは、神によって選ばれ、整えられて、十字架のすばらしい物語を預言し、神の小羊の特徴を穏やかな言葉で描写しました。同じように、パウロも主に選ばれて十字架のメッセージを受け、それを宣べ伝えました。

イザヤもパウロも、神との個人的出会いにより、特別な奉仕のために整えられました。その出会いは二人の内に自己嫌悪の念を引き起こしたため、イザヤは「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ」と叫び、使徒は「私のうちには善が住んでいない」と言いました。また、二人とも自分を全く神に明け渡しました。イザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言い、パウロは「主よ、私はどうすればいいのでしょう?」と言いました。

イザヤは自分の民のために激しく泣き(イザヤ二二・四)、パウロはイスラエルの盲目さのために魂を悩ませました(ローマ九・三)。このこともまた、二人が深い苦しみに耐え、神への奉仕に全く献身できる人だったことを示します。また二人とも、神の霊の教えを受けてそれを伝えることのできる、霊の広さを持っていました。それぞれカルバリのメッセージを与えられました。一方は種子として、他方は完全な結実としてでした。それぞれキリストご自身の霊により霊感を受けました。キリストの霊は、一方を通してご自身の受難を前もって証しし、他方を通してご自身の死のすばらしい成果を解き明かされました。

ですからパウロが、自分の宣べ伝えた福音は「人による」ものではなく、「それを人から受け」もしなかったと強調しているのも、驚くにはあたりません。彼は、キリストの受難の目撃証人たちから福音を受けたわけでも、だれかから教わったわけでもありませんでした。それは、直接的な「イエス・キリストの啓示」によって彼に与えられました。ですから、彼はガラテヤ人たちに書き送りました、「あなたがたが私から聞いた知らせは神から出ており、正真正銘、御座からのものです。(中略)復活した主が個人的に私に啓示してくださったのです」(ガラテヤ一・十一~二四の概要の言い替え、モールによる)。

復活、昇天した主ご自身――主は受難のしるしを聖なる身に帯びて天に昇られました――が、パウロにご自身の死の目的を解き明かされました。これは感動的で厳粛な事実です。パウロの文書に記されているカルバリのメッセージを黙想する時、これを心にとめるなら、「十字架の言葉」は私たちにとって実際に「神の力」となります。

パウロが宣べ伝えた十字架の福音は、主ご自身から直接与えられました。これは、エルサレムにいるおもだったキリストの使徒たちを彼が訪問した結果からもわかります。パウロは、異邦人の間で宣べ伝えていた福音を使徒たちの前に示すよう、「啓示によって」(ガラテヤ二・二)命じられました。彼がそうした時、彼は自分が復活した主ご自身から十分教わっていたことを知りました。キリストの死を目撃し、彼が死人の中から復活した後、彼と会話し、ペンテコステの日に聖霊で満たされた人たちは、主がご自身の愛の知らせを宣べ伝えさせるために選んだ人に対して、なにも付け加えませんでした。

彼らはなにも付け加えなかっただけでなく、「彼に与えられた恵みを認め」、この人に真に「福音が委ねられた」(ガラテヤ二・六、七、九)ことを理解しました。そこで、彼らは「交わりの右手」を彼に差し出しました。これは、彼が宣べ伝えた福音は使徒たち全員が宣べ伝えた福音と完全に調和していたことを示します。使徒たちが宣べ伝えた福音は、キリストが受難後「四十日間」彼らに現われて、「神の国のことを話された」(使徒一・三)時、まぎれもなくキリストご自身から与えられたものでした。

こういうわけで、カルバリのメッセージは主の直接の啓示によりパウロに与えられました。ですから、それが彼の生涯を支配し、彼のすべての文書に織り込まれたのも驚くにはあたりません。彼は、神・人が実際に死なれるところを目撃したわけではありませんでしたが、心に燃えて彼の十字架と受難を宣べ伝えました。彼の宣べ伝えはとても力強く、聖霊の光に満ちていました。それゆえ、彼はガラテヤ人たちに、「十字架につけられたイエス・キリストが、まさにあなたがたの目の前に大きく描き出されたのです」(モールによるガラテヤ三・一の翻訳)と宣言することができました。

彼の死を解き明かす使者を通して、私たちが慎んで主ご自身に耳を傾ける時、どうか聖霊なる神がパウロの十字架の福音をもう一度証ししてくださいますように。

十字架と生まれながらの人

生まれながらの人は、御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。(一コリント二・十四)
十字架のことばは滅びつつある人々にとっては愚かです。(一コリント一・十八)
十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かです。(一コリント一・二三)

パウロはイエス・キリストの直接の啓示により彼の福音を受けましたが、生まれながらの人がその福音を受け入れるだろうとは夢想しませんでした。彼はイザヤと同じく、「主の御腕」である十字架は聖霊によって啓示されなければならないことを知っていました。なぜなら、不信仰の子たちの暗くされた知性(エペソ四・十八)や反逆的な意志にとって、十字架のメッセージはすべて愚かに見えるからです。

別の人の死による救いだって!そんなのは「全く正義に反する」!人は自分自身を救えないだって!そんなことはない、全く馬鹿げている!

ユダヤ人にとって、十字架の言葉はさらに大きなつまずきの石でした。彼らの聖書には、「神の目に、木にかけられる者は呪われている」(七十人訳)と記されていなかったでしょうか?

パウロは、十字架につけられたメシヤをユダヤ人に宣べ伝えた時、「神に呪われている」、「神に対する冒涜だ」と何度も非難されたにちがいありません。なぜなら、ユダヤ人は主イエスについて話す時、しばしば彼を「木にかけられた者」(申命記二一・二三ヘブル語原文、ライトフット)という名で呼んでいたからです。

ユダヤ人は御霊の照らしから離れていたため、申命記のその御言葉の意味を理解できませんでした。その御言葉は、カルバリの木の上で「私たちのために呪われたもの」となられたキリストの十字架を解き明かしているのです。

しかし、ユダヤ人は王として地上を治めるメシヤを求めていました。そして、イザヤの預言を読む時、彼らは来たるべき方の栄光と王権の予示しか見ていませんでした。彼らはこのような先入観を持っていたので、自分たちの求めるメシヤを知らせる権威の証拠として、「天からのしるしを見せてください」と何度も主イエスに要求しました。主は心を痛めて、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」と答えられました(マタイ十二・三八~四〇)。

預言者イザヤは、カルバリと墓について預言しました。また、預言者ヨナの不思議な経験も、カルバリと墓を示しました。カルバリと墓こそ、神がメシヤを知らせるために約束された特別な「しるし」でした。しかし、イザヤはイスラエルについてこう記しました、「彼らの耳は遠く、目はつぶっている」(マタイ十三・十四、十六)。盲目な民に関する彼の預言は成就しました。

「ユダヤ人はしるしを求める」とパウロは記しています。しかしユダヤ人は、神が予告されたしるしを見る目を持っていませんでした。また、「ギリシャ人は知恵を求める」とパウロは記しています。しかしギリシャ人は、「十字架につけられたキリスト」が神の力であり、神の知恵であることを理解できませんでした。

十字架と人間的な知恵

十字架のことばは神の力です。それは、こう書かれているからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼす」。(一コリント一・十八、十九)

パウロはかつて、十字架につけられたメシヤの物語を苦々しい敵対心で拒絶するパリサイ人でした。しかし今、天からの幻により、彼は十字架の目的を深く理解します。彼は十字架を、エデンの園での堕落の一つの原因に対する、エホバの決定的打撃として見ています。

「女が見ると、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記三・六)

「主によって設けられた制限を越えて、知識を得たい」という願望が、堕落の原因の一つでした。その影響は今日まで及んでいます。知性の驕りは、いまだに人が創造主を知る邪魔をしています。

十字架による救いは、堕落した被造物の知的傲慢に対する、全知なる創造主の決定的一撃でした。なぜなら、「十字架の言葉」は、「知恵ある者の知恵」を「滅ぼし」、無にする神の力だからです。神の力である十字架は、生まれながらの人の理解を遙かに越えています。ですから生まれながらの人は、自分の知性を創造主に明け渡し、エホバの御言葉だけに基づいて十字架のメッセージを受け入れなければなりません。

「神の愚かさ」は「人よりも賢い」と聖書は告げます。すべての人が、創造主に知られているとおりに自分自身を知る日が来ます。その日、肉的な推論では「愚か」に見えたすべてのことが、実は神の最高の知恵だったことがわかるでしょう。

「十字架の言葉」は神の力です。そしてそれを通して、全知なる主はすでに「この世の知恵」を「愚かな」ものにされつつあります。この世は「自分の知恵によって」神を知ることができないでいます。「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(一コリント一・二一欄外)。愚かに見える「宣教のことば」を通して、神は咎と罪の力からの救いの奇跡をなされつつあります。そして、多くの兄弟たちの間で最初に生まれた方――死者の中から最初に生まれた方――のすがたにかたどって、新しい種族を再創造されつつあります。

「弱さのゆえに十字架につけられた」方において現わされた「神の弱さ」は、「人よりも強い」のです。恥の十字架上で弱々しく苦しみを受けた救い主は、信じるすべての人を救う大能の力を持っておられます。

十字架と真の知恵

しかし、私たちは知恵を語ります。この世の知恵ではなく、奥義としての神の知恵を語ります。(一コリント二・六~八)

十字架の言葉は、「救われつつある」人々にとって、知識の傲りを無にする神の力です。そのおかげで、彼らは神の知恵を教わることができます。神の知恵は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」です。

神の知恵は生まれながらの人にとって奥義です。しかし、神の知恵は神を愛するすべての人に神の霊によって啓示されます。使徒はまた、この世の知恵が過ぎ去る時、神の知恵は「私たちの栄光」となる、と記しています。

「奥義としての神の知恵」は、「神の奥義であるキリスト」(コロサイ二・二、三)です。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ二・二、三)。十字架につけられたメシヤは、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、神の力、神の知恵です(一コリント一・二三、二四)。