第七章 十字架と聖霊

ジェシー・ペン-ルイス

イエスは、その手とわき腹を彼らに示された。(中略)
彼は彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。
(ヨハネ二〇・二〇、二二)

キリストは、私たちのために呪われたものとなって、
私たちを呪いから贖い出してくださいました。(中略)
それは、私たちが約束された御霊を受けるためです
(ガラテヤ三・十三、十四)

ガラテヤ人への手紙の使徒パウロのこの言葉によると、聖霊の賜物はカルバリの十字架におけるキリストの御業に基づきます。

主イエスは、十字架と受難の前の晩、弟子たちへの別れのメッセージの中で、御霊の働きを予告されました。

御子は、御父から出る真理の霊(ヨハネ十五・二六)を、贖った各々の人に遣わされます。それには特別な目的があります。その目的とは、神に関する事柄を彼らに教えること(ヨハネ十四・二六)、キリストの言葉を彼らに思い起こさせること、ただキリストだけを常に証しすること(ヨハネ十五・二六)、各々の人をあらゆる真理に導くこと、自分のことを語るのではなく、顧みの下にある民に御父と御子の御心を伝えること(ヨハネ十六・十三、十四)、神の永遠のみこころを彼らに啓示すること、贖ったすべての人にキリストの栄光を現わすこと、彼のあらゆる豊かさを受けてそれを彼らに知らせることです。

イエスご自身が来て弟子たちの真中に立たれたのは、復活した日のエルサレムの二階の部屋でのことでした。彼は十字架の傷跡の残る両手と脇腹を彼らに見せ、「彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けよ』と言われました」(ヨハネ二〇・十九~二二)。また彼は、「神の右手によって高く上げられて」天に昇った後、御父から約束の聖霊を受けて、地上で待ち望んでいる群れの上に注がれました。それまで彼らは「父の約束」を待ちつつ、「心を合わせて」ひたすら祈りに専念していました。聖霊が必ず彼らに到来して、神の御子の死と復活を御霊と共に証しする働きのために彼らを整えるであろうことを、主は告げておられました。

神の霊がどのように弟子たちを教えてキリストの御言葉を解き明かされたのか、どのように彼らの先入観や境遇とはかけ離れた真理に彼らを導かれたのか、どのようにキリストを証しして地上にいる贖われた者たちに御父と御子の御心と御旨を知らされたのか、どのようにキリストの栄光を現わして彼の豊かさを受けてそれを彼らに知らされたのかを、使徒たちの働きの書は示します。

御霊からこのように教わった使徒パウロを通して、私たちは御霊の内住と満たしがただカルバリのみに基づくことを学びます。彼は記しています、「キリストは私たちを贖ってくださいました。(中略)私たちが御霊を受けるためです」。「贖われた」という語は、私たちをカルバリに連れ戻します。私たちはカルバリで、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血」(一ペテロ一・十九)によって贖われました。それだけではありません。キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちが御霊を受けられるようにしてくださったのです!「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを贖ってくださいました。(木にかけられる者はすべて呪われたものであると記されているからです。)その目的は、私たちが信仰を通して約束された御霊を受けることです」(ガラテヤ三・十三、十四、C.H.)。

このように、カルバリの二重のメッセージは明らかに聖霊の賜物と関係があります。キリストが私たちのために呪われたものとなったことは、私たちは呪われたものであって、私たちのために彼が木にかけられたこと、そして私たちの代表者として、彼は彼と共に私たちをその木に連れて行かれたことを意味するからです。

十字架の呪いは御霊の約束と関係しています。これは彼が私たちの内で自由に働ける条件をも深く暗示しています。なぜなら、自分自身であるものはすべて「呪われている」ことを真に理解する時だけ、私たちはカルバリのメッセージ――私たちは私たちのために死なれた方と共に十字架につけられた――を喜んで受け入れ、聖霊の完全な内住と働きのために場所を備えるからです。

十字架は御霊に導き、御霊は再び十字架に戻る」(マーレー)。ただキリストの死を通してのみ、人は御霊を受けることができます。そしてこのように受けた御霊によってのみ、信者はキリストの死にしっかりと結び合わされ、復活の主の内住を確かに知り、「私はキリストと共に十字架につけられた」と真に言うことができます。「キリストが私のうちに生きておられます!」。しかしながら、次のこともまた真実です。すなわち、十字架でキリストとさらに深く交わることによってのみ、私たちは聖霊の豊かさと力を知ることができるのです。

ガラテヤ人へのパウロの言葉もこれを示しています。というのは、パウロはカルバリの宣べ伝えを彼らの間における聖霊の働きの基礎として強調しており、しかも、彼らは明らかに聖霊を受けていたにもかかわらず、もっとはっきりと十字架を知る必要があったことは明白だからです。また、もし彼らがキリストと共なる死をパウロのように十分見ていたなら、昔の自己努力の段階に戻る気にはならなかったはずだからです。ガラテヤ人は、律法を守ることに一つでも失敗した者の上にふりかかる律法の呪いを悟っていませんでした。そのため、彼らは自己信頼の終焉に至っていなかったのです。彼らは「御霊によって」始めましたが、十字架につけられた神の御子を信じる信仰に基づいて、どのように「御霊によって」生きればいいのか知りませんでした。その信仰が最初に御霊を彼らの生活の中にもたらしたのです。

今日、ガラテヤの信者に対するパウロの言葉を新たに強調する必要があります。なぜなら、神の子どもたちの多くもまた、魂の内側における聖霊の働きに関して、カルバリの十字架のいっそう明確な幻を必要としているからです。また、聖霊はカルバリのみに基づいて働かれるからです。贖われた者たちに対するキリストの死の意義をどの程度理解するかが、個々の信者がどの程度聖霊に満たされるのかを決めます。

十字架は御霊に導きます!キリストの贖いの御業により、明け渡された心はみな聖霊を受けることができます。そして受け手の明け渡しに応えて、御霊は「信仰によって(その)心を清め」、満たしてくださいます(使徒十五・九)。

御霊は十字架に導きます!これは主キリストの生涯にはっきりと示されています。彼がヨルダン川でバプテスマを受けられた時――彼が(型としての)死の水の中に入り、罪人と同一視されることを選ばれた時――天が開けて、聖霊が彼の上に臨みました。しかし、これは実際のカルバリではありませんでした。彼が御顔をまっすぐエルサレムに向けて進み、カルバリで実際の死の杯を飲むことができるようにされたのは、ヨルダン川で彼の上に臨んだ「永遠の霊によって」でした。十字架の後、彼は神の霊によって生かされ、死人の中から復活させられました。そして御父の右で、共に立つ者にまして油を注がれました(詩篇四五・七、ヘブル人への手紙一・九)。

彼の足跡に従う人たちもみなこのようです。神への明け渡しと、ヨルダン川によって予表される十字架の受け入れを通して、聖霊は心の砦を占領し、信者を真の十字架の交わりに導かれます。聖霊は、内側から外側へ、中心から辺縁に向かって継続的に御業を進め、生活の新たな領域を取り扱い、新たな必要を示してそれを満たす十字架の様々な面を次々に啓示されます。この聖霊の働きは、古いいのちから分離する力であるキリストの死を適用することと、復活のキリストのいのちを分け与えて新創造を建て上げることによります。

信者は、最初に御霊を受けた時、御霊で「満たされた」と言えるでしょう。ただし、信者はその時の容量の範囲内で満たされたにすぎません。その容量は小さいものかもしれません。御霊は十字架に導いて容量を拡げ、聖霊の大いなる豊かさを真に知らせてくださいます。しかし、信者がこれを理解しないなら、その容量は小さいままでしょう。

聖霊のすべての取り扱いに「はい」と喜んで即答して彼に協力する時、聖霊はその信仰者を信仰から信仰へ導かれます。この聖霊の働きは、主が天から現われる時、信者の卑しい体が変容されて主の栄光の体のようにされる時まで続きます。あるいは、肉体の死が贖われた人に対する神の御旨の場合、聖霊はキリストの豊かないのちを与えてくださるので、彼は「死を見る」ことなく眠りに落ちて「いつまでも主と共に」いるようになります。今や、死ぬべきものは「いのちにのまれて」います。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は私たちに御霊の保証をくださいました」(二コリント五・四、五)。

神の満ち満ちたさまにまで満たされる

どうか父が、あなたがたの内なる人に彼の霊を与えて、あなたがたに力を与えてくださいますように。こうして、信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストが住んでくださいますように。(中略)キリストの愛を知ることができますように。こうして、神の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ三・十七~二〇、C.H.)

この御言葉は、信者の内の聖霊の働きの目的を簡潔に要約しています。パウロはエペソ人のために、彼らが御霊によって「力をもって強められ」、信仰によって彼らの心のうちに「キリストが住んでくださいますように」と祈りました。御父の永遠の霊は贖われた者たちを満たします。それは特に、御子の内住を啓示する目的のためです。キリストが内側に完全に形造られるのに必要な条件を満たすため、彼は信者を強めます。私たちはすでに、その条件がガラテヤ人へのパウロの手紙の中で説明されているのを見ました。「私はキリストとともに十字架につけられました――キリストが私のうちに生きておられるのです」。

贖われた人の側の信仰が再びここで述べられています。信仰はその対象を離れては存在しません。信仰は単純に神の御言葉に信頼すること、神ご自身が御言葉の背後におられると信じることです!「信仰は聞くことから始まり」、神が御言葉を魂に語られる時、神ご自身の霊により、受け手の心の中に呼び起こされます。「彼をよみがえらせた神によってあなたがたの中にもたらされた信仰を通して、あなたがたは彼の復活にあずかる者とされたのです」(コロサイ二・十二、C.H.)とパウロはコロサイ人に書き送りました。

ですから、私たちのすべての必要を満たしてくださる聖霊に信頼しましょう。聖霊は信仰さえも与えてくださいます。その信仰によって私たちは彼に協力し、主キリストが私たちのために十字架の死によって達成してくださったものをすべて所有します。

主は不信仰を罪と示されました。それにもかかわらず、不信仰はしばしば、その力の下にある哀れな魂が負うべき「欠点」として嘆き悲しまれています。しかし、私たちは不信仰をとして扱わなければなりません。不信仰をとして神に告白しなさい。不信仰をとして放棄しなさい。キリストの死を通してどんな既知の罪からも解放されるのですから、不信仰からの解放をも期待しなさい。

もう一度、カルバリを見つめましょう。私たちはキリストと共に十字架につけられています。ですから、生ける方である彼に信頼しましょう。彼は私たちに「信仰の霊」を与えてくださいます。そして「信じよう」ともがくのをやめて、彼の御言葉に信頼し、その上に横たわりましょう。そうするなら、幼な子のような信頼に満ちた確信を与えられ、御子が御父によって生きられたように、神の御子の信仰によって生きることを教わるでしょう。

キリストがこのように内に啓示される時、神の霊は信者をさらに導かれます。信者はすべての聖徒と共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか、「理解できるよう強め」られます。この愛はカルバリにおける彼の死により最高度に現わされました。「理解できるよう強められる!」。神の力が必要です。なぜなら、この理解は彼の苦難にあずかることによってのみ生じるからです。人の悲しみを心で理解するだけでは、同じ道を歩むことから生じる交わりを産み出しません。主は弟子たちに「あなたがたはわたしの飲む杯を飲むであろう」と言われました。

しかし、キリストをカルバリに導いた愛を多少なりとも「理解できるよう強め」られることがすべてではありません。使徒は「あなたがたが満たされますように」と記しています。パウロよ、どのくらいでしょうか?「神の満ち満ちたさまにまで」です!

しかし、おお、忠実な十字架の使徒よ、これは私たちの理解力を越えています。そのとおりです。しかし、「彼は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、はるかに豊かに施せる方」です。なぜなら、ここに人の観念が入り込む余地はないからです!「私たちのうちに働く力によって」(エペソ三・二〇)、私たちはキリストの愛で満たされることができます。私たちは満たしに満たされて、神の満ち満ちたさまにまで満たされます。そうして、「水かさは増し、泳げるほど」(エゼキエル四七・五)になります!

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以上の言葉を読んだ人の中には、「ああ、このさいわいな生活を自分も送れたら!」と心の中で叫んでいる方がいるかもしれません。神の子どもよ、もし神の霊の内なる働きに信頼せずに、カルバリの解放を実現しようと空しく努力しているのなら、あなたの全存在を彼に開いて、その御手に自分を委ねなさい。彼は、あなたを十字架につけられた方にしっかりと結び合わせ、あなたの内に生ける主を啓示してくださいます。この方に明け渡しなさい。

あなたはどんな代価を払っても、喜んで絶対的に彼に服従されるでしょうか?あなたの人生の通行権を全く彼に渡されるでしょうか?今、信仰の知らせのための用意はできているでしょうか?そうならば、もう一度カルバリに向かいなさい。死なれた方を仰ぎ見る時、「私はキリストと共に死んだ」と書いてある神の御言葉を思い切って信じなさい。そうするなら、奥義である神の知恵が永遠の霊(ヘブル九・十四)によってあなたに啓示されます。

「しかし、御霊の油塗りとは何でしょう?」

あなたは王の奉仕の中におられるでしょうか?聖霊があなたの内にキリストを啓示される時、あなたの主があなたの内に住んでおられることだけでなく、あなたがキリストのからだの一員であることも、あなたは理解するでしょう。あなたがそのからだの中で自分のいるべき所にもたらされる時、彼のともがらにましてキリストを油塗った聖なる油は、あなたの上を、あなたを通して流れ、神のみこころのあらゆる奉仕のためにあなたを油塗り、彼の衣の裾にまで流れ下ります。

あなたが自分を彼のみこころに明け渡す時、キリストご自身があなたを通して聖霊によって力強く働かれます。しかし、次のことを覚えていてください。「賜物にはいろいろな種類がありますが、御霊は同じ御霊です」。「働きにはいろいろな種類がありますが、神はすべての中ですべての働きをなさる同じ神です」。「同一の御霊がすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(一コリント十二・四~十一参照)。

神の御子は彼のともがらにまして喜びの油を注がれました。なぜなら、御子は「義を愛し、不正を憎んだ」からです(ヘブル一・九)。キリストは同じように罪に対する深い憎しみと、神の義から出たすべてのものに対する愛とをあなたの内に送ってくださいます。あなたはあなたの主を愛なる神としてだけでなく、恐るべき聖なる神としても愛するようになるでしょう。あなたは自分の内にある主にふさわしくないものをことごとく主によって厳格に対処されることを切望するようになり、主の聖さにあずかる者となるために喜んで懲らしめを受けるようになるでしょう。そうしてあなたは、あなたの主といっそう親密な絆で結ばれ、彼の油塗りにあずかる者となるでしょう。彼の御国の杖は「公正な」杖、「厳格な」杖です(ヘブル一・八、欽定訳欄外)。

聖霊に明け渡したことを覚えつつ、今一歩一歩御霊によって歩みなさい。彼だけに拠り頼み、彼のみこころと喜びだけを求めなさい。そうするなら、彼はあなたを導き続け、どのようにあなたの主の中に住むのか教えてくださいます。あなたは彼の奥義的からだの中で、あなたのいるべき所に調整されます。そしてあなたは知るでしょう、「彼から受けた油塗りがあなたがたのうちにとどまっています。(中略)同じ油塗りがすべてのことについてあなたがたを教えます。それは真理であって、偽りではありません。それがあなたがたに教えたとおりに、あなたがたは彼のうちにとどまるのです」(一ヨハネ二・二七、欽定訳)。