死による解放について、使徒はさらに語り続けます。カルバリの十字架は神との和解の場所であり、罪の力からの解放の場所です。しかし、キリストと共に十字架につけられる人は、彼と共に罪の束縛に対して死ぬだけでなく、「律法」の束縛に対しても死にます。律法は無力な罪人に服従を要求しましたが、罪人は律法に従うことができませんでした。律法は、罪人をいっそう深く死の無力さへと至らせました。
ローマ人への手紙五~八章における使徒の思想の流れは、クリスチャンが生活の中で実際に経験する事実と驚くほどよく一致します。これらの章をよく理解するには、内側から理解するしかありません。ある程度経験を積まなければ、ローマのクリスチャンに手紙を書いた時のパウロの立場から見ることはできません。
彼は、「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」(ローマ五・二〇、二一)と記しています。しかし、罪とその忌まわしさの「増し加わり」を示すことを神が意図されたのは、彼の恵みが「あふれるほど豊かに」示されるためでした。
あわれな罪人を「罪が支配したように」、贖われた人の中で「恵み」――無償の義の賜物――が「支配」し、勝利します。
次に、恵みが入って来て支配するのは死によってであることが示されます。なぜなら、死以外の何ものも、罪人を鎖から解放できなかったからです。罪の報酬は死であり、罪の報酬は支払われなければなりません。死の宣告は執行されなければなりません。そして、代表者たるキリストの死により、その刑罰は執行されました。十字架につけられた主と共に死んだ人を、罪はもはや支配しません。罪の支配は終ります。
信者は、自分を死に定めていた律法に対しても死にます。信者は、彼の死の中でキリストに結び合わされ、「キリストの体を通して、律法に対して死にます」(ローマ七・四)。それゆえ、信者は自分を捕らえていたものに対して「死んだ」ので、律法の要求から「解放」されます。
死んだ人に対して、律法はもはや「あなたは………するべきです」と言うことはできません。なぜなら、彼は死の門をくぐって、律法の届かない別の領域に入ったからです。その領域とは「キリスト・イエス」です。キリスト・イエスの中で、彼は新しい方法で、喜んで服従する新しい霊をもって、神に仕えます。これまでのように、律法の文字への強制的隷従によるのではありません(ローマ七・六)。
ここで別の疑問が生じます。それでは、神によって与えられた「律法」は罪なのでしょうか(ローマ七・七参照)?もう一度、使徒は「とんでもない」と答えます。そして続けて、律法が与えられた理由と、律法の実際上の働きを示します。律法は、十字架につけられて復活した主により解放される所に魂を導きます。なぜなら、自己に絶望している人だけが、キリストと共なる死による解放という知らせを、福音として迎えることができるからです。律法は私たちをキリストに導く教師です。
律法の要求からの解放について述べた後、使徒は魂の中の苦しい葛藤を生々しく描写しました。その魂は、内なる人においては神のみこころを喜んでいますが、パウロが示したキリストの死による解放を理解していませんでした。
ローマ人への手紙第七章は、これまでさんざん議論されてきました。パウロがこの章を書いたとき何を目的としていたにせよ、少なくともこれだけは確かに言えるでしょう。この章は、罪――神のみこころを行ないたいという願いにより活動を始めた――の圧制下にある人の姿を力強く描写しているのです。
魂を死の場所に導くのは律法です。なぜなら、「死」はまさに葛藤の終わりだからです。もはや戦えなくなって、「誰が私を救ってくれるのでしょう?」と絶望して叫ぶ時、魂はその地点に到達します。
パウロは記します、「私は律法を通して律法に死にました。それは、私が神に生きるためです」(ガラテヤ二・十九)。
学問的観点からローマ人への手紙第七章を論じるのは容易です。けれども、私たちは自分自身の束縛を打ち砕くよう熱心に努めましょう。そうするならすぐに、その描写の真実さと、それが描写する経験の苦しさがわかるでしょう。
律法がどのように人を終らせて、私たちの主イエス・キリストによる解放にあずからせるのか、御言葉から簡単に見ることにしましょう。
律法は罪の何たるかを私たちに知らせるために与えられた
律法によらずには、私は罪を知らなかったでしょう。(七節)
たとえば、神が律法を与えず、「むさぼってはならない」と言われなかったら、どうして私たちはむさぼりが罪であると知ることができたでしょう?
律法は罪の敵意を示すために与えられた
罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにむさぼりを引き起こしました。なぜなら、律法がなければ罪は死んでいるからです。(八節)
人の心は、実際この描写のとおりです!私たちは「むさぼってはならない」と言われると、禁じられた当のことをすぐにしてしまうのです。
「あなたは………してはならない」という戒めは、堕落した性質中にある、神の聖なる御旨に対するあらゆる敵意を呼び起こします。なぜなら、「肉の思いは神に対して反抗するからです」(ローマ八・七)。
律法の戒めがなければ、「罪は死んでいます」。つまり、何の敵意も戦いもありません。人が自分勝手な道を行き、肉や心の欲望を満たす時、そこには何の戦いもありません。しかし、人が神の律法の前に来て、それを守ろうとする時、罪が目ざめ、その人の中で神の戒めに反するありとあらゆる働きをします。
ですから律法は、人に人自身を示し、人の内にある神の律法への敵意を示すために与えられているのです。
このように、律法は人の中にひそむ神への敵対心を人に示すために与えられたのです。
律法は私たちを死に導くために与えられた
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪が生き、私は死にました。(九節)
かつて神の要求を何も知らなかった時、「私は律法なしに生きていました」。
ところが、すべて順調だと思っていた矢先、私は突然、「あなたは………しなければならない」、「あなたは………してはならない」という私の創造者の戒めに直面しました。私の中で何かが目ざめ、神の律法に対して戦いました。それまで罪は休止状態でしたが、「罪がよみがえりました」。私は律法に従うことができませんでした。私は無力だったからです。
罪は、神の戒めによって機会を捕え、その力と要求を私に示しました。私は、罪が私よりも強いことを現実に知りました。罪は私を惑わしました!私は、その結果が死であることを知りながら、その誘惑に屈服せざるをえませんでした。私には罪の報酬である死しかありません。罪は「私を殺しました」(十一節)。
神の戒めは私をよりよい生活に導いてくれるはずでした。ところがそれは、私を死の無力さの中にますます深く沈め(十節)、「私は死んだ」という絶望の中に沈めました。
律法は罪の罪深さを示すために与えられた
律法は聖なるものであり、正しく、また良いものです。(中略)戒めによって、罪は極度に罪深いものとなりました。(十二、十三節)
律法の聖さにより、「罪は罪として示されます」!創造者が考案された計画はなんと素晴らしいのでしょう!創造者は律法を用いて、罪の概念を持たない被造物に罪の何たるかを教え、さらに救いの必要性をも知らせてくださいます。
罪は「極度に罪深く」ならなければなりません。その時はじめて、人は罪を忌み嫌い、罪を解決したいと願い、罪の束縛から解放されます。
救い主の必要性を実感する時はじめて、人は救い主を歓迎することができます。
堕落の深さを見る時はじめて、人は救いの高さ、深さ、広さ、長さを理解することができます。
聖であり、正しく、良いものである「戒めにより」、またそれを守ろうとする、人の空しい努力により、神は人が自分と自分の状態を知るようにされます。
死の無力さに導く律法
罪は私に死をもたらす。(十三節) 売られて罪の下にある。(十四節) 私のうち、すなわち、私の肉のうちには善が住んでいません。(十八節)
なんと苦しい葛藤でしょう!なんと人の高ぶりを低くするものでしょう!その人は叫びます、「律法は霊的なものです」「しかし、私は肉であり、売られて罪の下にあります」。事実、私は奴隷です。「私は自分が憎むことを行なっている」からです(十五節)。
私が罪を憎んでいる事実こそ、私の目が神の御旨の美しさや卓越性に対して開かれている証拠です(十六節)。私はまるで二重人格者のようです。私の意志は正しいことを行ないたいと願います。しかし、私は「善を行なう」ことができません(十八節)。ですからある意味、悪を行なっているのは私ではなく、私を支配して虐げている罪なのです(十七節)。
私は本当に奴隷です!このような隷従があるでしょうか?私は今、「私の内には善が住んでいない」ことを知ります(十八節)。私より邪悪な人間は地上に存在しません。もはや「自分は他の人々のようではない」とは決して思えません。以前、魂はこのような束縛の中になかったでしょうか?私は、自分がしたいと思う「善」を行なわないで、かえって、したくない「悪」を行なっています(十九節)!
最終的に、「善をしたいと願っている私に悪が宿っている」(二一節)ことがわかります。「私は内なる人としては神の律法を喜びます」(二二節)。しかし、私の肢体の中には別の律法があって、それが「私の心の律法に対して戦っている」のを私は見ます(二三節)。私は罪の圧制下で奴隷にされています。
解放の時
ああ、私はなんとみじめな人でしょう!誰がこの死の体から私を解放してくれるのでしょう?(二四節欄外) 私たちの主イエス・キリストにより神に感謝します。(二五節)
そうです、解放される準備が整った時、魂は解放されます。「みじめな人」は助けを求めて叫びました。そしてその叫びの中で、自分では自分自身を解放できないことを告白しました!
生活の傲りは打ち砕かれました。
律法に従うことを願う「内なる人」は、神の目に「良しとされること」を行なおうと、ありとあらゆる努力をしたにもかかわらず、自分も自分の罪も克服できませんでした。彼は十字架の完全なメッセージを理解しませんでした。彼は、自分がキリストと共に死んだことや、キリストにあって罪の圧制と律法の要求から解放されたことを見ませんでした。彼は、この苦しい葛藤によって、自分の必要を見いださなければならなかったのです。
彼はおそらく、神の恵みの助けにより、「内なる人」は神を喜ばせることができる、と思ったのでしょう。十字架の血を通して神と和解することにより、御霊によって始まったのに、肉の助けによって「完成される」(恵みによって成長する)ことができると思ったのでしょう!
いいえ、「みじめな人」よ、再びカルバリに戻りなさい。あなたには、あなたの内にある別の力――聖霊の力――が必要なのです。「キリストにあるいのちの霊の法則」だけが、カルバリにおけるイエス・キリストの御業を通して、あなたを解放できるのです。
あなたが自分自身の力で懸命に守ろうとしていた「律法」は、「人が生きている間だけ権限を持ちます」(ローマ七・一)。
あなたは、あなたの救い主と共に十字架につけられ、彼と共に死に、キリストのからだを通して「律法に対して死にました」。
「神の御業を信じる信仰」(コロサイ二・十二)により、あなたはこれを信じるでしょうか?
もし信じるなら、あなたは律法の要求から解放されます。律法に対して「死んだ」からです!あなたは「死者の中からよみがえった方に結ばれ」(ローマ七・四)ます。あなたが自分の内に働く方に信頼する時、彼にある「いのちの霊の法則」はあなたを自由にします(ローマ人八・二、三)。「もし子があなたたちを自由にするなら、あなたたちはほんとうに自由なのです」。
外側からあなたに命じる「律法にはできなかったこと」(ローマ八・二、三)を、あなたの代わりに死ぬためにあなたに似た姿で遣わされた神ご自身の御子は、あなたの内側で行うことができます。あなたが全く守れなかった「律法の要求」は、あなたが神の霊に明け渡し、「肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩む」(ローマ八・四)時、今あなたのうちで全うされます。
ああ、あなたは絶え間ない罪定めの中に生きてきました。しかし、「私たちの主であるイエス・キリストによる」解放を叫び求め、心の中で死を覚悟し、自分にではなく死者をよみがえらせてくださる神に拠り頼む人々に対して、「もはや罪定めはありません」(ローマ八・一)。なぜなら彼らは、「キリスト・イエスにあって」、新しい法則の力、いのちの霊の内なる働きを経験するからです。この新しい法則は、罪の支配の古い法則と死の無力さから彼らを解放します。
「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」(ガラテヤ五・一)。「御霊に属すること」(ローマ八・五)を思いつつ、一歩一歩御霊によって歩みなさい。あなたの内に住んでおられるいのちの霊の力によって「からだの行ないを殺す」(ローマ八・十三)よう気をつけなさい。こうしてあなたは生き、毎日神の霊によって導かれるでしょう。神への奴隷的な恐れは過ぎ去り、あなたは自分が御父の子供であることを知るでしょう。もし子供であるなら相続人でもあります。栄光を共に受けるために彼と苦難を共にするなら、あなたは神の相続人であり、キリストと共同の相続人なのです(ローマ八・十六、十七参照)。
解放された、解放された! おお、罪の法則に縛られている捕らわれ人よ! いのちの別の法則があり、 それがあなたを内側から生かす。 あなたが御霊に信頼する時、 彼のいのちは今、 あなたの魂の器たる あなたの体の肢体を治める。
解放された!イエスにあって解放された! あなたは彼と共に十字架につけられた。 中心から辺縁に至るまで 彼は罪の力を砕かれる。 あなたの体はもはや、 何の「法則」もないかのごとく行動してはならない。 彼の「いのちの法則」は今や、 放縦だったものをすべて治めねばならぬ。
解放された!イエスにあって解放された! あなたは彼の死の中に深く植えられた。 彼はいのちの力を解放し、 霊の息を息吹かれる。 その時、生かすいのちの力と共に、 彼はあなたの霊を強められる。 霊が魂と体を治め、 体の肢体の戦いはやむ!
M.M.