パウロはためらわずに自分の経験を話します。なぜなら、彼はローマ人やガラテヤ人に自分が経験しなかった福音を宣べ伝えているのではないからです。彼は、キリストと共なる死に関してローマ人に書き送ったすべてのことを、ガラテヤ人への手紙のこの節で要約しています。
彼はローマ人に対して、「私たち」、「私たちの」と言いました。ところがガラテヤ人に対しては、「私!」と言いました。「私は」「律法に死にました」、「私はキリストと共に十字架につけられました」というように。
これらの言葉は、カルバリの解放の最も深い意義を表しています。そのメッセージを単純に受け入れれば受け入れるほど、私たちは十字架の言葉を解放する神の力としてますます速やかに経験します。
この「私」は、堕落以降、あらゆる人間生活の中心的源でした。パウロは叫びます、この「私」は「キリストと共に十字架につけられた」と。律法は私をこの死の場所に連れて来るための手段でした。その場所で、私は自分の絶望的状態を知りました。その場所で私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを見いだしました。その場所で、私は自分の苦闘をやめて、他に助けを叫び求めました。「律法」は律法に対して死ぬあの場所に私を導きました。律法に従うことは全く不可能だからです。1そして、私はそこから逃れて、キリストの死の中に隠れました。今、私は彼と共に死にました。
1 「律法の働きによって人が追いやられる、弱さや衰弱の感覚」は、「実際に死ぬ過程」である。(ライトフット)
神の言葉はみな、一度の適用で使い尽くされるものではないことを、覚えておく必要があります。私たちは彼に導かれる時、十字架のメッセージがその意義を増しつつ広がっていき、いっそう深い必要に応じるようになるのを知ります。最初、私たちはキリストと共なる私たちの死を、ただ罪の束縛との関連で理解するにすぎません。私たちのために死につつある十字架につけられた主を見つめながら、私たちはローマ人への手紙六章六節の「私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました」というパウロの宣言に耳を傾け、自分が罪に対して死んだことを認め、「怒り、憤り、悪意、悪口、ののしり」(コロサイ三・八、九、C.H.注)や、明白な「肉の行ない」をすべて捨て去ります。その時、私たちは喜びと共に、十字架の言葉は信じるすべての人にとって神の力であることを経験し、生けるキリストは「ご自身を通して神に近づく人々を完全に救える」(ヘブル七・二五欄外)ことを知ります。
しかし、遅かれ早かれ、私たちはさらに深い解放の必要性に気づきます。私たちは自分が罪に対して死んでいることを認め、肉の明白な行ないから解放されましたが、私たちの生活は依然として幾らか自己中心的なのです。奉仕における自己の力・自己満足、苦難における自己憐憫、人からの誉れを求める自己追求、試練の時の自己分析・自己判断、人と接する際の自意識過剰、傷つけられた時の自己防衛、そしてとりわけ、人生をほとんど一つの重荷にしてしまう自意識は、内なる自己中心性のしるしです。
私たちは全く主のものになることを願って、自分の力で自分を主にささげようとするかもしれません。そして、自分の活動の源を気にせず、新たな力で主のために働こうとするかもしれません。最終的に、私たちは消耗するか、あるいは、自分の働きから少しも霊的な実が得られないのを見て、主のために行なうあらゆる「被造物的活動」の無益さを悟ります。1
1 「魂と霊」及び他の書物を参照。
新鮮な祝福に満ちた解放の知らせと共に、神の霊が十字架の言葉をもたらされるのは、この時です。この解放は、ある人々の人生に、彼らが以前経験した罪の束縛からの解放以上に大きな影響を及ぼしました。
主イエスは、「もしだれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を否みなさい」と言われました。この十字架への招きで、彼は生活上の問題の核心に触れたのです。主は人の罪や何か外側の事柄について話されたのではありません。人のうちにあるものを知っておられた方は、行いよりも一層深い、まさに人の中心を突いて、「自分」について話されたのです。1
1 十二章で再び見ます。
人が自分を否み、自分はキリストと共に十字架につけられたと見なすなら、すぐに別の方――主キリストご自身――が心の中心を所有し、静かにすべてを治めてくださいます。
パウロは教会内の争いの原因について、「あなたたちはめいめい、私は………………と言っている」(一コリント一・十一、十二)とコリント人に書き送りました。聖書は様々な形を取って現われる「私」の事例を次々と示します。
ネブカデネザルは、「この大バビロンは私が建てたものではないか」(ダニエル四・三〇)と叫びました。地上の富を喜んでいたある人は、「私は自分の魂にこう言おう。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(ルカ十二・十九)と言いました。「私は他の人々のようではありません」(ルカ十八・十一)が、道徳的な人の自己評価です。「私はあなたよりも聖い」(イザヤ六五・五)が、自分を義とする人の思いです。「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」(黙示録三・十七)が、自己満足している人の態度です。「私」がこの人やあの人につく時、クリスチャンのその「私」は「ただの人のように」歩んでいます。「ある人が私はパウロにつくと言えば、別の人は私はアポロにと言う。そういうことでは、あなたたちはただの人ではありませんか?」(一コリント三・一~四参照)と使徒は記しています。
しかし、「『私』はキリストと共に十字架につけられました」がパウロの解放宣言でした。彼は十字架のメッセージで当時のクリスチャンたちのすべての問題にあたりました。彼は罪に対する姿勢や神の教会内にあったこの世の要素について神の子どもたちを実際に取り扱う時、「死んだ私たち」、「すべての人が死んだ」、「なぜならあなたたちは死んだからです」と繰り返し述べました。彼が手紙を書き送った人たちは、彼がそれを自分自身の生活の中で生き抜いていることを知っていました。彼はキリストの使徒として「誉れを要求できた」(一テサロニケ二・六欄外)時でさえ、「私はキリストと共に十字架につけられました」と言って、最高の地位を求めなかったのです。
彼はコリント人に「私は取るに足りない者」と書き送り、エペソ人に「私はすべての聖徒たちの中で最も小さい」と書き送りました。「もはや私ではない」という精神が彼の生涯に満ちていました。なぜなら、彼はキリストのゆえにいっさいのことを損と思い、愛する方のためにあらゆるもののかすになったからです。
「キリストと共に十字架につけられた」がパウロの不変の宣言です。そして、彼はその観点からキリストの死の成果を語ります。ですから、彼は常にカルバリを基本的事実として保ち、真理を解き明かす時、決して十字架の範囲を越えません。使徒がガラテヤ人への手紙二章二〇節で使っているギリシャ語は、「一緒に十字架につけること」1を意味します。継続的解放を経験するには、「キリストと一緒に十字架につけられた」という事実の上に信仰を置かなければなりません。なぜなら、心の目は十字架につけられたキリストに集中するべきであって、内側の主観的経験に向けるべきではないからです。
1 ローマ六・六でも使われています。
「イエスを見つめること」は、霊的生活のすべての段階で解放の道です。イスラエル人が自分たちの悲惨な状態から目を転じて、荒野で上げられた蛇を見つめたように、私たちは十字架上のキリストを「見つめ」、罪の死の中にある自分自身から目を転じてカルバリを見つめます。そして見つめる時、私たちは生きます。再び私たちは、自分がキリストと共に十字架につけられているのを「見つめて」了解し、自分を彼に結合する信仰によって、自分が罪に対して全く死んでいることを認め、罪の支配を拒んで既知の罪をすべて放棄します。私たちが心から勝利を願い、期待しているかぎり、聖霊は真の解放をもって私たちの信仰に証印を押してくださいます。
さらに、私たちはカルバリを見つめます。そして、自分が律法に対して死んだことを理解します。なぜなら、キリストにある者たちに対して、神はもはや「あなたは………するべきです」と言われないからです。私たちがキリストの律法に従う時、彼は私たちの心に御子の霊を送ってくださいます。それにより、私たちは「アバ、父」と叫び、自分のすべての必要を満たしてくださる彼を見つめることを学びます。
再び、私たちはカルバリを「見つめ」ます。そして、「『私』は彼と共に十字架につけられた」ことを、ますますはっきりと見ます。御霊がそのメッセージを照らされる時、その素晴らしい秘訣を長らく理解しなかったことに私たちは驚きます。私たちは、彼の十字架を自分のものとして負うことにより、生けるキリストのために道をあければよいのです。そうするなら、彼は私たちを通してご自身を現わしてくださいます。
これで終わりでしょうか?いいえ。死んで復活した方が内側で御座につかれる時、私たちは彼の光の中で光を見ます。そして、私たちの複雑な存在の新たな領域が彼の臨在の光によって照らされるたびに、私たちは自分の必要がますます深まっていくのを発見し、カルバリがいのちの場所であることを何度も見いだします。
「キリストと共に十字架につけられた!」。彼の十字架は私のものです。私は彼と共にそこにあります。私は喜んで彼の十字架にあずかり、「もはや私ではない!」で万事にあたります。「私はもはや離ればなれの存在ではありません。私はキリストに合併されています」(ライトフット)。ですから、生ける方である彼が私によって御目にかなう働きを行い、私を通して前進されるのです。