イザヤの預言は、悲しみの人の受難と死が自分自身のためではなく、さまよって行った人々のためだったこと、また悲しみの人は御父の格別な御旨により「罪のためのささげもの」となったことを、私たちに告げます。御父の御旨は、「彼を砕き」、「彼を痛めつける」ことでした。
使徒パウロは同じテーマを取り上げて、神ご自身がキリスト・イエスの犠牲を計画し、それを「血による、また信仰による、なだめ」(ローマ三・二五)とされたことをローマ人に書いています。ただこうすることによってのみ、神は「罪を過ぎ越し」つつ、しかも罪の世に対してご自身の義を示すことができました。
エホバはご自身の御子を惜しまずに、私たちすべてのために渡されました!そうです、神ご自身が「キリストにあって、この世をご自身と和解させてくださった」と記されています。なぜなら、御父と御子は一つだからです。
聖霊なる神によって遣わされ、備えられた使者たちは、平和のたよりを宣べ伝えなければなりません。彼らは復活した神の御子により、その大使として任命されています。ですから彼らは、「キリストに代わって」滅びつつある人々に懇願し、自分たちを通して「あたかも神が懇願しておられるかのように」、「神と和解しなさい」と告げなければなりません。
コロサイ人たちにパウロは書き送りました、「彼の十字架の血を通して平和をつくり」、悪い行ないのゆえに、神から離れ、神の敵となっていた「あなたたちを、彼は今、その肉の体において、死を通して、ご自身と和解させてくださいました」。
「彼の十字架の血を通して平和をつくり」は、キリストの犠牲のなだめの面を述べています。彼はひとりで酒ぶねを踏み、民のうちに彼と事を共にする者はいませんでした(イザヤ六三・三、欽定訳)。「その肉の体において、死を通して」罪人が神と和解することは、救い主と救われた者が一つであることを私たちに示しています。この後者の面において、私たちは代表人である第二のアダムを見ます。そして彼の死の中で、信仰によって彼に結び合わされる人がみな、どのように自分の罪の刑罰を受け、彼を通して神と和解するのかを見ます。
使徒は続けます。「その肉の体において、死を通して、あなたたちを、聖く、傷なく、御前で非難されるところのない者として、ささげるためでした」。
十字架は、和解した魂が新しい領域に入るための門です。その領域で魂は、キリストにあって「聖く」、傷なく、御前で非難されるところのない者として、御父にささげられます。こうして和解する人たちは、キリストと共に自分の古い罪に対して死にます。彼らの「悪い行ない」――これにより彼らは神を離れ、心の中で神の敵になっていました――は、今や後に残されます。彼らは以前の生活を続けるために「和解する」のではありません。
ですから、「彼の十字架の血を通しての平和」と、キリストの体において死を通して神と和解するというメッセージは、罪の刑罰からの解放だけでなく、罪の力からの解放をも含みます。
もっと簡単に言うと、私たちは使徒ペテロが宣言した罪の束縛からの解放を、過去の罪の赦しと共に得ます。彼は第一の手紙の中でキリストの受難について記しています、「彼は自ら木の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪に対して死に、義に対して生きるためです」。改訂訳欄外の別訳はさらに印象的です。それは、キリストは「その体において、私たちの罪をその木へ運ばれた」と述べています。これは確かに、私たちが罪の支配下にとどまって、何度も罪を犯すためではありません!
死による信者の救い主との結合を、使徒はこのように明言しています。主イエスは、十字架の贖いの犠牲によって平和をつくり、私たちの罪をその木へ運ばれました。それは、彼にあって私たちが罪とその力に対して死ぬためでした。そして今、私たちは神からの彼のいのちにあずかり、私たちの心の中に住まわれる聖にして義なる方の力によって「義のために生きます」。
使徒はイザヤの預言を引用してさらに言います、「彼の打ち傷によって、あなたたちはいやされたのです」。彼は、罪の刑罰と罪の束縛からの解放を、あの最も聖なる十字架の預言に結びつけます。
私たちのために実際に砕かれ、苦しみを受けてくださったのは、神の小羊でした。それは、彼のいのちの癒しの力を、信じる私たちに分け与えるためでした。私たちは、彼が私たちの罪をその木へ運ばれたこと、そして自分は彼にあってそれらの罪に対して死に、今神に対して生きていることを信じます。
これこそ、復活した主がパウロに啓示されたカルバリのメッセージです。また、ペテロの言葉から確証されるように、これこそペンテコステの日に使徒たち全員が宣べ伝えた福音です。神の教会は、カルバリの福音を宣べ伝えるとき、十字架の言葉のこの二つの面を切り離すことにより大きな損害を被ってきました。
さらに、明らかにパウロは、罪の力からの解放を高度な経験として教えませんでした。というのは、ローマの回心者たちに手紙を書いた時、彼はキリストと共なる死を初歩的な経験の段階として話したように思われるからです。彼らがそれを知らないのを知って、彼は驚きました。なぜなら、キリストの死にあずかることは、彼らにとって、彼のいのちの新しさを経験するための唯一の基礎だったからです。
十字架と罪の束縛
彼とともに十字架につけられました。それは、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためです。(ローマ六・六)
パウロは神の素晴らしい計画を続けて示す際、「御子の死を通して神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ローマ五・十欄外)とローマ人たちに書きました。神の計画は、神とこのように和解して義の賜物を受けているすべての人が「いのちの中で支配する」(ローマ五・十七)ことです。かつて罪が彼らを支配したように、恵みがイエス・キリストを通して支配します。
しかし、こう尋ねる人がいるかもしれません。神が豊かな恵みを示すために、「私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか?」(ローマ六・一)。とんでもない!と使徒は答えます。キリストの死と、そこから満ちあふれる神の無代価の恵みとは、断じて罪に仕えるためではありえません!
神の豊かな恵みが御子の死を通して罪人に与えられるのは事実です。しかし、私たちは神の御子と共に「死にました」。ですから、罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きられるでしょう?(ローマ六・二、C.H.参照)
十字架の使徒は書きつつ深く感動します!「イエス・キリストの啓示」によって彼はカルバリの意義を示されました。そして十字架の光の中、彼は堕落の深さと罪の極度の罪深さを見ました。神の御子ご自身が未曾有の苦しみと恥を受けて死ぬ以外、破滅した罪人を救う手だてがなかったほど、堕落は深く、罪は極度に罪深いのです。
キリストは罪から解放するために死なれました。それなのに「罪の中にとどまり続ける」とは!とんでもないことです!罪は増し加わりましたが、罪人を束縛から救うために、「恵みはさらに満ちあふれました」。
キリストにより示されたカルバリの上に輝く光の中、使徒はあの死の意義を示します。そのためローマ人たちは、キリストの死の目的について、もはや無知のままではいられませんでした。
「私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました」が、堕落した罪人に対するカルバリのメッセージであり、罪の束縛からの解放の鍵です。キリストの中にバプテスマされた人はみな、「彼の死の中にバプテスマされました」。「死のバプテスマ」を通して、彼らは彼の墓の中に葬られました(ローマ六・四)。それは、「キリストが死者の中からよみがえられたように」、彼らが彼の十字架と墓を自分と過去との間に横たわる大きな深淵とみなし、復活したキリストと共に出てきて、「いのちの新しさの中を歩む」(ローマ六・四)ためです。
もちろんこれは、彼らが彼の死の中で主と本当に親密に結ばれていればの話でした!心の中で承認するだけでは、復活した主との真の結合は生じませんでした。彼らは、十字架につけられた方と聖霊によって堅く結ばれて、まさに彼の死の「様」にあずからなければならなかったのです(ローマ六・五)。
もしこの結合が存在するなら、彼らは彼の復活の力を経験し、「彼と共に十字架につけられた」ことを知るでしょう。そして、「もはや罪に束縛されず」、罪の奴隷ではなくなるでしょう(ローマ六・六、C.H.)。なぜなら、「死んでしまった者は、罪から解放されている」からです。罪にはもはや支配権はありません。罪の圧制は終ります。
さらに、キリストの死には消極的解放以上の意義がありました。彼らが罪の支配から解放されたのは、死によるだけでなく、いのちにもよりました。死と墓に勝利したキリストのいのちが彼らに現わされます。もし古きに対して「死んだ」のが本当なら、彼らはキリストと共に生き、彼が今生きているいのち――新しいいのち、「神に生きる」いのち(ローマ六・十)――にあずかるでしょう。
豊かないのち、いのちの中で支配することが、カルバリの目的でした。キリストが死なれたのは、私たちのために、罪に対して死なれたのです。彼は「ただ一度」(ローマ六・十)死なれました。ですから彼らは、自分が彼と共に罪に対して死んだことを認め、罪が自分を支配するのを徹底的に拒むべきでした。なぜなら彼らは、「キリスト・イエスにあって神に対して生きて」いたからです。いのちそのものである彼の中に住むなら、彼らは彼らの主であるイエス・キリストにあって、いのちの中で支配するでしょう。
しかし忘れてはならないのは、これを実際に生かし出す必要があるということです!キリストと共に十字架につけられたのが本当なら、罪にふけったり、自分の体の肢体を不義の武器としてささげることはできません。さもないと、「神の恵みを無にする」ことになります。カルバリの完全な解放を経験したければ、十字架につけられた方と共に死んだことを喜んで認める必要があるだけでなく、「死んで生きている者」(ローマ六・十三、モール)として自分を神にささげ、「いのちの新しさ」の中で自分の体の肢体を義の武器として神にささげなければなりません。
しかし、ここで別の疑問が生じます。私たちを解放する恵みによって、自由の限度を踏み越えるおそれが生じるのではないでしょうか?(ローマ六・十五)
「とんでもない!」と使徒は再び叫びます。彼の死と復活によるキリストとの結合は、人間存在の中心深くにおける革命を意味することを、彼らは知らなかったのでしょうか?このようにキリストの死の力を経験した人々は、「伝えられた」模範に「心から服従」しました(ローマ六・十七欄外)。彼らはいのちの新しさの中で、罪のしもべになるかわりに喜んで「神のしもべ」になり、楽しい神への従順により、毎日自発的に自分の肢体を「義の奴隷」としてささげました。
ローマ人への手紙のこの章には、十字架の分離する力がはっきりと示されています。罪の刑罰と罪の束縛からの解放の働きは、カルバリで達成されました。使徒はローマのクリスチャンたちに、断固たる信仰の行いによってキリストの死の成果にあずかるよう求めます。キリストと共に十字架上で彼らは死にました。そして彼の死により、彼らは古い生活から断ち切られました。彼らは「彼の死と同じようになることによって、彼に結び合わされた」のですから、自分は彼と共に十字架につけられたこと、「罪に対して死に」(ローマ六・十一節、C.H.)、彼にあって神に対して生きていることを認めるべきでした。
「私はそう認めてきましたが、まるで嘘を認めているようです」と、求める心の持ち主は叫ぶかもしれません。
ああ、あなたの目はおそらく、間違った方向を向いているのです。あなたは、あなたの救い主の御業よりも「認める」ことに気を取られて、内側を見ています。認めるべき対象以外のものを「認め」ても、聖霊は証ししてくださいません。
カルバリを見なさい。主イエスはあなたのために死んで、あなたの代表者としてあなたをご自身と共に十字架に連れて行かれました。あなたは本当に、自覚しているすべての罪と手を切る決意をされたでしょうか?あなたは、キリストと共なる死が自分の経験になることを願っておられるでしょうか?もしそうなら、この決定的瞬間から、自分は十字架につけられた主と共にその木に釘付けられた、と見なしてください。
聖霊に信頼し、神の御言葉を信じ、「それゆえ罪に支配させてはなりません」。なぜなら、キリストの死を通して、またあなたがあの死にあずかることを通して、「罪があなたを支配することはありません」(ローマ六・十四、C.H.)と神は言われたからです。
おお、神の子供よ、あなたは十字架上でキリストの中に隠され、彼のいのちによって彼に結び合わされました。あなたがなすべきことは、あなたの意志を常に働かせて選ぶことです。なぜなら、「あなたは服従する相手の奴隷」(ローマ六・十六、欽定訳)だからです。激しい誘惑の時、あなたは直ちにあなたの中心に、すなわち十字架に逃れなければなりません。そして、あなたをそこに導いてくださった方の中に隠れて、彼にあってあなたのいるべき所から連れ出されないようにしなければなりません。何かがあなたに臨んでも、自分でそれに取り組むのではなく、すべて彼(あなたは彼のいのちにあずかっています)に渡しなさい。そうするなら、彼は毎日あなたを解放して保護できることがわかるでしょう。
「しかし今は、罪の束縛から解放されて、神の働きの奴隷となりました」(ローマ六・二二、C.H.)。あなたは罪を罪と呼んで、正直に罪を取り扱わなければなりません。またあなたは、御旨を願わせ、行わせてくださる主に信頼して、あなたの主に従順に歩むよう堅く心がけなければなりません。
試練や誘惑に圧迫される時、圧迫されるままに、主の御顔の光の中にのがれましょう。そうするなら、あなたは主の光の中ですべてを見ることができます。あなたは「神が光の中におられるように光の中を歩み」、あなたをすべての罪から清めるイエス・キリストの尊い血を持ちます。「もしだれかが罪を犯しても、私たちには御父と共なる弁護者がいます。それは、義なるイエス・キリストです」。彼は「私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物です」(一ヨハネ二・一、二)。
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しかし、私たちは解放を切望するようになる前に、自分の鎖の重さを感じる必要があります。ここで、私たちはローマ人への手紙第七章で解き明かされている律法の目的に来ます。